第3話
第3話
倉庫を出てからバンに乗るまでの三十秒間、神崎は自分の心拍数を数えていた。
百十二。高い。だが、坂口と真壁に悟られるほどではない。呼吸を意識的に深くする。横隔膜を下げ、肺の底に空気を入れ、五秒かけて吐く。訓練で叩き込まれた自律制御。公安時代、拷問対応の座学で教わった技術が、まさか自分の動揺を隠すために使われるとは。
真壁の運転するバンが湾岸道路に入った。街灯の光が一定間隔で車内を撫でていく。オレンジ色の明滅が、坂口の無表情な横顔を一瞬だけ浮かび上がらせては消す。坂口は助手席で黙っている。真壁はラジオをつけた。深夜の交通情報。首都高の渋滞状況を淡々と読み上げるアナウンサーの声。日常の音。その日常が、今の神崎にはひどく遠い。
久我誠一郎。
名前を頭の中で反芻するだけで、胃の底が冷える。三年前の報告書の文面が、一字一句正確に蘇った。公安の訓練で身につけた記憶術は、こういうとき残酷なまでに正確に機能する。
——対象者・久我誠一郎。財務省大臣官房付。国際犯罪組織への資金洗浄関与の疑いにより内偵中、二〇二三年一月十五日を最後に消息不明。同年四月、関係者の証言および状況証拠により死亡と断定。担当管理官:桐生孝之。
死亡と断定。その四文字を書いたのは桐生だ。
バンが首都高に入る。加速。エンジンの振動が座席を通じて伝わってくる。神崎は窓ガラスに額を押し当てた。冷たい。その温度で思考を繋ぎ止める。
久我は生きていた。では、桐生は嘘をついたのか。それとも桐生自身も騙されていたのか。
後者の可能性を検討する。久我の失踪後、死亡認定までの三ヶ月間に何があったのか。報告書には「関係者の証言」とあった。その関係者とは誰だ。神崎にはアクセス権がなかった。潜入前の引き継ぎで渡されたのは、黒竜会の組織図と主要構成員のプロファイルだけだ。久我の件は任務の範囲外——そう説明された。
だが今、久我は黒竜会の倉庫にいる。範囲外だったはずの案件が、三年かけて目の前に落ちてきた。偶然か。
偶然は、この世界では最も疑うべきものだ。
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午前三時。歌舞伎町の事務所に戻った神崎は、坂口と真壁を先に帰した。
「蛇島さんへの報告は俺がやる。お前らは明日の通常業務に戻れ」
二人は異論なく従った。倉庫の中身について何も訊かない。それが組織で生き残る作法だと、身体で覚えている人間たちだ。
一人になった事務所で、神崎は蛇島に電話した。
三コールで出た。蛇島はまだ起きていた。
「確認しました。荷物は無事です」
「状態は」
「意識あり。外傷は軽度。数日は持ちます」
「そうか」
沈黙。蛇島が言葉を選んでいるのが分かった。受話口の向こうで氷の音。ウイスキーか。蛇島は考えるとき必ず酒を傾ける。それも安物ではない——その拘りだけが、元は堅気だった男の名残だ。
「あの荷物はな、上からの預かり物だ」
上。黒竜会の上部構造。三年間追い続けてきた霧の向こう側。
「預かり物、ですか」
「俺たちが管理して、時期が来たら引き渡す。それだけの話だ。お前はあの倉庫の見回りを週二回やれ。異常があれば俺に直接報告しろ。他の奴には話すな」
「了解しました」
「それから——あの男に余計な口をきくな。飯と水だけ差し入れろ」
通話が切れた。
神崎は携帯をテーブルに置き、天井を仰いだ。蛍光灯の明滅は相変わらずだ。昨夜タケが殴られた場所の床に、まだ薄い血の跡が残っている。
蛇島は久我の素性を知っているのか。知った上で「荷物」と呼んでいるのか。あるいは、蛇島にとっても久我は中身の分からないブラックボックスなのか。
「上からの預かり物」。その言い回しが引っかかる。蛇島ほどの男が、中身も分からずに人間一人を保管するとは思えない。だが、蛇島が全てを把握しているなら、わざわざ末端の神崎に管理を任せる理由が薄い。信頼できる側近——陣内あたりに任せるのが自然だ。
仮説が二つ浮かぶ。
一つ。蛇島は久我の正体を知らされていない。上から命じられた通りに保管しているだけ。その場合、久我の管理は蛇島にとってリスクの高い案件であり、万が一の際に切り捨てられる駒として神崎が選ばれた。
二つ。蛇島は知っている。知った上で、神崎を試している。久我に接触させたとき、神崎がどう反応するかを見るための布石。
どちらにせよ、神崎の立場は薄氷の上だ。
煙草に火をつける。紫煙が天井に昇る。思考を切り替えろ。感情を挟むな。情報を整理しろ。
事実だけを並べる。
一、久我誠一郎は生きている。 二、黒竜会が久我を拘束している。 三、拘束は「上」の指示による。 四、公安の報告書では久我は死亡扱い。 五、報告書の作成者は桐生。
この五つの事実から導ける推論。桐生は久我の生存を知っていた可能性がある。知っていて死亡報告を書いたなら、それは虚偽公文書作成だ。公安の管理官がその罪を犯す動機は限られる。誰かに命じられたか、何かを隠す必要があったか。
あるいは——桐生自身が、「上」の側の人間か。
その仮説に触れた瞬間、神崎の思考が一瞬止まった。背筋を冷たいものが這い下りる。
もし桐生が敵側なら。この三年間の潜入任務は、最初から敵に筒抜けだったことになる。神崎の行動、収集した情報、定期連絡の内容——すべてが桐生を通じて漏れていた可能性がある。
それでも殺されなかった理由は単純だ。神崎が核心に一度も触れなかったからだ。末端の情報を拾い続ける無害な駒。桐生にとって、泳がせておく方が管理しやすい存在だった。
だが、今夜、神崎は久我を見た。
この事実が桐生の耳に入れば——状況が変わる。
煙草を灰皿に押し潰した。指先が微かに震えていたが、今度はそれを抑えなかった。一人だ。見ている目はない。
窓の外で空が白み始めていた。歌舞伎町のネオンが、薄明の中で色を失っていく。始発電車の音が遠くから聞こえた。街が動き出す。何も知らない人々の、何も変わらない朝が始まる。
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公安への定期連絡日は明日だ。
月に二回、決められた手順で桐生に接触する。場所は毎回変わるが、方法は固定されている。使い捨ての携帯で指定のサーバーにテキストを送信し、桐生が指定した場所で三十分以内に対面する。連絡を飛ばせば、異常事態と見なされる。最悪の場合、潜入が破綻したと判断され、公安側が独自に動く。
報告するか、しないか。
報告すれば——桐生に久我の生存が伝わる。桐生が黒なら、神崎は消される。白であっても、公安が動けば黒竜会に察知されるリスクがある。どちらに転んでも、今の綱渡りが終わる。
報告しなければ——桐生への裏切りになる。三年間の信頼関係が崩壊する。だが、その信頼関係自体が虚構だった可能性がある以上、守る価値があるのかどうか。
ベッドに横になったが、眠れるはずもなかった。天井の染みを数える。十二個。昨日と同じ数。変わらない天井。変わってしまった世界。薄い壁の向こうから、隣室の住人が咳き込む音が聞こえた。この安アパートの壁は何もかもを通す。声も、音も、おそらくは銃弾も。
目を閉じる。久我の目を思い出す。コンテナの暗闘の中で、こちらを値踏みしていたあの視線。恐怖でも怒りでもない、何かを見定めようとする冷徹な目。あの男は何を知っている。なぜ生かされている。「帳簿」という言葉が頭をよぎった。久我の経歴——財務省出身、資金洗浄容疑。金の流れを知る人間。殺すより生かして利用する価値がある人間。
久我は鍵だ。黒竜会の上部構造への、そして桐生の真意への。
定期連絡まで、あと二十時間。
神崎は目を開けた。決断はまだ下せない。だが一つだけ確かなことがある。
明日、桐生の声を聞いたとき——その声に含まれるわずかな温度の変化を、一音も聞き逃すわけにはいかない。
使い捨て携帯を枕元に置く。画面は暗いまま、沈黙している。明日この画面に触れる指が、自分の運命を決める。
報告すれば、消されるかもしれない。
黙っていれば、二度と戻れない場所へ踏み出すことになる。
薄明の光が、カーテンの隙間から一筋だけ差し込んでいた。歌舞伎町に朝が来る。だが神崎の夜は、まだ明けていない。