第2話
第2話
翌日、神崎は新宿の喫茶店で蛇島と向かい合った。
店の奥の席。窓のない壁際で、他の客の視線が届かない場所だった。テーブルの上には灰皿と、二つのコーヒーカップ。BGMはジャズだが、スピーカーの音量が絞られすぎて旋律がほとんど聞き取れない。蛇島は六十手前の痩せた男で、灰色の髪を丁寧に撫でつけている。一見すると中小企業の経営者にしか見えない。だが、眼だけが違う。爬虫類のように乾いた、感情の読めない眼。この男が黒竜会の実質的なナンバー2だと知ったのは、潜入して一年が経ってからだった。
「横浜の本牧埠頭に倉庫がある」
蛇島はコーヒーに口をつけもせず、本題に入った。
「今夜、そこに届く荷物を受け取れ。護衛を二人つける」
「荷物、というのは」
「着けば分かる。余計なことは訊くな」
神崎は頷いた。蛇島の語調は平坦だったが、末端に直接指示を出す時点で、通常の運び屋仕事ではない。声の温度が低い。それは蛇島が慎重になっている証拠だった。テーブルの下で神崎は右手の指を一本ずつ折り、思考を整理した。蛇島が末端を使う理由は限られている。万が一の際に切り捨てられる駒が必要なのだ。
「到着は午前一時。遅れるな。中身は確認しろ、ただし触るな」
確認しろ、触るな。矛盾した指示。荷物ではなく、人間だ。神崎の脳裏でその推測が走ったが、表情には出さなかった。
「分かりました」
蛇島が初めてコーヒーカップを持ち上げた。一口。それからカップを置き、神崎の目を五秒ほど見つめた。何かを測っている目だった。沈黙の間、換気扇の低い唸りだけが二人の間を漂った。神崎は瞬きの回数すら意識した。視線を逸らせば不審、見返しすぎれば敵意。その中間を保つことが、三年の潜入で身につけた生存技術だった。
「期待してるぞ」
その一言を残して、蛇島は席を立った。立ち上がる動作に無駄がなかった。テーブルに千円札を一枚置き、振り返らずに店を出ていく。ドアベルが乾いた音を立て、喫茶店に日常の空気が戻った。神崎は残されたコーヒーを一口飲んだ。冷めていた。舌の上に苦味だけが残った。
---
午前零時四十分。本牧埠頭。
黒い海が防波堤の向こうに広がっている。潮の匂いと錆びた鉄の匂い。ガントリークレーンのシルエットが夜空に骨格標本のように立ち並んでいた。風が冷たい。四月の横浜の海風は、革ジャンの隙間から容赦なく体温を奪う。
神崎の両脇を歩く護衛は、坂口と真壁。どちらも二十代後半、黒竜会の中堅構成員だ。坂口は百七十センチ台の中肉中背で、常に半歩遅れて歩く慎重なタイプ。真壁は逆に前に出たがる。左の腰に鉄パイプを差しているのが、ジャケットの膨らみで分かった。
三人の足音がコンクリートに反響する。街灯は三本に一本しか点いていない。影が伸びては途切れ、また伸びる。右手にコンテナが整然と積み上がっている。赤、青、緑。塗装の剥げた鉄の箱。日中は作業員が行き交う場所だが、今は人の気配がまるでない。遠くで船の汽笛が一度だけ鳴った。低く、長く。音が闇に溶けるまで、誰も口を開かなかった。
倉庫は埠頭の東端にあった。トタン屋根の平屋で、表に看板はない。錆びたシャッターの前に、黒いバンが一台停まっていた。エンジンは切れている。ナンバープレートに泥が塗られていた。
「ここか」
真壁が顎で示す。神崎は黙って頷き、シャッター横の通用口に手をかけた。鍵は開いている。蛇島が先に手配したのだろう。
中に入ると、埃と油の匂いが鼻をついた。広さは三十畳ほど。天井が高く、蛍光灯が二本だけ灯っている。薄暗い。倉庫の中央に、国際規格の二十フィートコンテナが一つ置かれていた。周囲には木製パレットと、使い古されたフォークリフトが放置されている。
コンテナの扉には南京錠がかかっていた。
「鍵はこれだ」
坂口がポケットから小さな鍵を取り出した。蛇島から渡されていたらしい。神崎は鍵を受け取り、南京錠に差し込んだ。金属が擦れる乾いた音。錠が外れる。
コンテナの扉は重かった。両手で引くと、蝶番が悲鳴を上げた。錆と潮風でまともに手入れされていない。内部から、別種の空気が流れ出した。密閉された空間特有の澱んだ臭気。それに混じる、かすかな——人間の体臭。
神崎の推測は正しかった。
暗闇に目が慣れる。コンテナの奥、壁面にパイプ椅子が一脚。その椅子に、人間が座っていた。
両手首を背もたれに結束バンドで固定されている。足首にも同様。頭にはフードが被せられ、口にはガムテープ。体格は中肉。濃紺のスラックスに白いワイシャツ。ワイシャツの襟元は黄ばみ、数日間着替えていないことが分かった。靴が片方脱げている。裸足の足先が微かに震えていた。コンテナの中の空気は外より二、三度低い。鉄の箱は太陽が沈めば冷蔵庫になる。
「これが荷物か」
真壁が後ろで呟いた。声に動揺はない。この世界では珍しくない光景だ。
神崎はコンテナの中に足を踏み入れた。靴底が鉄板を鳴らす。男の身体が微かに強張った。意識はある。
確認しろ、触るな——蛇島の言葉を思い出す。確認とは、顔の確認だろう。
フードの端に指をかけた。粗い布。神崎は一気に引き上げた。
男が顔を上げた。頬は痩け、無精髭が伸びている。唇はガムテープの下で乾き、切れていた。目元には隈が刻まれ、左の頬骨のあたりに痣がある。
だが——それらの変化を差し引いても、顔の骨格は変わらない。額の広さ、鼻筋の通り方、やや吊り上がった目尻。
神崎の呼吸が止まった。
三年前。公安外事課から回ってきた一枚の報告書。極秘扱い。対象者:久我誠一郎。財務省出身、国際犯罪組織への資金洗浄容疑で内偵中に失踪。三ヶ月後、「始末された」と記録された。死体は発見されていない。遺体なき死亡認定。
報告書を書いたのは、管理官・桐生だった。
久我誠一郎は死んでいるはずだ。三年前に、公安の記録の中で確かに死んだ。
その男が今、結束バンドで椅子に縛られ、神崎の目の前にいる。
ガムテープの下で、久我の唇が動いた。声にはならない。だが目は開いていた。濁り切った瞳の奥に、まだ光が残っている。恐怖でも懇願でもない。観察する目だ。自分を見ている人間が何者かを、値踏みしている目。数日間この椅子に縛られていたであろう男が、なお他者を見定めようとしている。その目の力に、神崎は背筋が冷えるのを感じた。この男は——折れていない。
神崎はフードを戻した。ゆっくりと。指先が震えないよう、意識して動かした。
コンテナから出る。扉を閉める。南京錠をかけ直す。一つ一つの動作に感情を乗せない。機械のように。南京錠の金属が噛み合う音が、倉庫の天井に跳ね返った。
「確認しました」
声が平坦に出たことに、自分で安堵した。
「帰りましょう。蛇島さんに報告します」
坂口と真壁は何も訊かなかった。この世界では、知らないことが身を守る。二人はそれを弁えている。
倉庫を出た。夜風が頬を叩いた。潮の匂い。コンクリートの上を歩く三人の足音。行きと同じ光景。何も変わっていない。
何も変わっていないはずだ。
だが、神崎の頭の中では嵐が吹き荒れていた。
久我誠一郎は生きていた。公安の報告書は虚偽だった。桐生が書いた報告書が。三年間信じてきた前提が、コンテナの扉を開けた瞬間に砕けた。
なぜ久我は生きている。なぜ黒竜会が久我を拘束している。蛇島の言う「荷物」とは——久我は誰から誰へ渡される存在なのか。
そして——桐生は知っているのか。
考えるな。今は考えるな。坂口と真壁の前で思考を巡らせれば、わずかな表情の揺れが命取りになる。
バンに乗り込む。真壁が運転席に座り、エンジンをかけた。ヘッドライトが埠頭のコンクリートを白く照らす。積み上げられたコンテナの影が後方に流れていく。
神崎は後部座席で窓の外を見た。横浜の夜景が、湾岸道路の向こうに光っている。みなとみらいの観覧車がゆっくりと回っている。あの光の下では、誰かが笑い、誰かが酒を飲み、平穏な夜を過ごしている。
その光景と、コンテナの中の男の目が、神崎の中で重なった。
公安の定期連絡日は、明後日だった。桐生に報告する予定の、月二回の接触日。
久我の件を報告するか。
報告すれば、桐生はどう動く。報告書が虚偽なら、桐生は久我が生きていることを知っているはずだ。知っていて始末済みと書いたなら——神崎が久我を発見したという事実は、桐生にとって都合が悪い。
都合の悪い駒を、桐生がどう扱うか。
答えは、三年間この世界で学んだ方法と同じだ。
消す。
神崎は窓ガラスに映る自分の顔を見た。暗い目。感情の消えた口元。この顔が、今夜から二つの世界の間で綱渡りを始める。
黒竜会と、公安と。
どちらも、味方ではないかもしれない。