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偽りの杭

第1話 第1話

第1話

第1話

歌舞伎町の夜は、腐った果実のように甘い匂いがする。

居酒屋の換気扇から吐き出される油煙、路上に放置されたゴミ袋から漏れる生臭さ、どこかの店から流れてくる安い香水——それらが混ざり合って、この街だけの瘴気を作り出している。慣れた鼻はもう識別しない。ただ、皮膚の内側にべったりと貼りつくような不快感だけが残る。

神崎遼一は雑居ビル四階の事務所で、安物のパイプ椅子に腰を沈めていた。壁掛け時計が午前二時を指している。蛍光灯の一本が切れかけて、不規則に明滅を繰り返していた。そのたびに影が揺れ、壁に貼られた風俗店のチラシや、画鋲で留めただけのカレンダーが一瞬だけ浮かび上がっては沈む。テーブルの上には空の缶ビールが三つ、灰皿に突き刺さった吸い殻の山、それから帳簿に見せかけた雑記帳。

「神崎さん、もう一本いきます?」

向かいに座った若い男——通称タケが、冷蔵庫から缶を取り出しかけた。二十二歳。半年前に黒竜会に入った後輩格で、人懐っこい笑顔だけが取り柄のような男だ。地方から出てきて、まともな職に就けず、気がつけばこの世界にいた——よくある話だ。タケ自身がその経緯を語ったことはないが、神崎には分かる。靴の減り方、爪の手入れの雑さ、上の者に向ける卑屈な笑い。すべてが、選択肢を持たずにここへ流れ着いた人間の所作だった。

「いらん。明日も早い」

短く返して、神崎は手元の雑記帳に視線を落とした。走り書きに見える文字列の中に、今夜の収穫が埋め込んである。構成員の大森が電話で口にした「来週の横浜」。経理の宮園が帳簿をつけるとき、左手で隠した海外送金の伝票番号。断片。いつも断片だ。三年間、断片を拾い続けている。

ペンを持つ指先が微かに強張るのを感じた。もし誰かがこの雑記帳を拾い上げ、走り書きの下に隠されたパターンに気づいたら。その想像は三年間、常に神崎の背骨に冷たいものを這わせ続けている。

核心はまだ遠い。だが確実に近づいている。そう信じなければ、この偽りの人生に意味がなくなる。

窓の外からクラクションが鳴った。酔った男の怒声。パトカーのサイレン。歌舞伎町の日常だ。三年もいれば、この騒音が子守唄に聞こえる。

神崎はかつて、公安外事課の捜査官だった。本名は記録から抹消され、戸籍上は三年前に死んでいる。殉職扱い。葬儀も行われたと聞いた。焼香を上げてくれた元同僚たちは、自分が歌舞伎町で半グレと酒を飲んでいるとは夢にも思わないだろう。

時折、夢を見る。警察学校の同期と居酒屋で笑っている夢。目が覚めると、天井の染みと煙草の残り香だけがある。同期の顔も、もう正確には思い出せない。

管理官の桐生から与えられた任務は単純明快だった。黒竜会に潜入し、上部組織との繋がりを洗え。それだけだ。だが三年経っても、黒竜会の上には霧がかかったように何も見えない。蛇島という幹部が鍵を握っている——そこまでは掴んだ。問題は、蛇島が簡単に人を信用しない男だということだ。

タケが缶ビールを開ける音がした。プシュ、という間抜けな音。

「神崎さん、黒竜会入って何年すか」

「三年」

「長いっすね。俺なんかまだ半年で、正直キツいっす。大森さん怖いし」

「慣れる」

嘘だ。慣れるのではなく、感覚を殺すのだ。最初の半年で吐き気がする仕事を三つこなした。一年目で人を殴ることに躊躇がなくなった。二年目で、自分が何者なのか分からなくなった。

鏡を見るたびに、そこに映る男が他人に見えた。こめかみに走る古い傷跡、無精髭、感情を消し去った目。かつての自分——公安の若い捜査官——の面影はもうどこにもない。

三年目の今、神崎遼一という人間は、潜入捜査官なのか、それとも本物の半グレなのか。その境界は、自分でも曖昧になりつつある。

廊下を足音が近づいてきた。重い革靴の音。複数。

神崎の指先が反射的に止まった。足音のリズムで分かる。急いでいる。そして怒っている。

事務所のドアが蹴り開けられた。

大森だった。百八十センチを超える巨体に、剃り上げた頭。その後ろに構成員が二人。大森の目は血走っていた。酒の匂いが部屋の空気を押しのけるように広がった。首筋の刺青が、蛍光灯の明滅に合わせて蠢いているように見える。

「タケ、てめえこっち来い」

タケの顔から血の気が引いた。缶ビールを持つ手が震えている。泡が缶の縁から溢れ、テーブルに小さな水溜まりを作った。

「お、大森さん、なんすか——」

「シラ切んなよ。今日の集金、三万足りねえぞ」

「それは、あの、相手が——」

大森がタケの胸倉を掴み、壁に叩きつけた。鈍い音。タケの背中が棚にぶつかり、書類が散らばった。

「言い訳すんな。足りねえ分はてめえの身体で払え」

拳がタケの腹に沈む。一発。二発。鈍く湿った音が事務所に反響した。タケが膝から崩れた。呻き声。三発目は顔面だった。鼻から血が噴き出す。赤い飛沫がリノリウムの床に点々と散った。

神崎はパイプ椅子に座ったまま、缶ビールの水滴を指で拭った。

表情を殺す。これは日常だ。組織とはこういう場所だ。ここで庇えば、自分の立場が危うくなる。三年かけて築いた信頼が崩れる。

左手の拳が、テーブルの下で強く握り締められていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、自分がまだ何かを感じていることの証だった。

タケの視線が一瞬、神崎を捉えた。助けを求める目。

神崎はその目を見なかった。

大森の制裁は五分で終わった。タケは床に転がったまま、荒い呼吸を繰り返している。大森は唾を吐き、何も言わずに部屋を出ていった。取り巻きの二人が後に続き、重い革靴の音が廊下を遠ざかっていく。最後にドアが乱暴に閉まる音がして、それきりだった。

静寂が戻る。蛍光灯の明滅だけが音を立てる。

神崎は立ち上がり、タケの横にしゃがんだ。ポケットからハンカチを出し、床に置く。近くで見ると、タケの左頬は既に紫色に腫れ上がり、鼻梁がわずかに曲がっているように見えた。折れてはいないだろうが、しばらくは痛む。

「鼻、自分で押さえろ」

それだけ言って、窓際に移動した。煙草に火をつける。紫煙が蛍光灯の光に揺れた。

タケの嗚咽が背中に届く。三年前の自分なら、大森を止めていた。公安の正義感で。今はできない。この世界で生き残るために、感情は邪魔だ。

だが——腹の底に沈殿するこの重さは何だ。怒りか。罪悪感か。それとも、自分がここにいる理由を見失いかけている恐怖か。

煙草を深く吸い込む。煙を肺の奥まで入れて、ゆっくり吐いた。窓ガラスに映る自分の顔は、歌舞伎町のネオンに照らされて輪郭だけが浮かんでいる。目の奥に光はない。

あと少しだ。蛇島に近づけば、黒竜会の上部構造が見える。そこに手が届けば、三年間の意味が生まれる。タケの血も、自分が汚した手も、すべてに理由がつく。

そう言い聞かせた。何百回目か分からない、同じ言葉を。

携帯が震えた。

非登録番号。この時間に。神崎は煙草を灰皿に押し潰し、画面を確認した。

黒竜会の内部連絡用回線だ。番号は——蛇島直通。

心臓が跳ねた。三年間、一度もかかってきたことのない番号。指先に走った震えを、左手で右手首を掴むことで抑え込んだ。背後ではタケがまだ呻いている。この瞬間を悟られるわけにはいかない。

通話ボタンを押す。

「——神崎か」

低く、砂利を噛むような声。蛇島だった。受話口の向こうで、微かに氷がグラスに当たる音がした。

「はい」

「明日の昼、新宿のいつもの店に来い。お前に仕事を頼みたい」

「仕事、ですか」

「詳しいことは会ってからだ。遅れるなよ」

通話が切れた。十秒に満たないやり取り。だがその十秒が、三年間で最も重い十秒だった。

蛇島が直接、末端の自分に連絡してきた。それが意味するところは一つしかない。

神崎は窓の外に目をやった。歌舞伎町のネオンが、雨上がりの路面に滲んでいる。赤、青、紫。毒々しい光の洪水。その光の中を、傘も差さずに歩く人影がいくつか通り過ぎていく。誰もが何かから逃げているように見える街だった。

ようやく、扉が開こうとしている。

床ではタケがまだ丸まっていた。血の匂いが、安い芳香剤と混じって事務所に漂っている。

神崎は携帯をポケットにしまい、もう一度だけタケに声をかけた。

「帰れるなら帰れ。明日も早い」

タケが何か呟いた。聞き取れなかった。聞き取る必要もなかった。

明日からは、もう後輩の心配をしている余裕はなくなる。

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