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聖樹会病院の零号

第3話 第3話

第3話

第3話

降りる、と決めたのは午前三時を過ぎた頃だった。

 上階の構造を霊力で軽く走査し、二階以上の怪異分布を確認した。濃度は高いが、即座に襲いかかる気配はない。それぞれの階で「待っている」という表現が正しかった。階層ごとに番人がいるような、整然とした配置。廃墟にあるまじき秩序だった。

 地下への階段に戻った。

 さっきは身体が拒絶した。今もしている。膝の裏が強張り、足首の関節がわずかに軋む。背筋に張りついた冷たい汗が蒸発もせず、薄い膜になって肌を覆っている。だが今度は意識の手綱を放さなかった。奥歯を噛み締め、呼吸を意図的に浅く固定する。霊力を臨戦態勢に固定したまま、一段目に足をかける。

 冷気が靴底から染みてきた。ゴム底を貫通する、骨に届くような冷たさだった。二段目。三段目。階段を一歩降りるごとに空気の粘度が増す。水中に沈んでいくような圧迫感が全身を包み、懐中電灯の光が目に見えて届かなくなっていく。鼓膜が圧される。地上の虫の声も風の音も完全に消え、自分の心臓の音だけが耳の奥で鳴っていた。五段目で光の到達距離が半分になった。七段目で三分の一。十段目を越えたとき、光はもう足元の一段先を照らすのがやっとだった。

 闇が、光を食っている。

 霊気ではない。物理的な暗闇だ。この地下空間に満ちた何かが、光子そのものを吸収している。

 階段が終わった。足が平らな床を踏む。リノリウムではない。コンクリートの打ちっぱなし。表面がわずかに湿っている。靴底が微かに粘る感触があり、地下水なのか、それとも別の液体なのか判別がつかなかった。空気に混じる匂いが変わっていた。消毒液の残滓。何十年も前に染みついたホルマリンの痕跡が、コンクリートの毛穴からまだ滲み出している。

 懐中電灯をしまった。意味がない。代わりに右手に霊力を集中させ、淡い白光を灯す。こちらは闇に呑まれない。霊力の光が半径三メートルほどの球体を作り、地下隔離病棟の輪郭を浮かび上がらせた。

 廊下だ。幅は二メートルに満たない。天井が低い。一階の廊下より三十センチは低く、圧迫感がさらに増す。左右に鉄扉が並んでいる。扉には小さな覗き窓がついており、そのすべてが内側から黒く塗りつぶされていた。塗料ではない。覗き窓に顔を寄せると、ガラスの内側にこびりついた黒い染みだった。手で塗り潰したような指の跡が、乾いた血のように残っている。

 独房だ。隔離病棟というより、監獄に近い。

 一歩踏み出したとき、気配が変わった。

 来た。

 霊力の光の届かない暗闘の奥から、それらは一斉に滲み出してきた。壁から、天井から、床の隙間から。黒い靄のような体躯——だが一階の浮遊霊とは質が違う。一体一体の密度が桁外れに高い。C級、いや、B級に届くものもいる。肌が粟立ち、毛穴という毛穴が一斉に閉じた。そしてその数が尋常ではなかった。

 十。二十。まだ増える。廊下の奥から、独房の壁を透過して、次々に顕現する。三十を超えたあたりで数えるのをやめた。

 囲まれている。

 霊力を攻撃態勢に切り替えようとした。右手に力を集中させ——

 止まった。

 攻撃してこない。

 怪異たちは俺を取り囲んでいるが、一体も攻撃の姿勢を見せていない。通常の怪異が持つ敵意、縄張り意識、捕食本能。そのいずれも感じられない。代わりにあるのは、もっと複雑で、もっと湿った感情だった。

 纏わりつく。

 そう表現するしかなかった。怪異たちが少しずつ距離を詰めてくる。攻撃ではない。触れたがっている。黒い靄の触手が俺の周囲の霊力の膜に接触し、弾かれ、また伸びる。何度も。何度も。しつこく、けれど暴力的ではなく、まるで——。

 縋っている。

 そう気づいたとき、泣き声が聞こえた。

 さっき階段の上で聞いたものとは比較にならない近さだった。四方八方から押し寄せる子供の嗚咽。高い声。幼い声。五歳か、六歳か。言葉にならない泣き声が廊下に反響し、コンクリートの壁が共鳴してびりびりと震えた。声が壁を伝い、天井を這い、足元から這い上がってくる。まるで建物全体が泣いているようだった。

 俺は霊力を維持したまま、動かなかった。

 攻撃する理由がない。こちらに害意を向けていない相手を浄化するのは俺の流儀ではない——というのは建前で、本当の理由は別にあった。この泣き声を聞いていると、胸の奥で何かがざわつく。凍りついていたはずの場所が、少しずつ温度を持ち始めている。

 不快ではなかった。不快ではないことが、怖かった。

 怪異たちの形が、霊力の光の中で徐々に鮮明になっていく。黒い靄が薄れ、その内側にある輪郭が透けて見え始めた。

 小さい。

 どの怪異も、小さかった。大人の腰ほどの高さしかない。頭があり、胴があり、手足がある。人の形だ。子供の形だ。

 全員が子供だった。

 五歳から十歳くらいまでの、様々な年齢の子供たち。顔の造作は霊気に侵食されて崩れているが、体格だけは生前の姿を留めている。病衣のようなものを纏った小さな影が、何十体も俺を囲んでいる。

 泣いている。全員が泣いている。

 そして全員が、俺に手を伸ばしている。

 一体が、霊力の膜を抜けた。

 反射的に防御を強化しようとして——できなかった。その子供の怪異は俺の霊力に抵抗せず、水が染み込むように膜を透過してきた。俺の霊力と同じ周波数。同じ術式の残滓が、この子供の中にある。だから防御が効かない。敵として認識できない。

 冷たい手が、俺の左腕を掴んだ。

 小さな手だった。指が五本あり、爪は黒く変色している。掴む力は弱い。握っているというより、添えている。その手から伝わってくるのは攻撃の意思ではなく、もっと原始的な感情だった。

 寂しい。ずっと寂しかった。ここは暗くて、冷たくて、誰も来なくて。ずっと待っていた。

 感情が直接流れ込んでくる。接触を通じた残留思念の伝達。だがこれほど鮮明な感情伝達は初めてだった。通常の怪異の残留思念は映像の断片や音声の欠片程度でしかない。この子供の感情は、生きている人間のそれと変わらないほど生々しかった。寂しさの底に、理由も分からず閉じ込められた困惑があった。何が悪かったのか分からない。なぜここにいるのか分からない。ただ暗い部屋に置かれて、扉が閉まって、それきりだった——そんな記憶の断片が、波のように打ち寄せてくる。

 顔を見た。

 崩れかけた輪郭の中に、目があった。黒い靄に覆われた顔の中で、目だけが生前の色を保っている。茶色の瞳。涙で濡れている。涙を流す怪異など、見たことがない。

 唇が動いた。

 声は出なかった。出なかったが、読めた。口の形で、伝わった。

 ——にいちゃん。

 心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。

 幻聴ではない。さっき階段で聞いた声の正体がこれだ。この子供が、俺を呼んでいた。

 知らない。この子供を知らない。記憶にない。なのに左腕を掴む小さな手の冷たさが、どこかで感じたことのある冷たさだった。冬の夜に、誰かの手を握った記憶。頭にはない。掌だけが覚えている。指先から手首へ、手首から肘へ、冷たさがゆっくりと昇ってくる。冷たいのに、振り払う気が起きない。懐かしい、とすら感じている自分がいた。

 周囲の怪異たちが、さらに距離を詰めてきた。

 全員が泣きながら俺に手を伸ばしている。「にいちゃん」と呼んでいるのがこの一体だけなのか、それとも全員がそう呼んでいるのか、もう判別がつかない。泣き声と呼び声が混じり合い、廊下を満たしている。

 左腕の子供の手に、力がこもった。弱い力だ。引っ張っているのではない。離したくないだけだ。

 俺はその手を振り払わなかった。

 振り払えなかったのではない。振り払わなかった。理由は分からない。分からないが、この手を払うことは——してはいけないと、身体の奥底が言っている。

 廊下の先、暗闇のさらに奥に、もっと深い空間がある。独房が並ぶ区画を越えた先に、この病棟の最深部がある。それを身体が知っている。

 子供たちの泣き声が、わずかに変わった。悲しみだけではない。怯えが混じり始めている。小さな身体が震え、俺の腕を掴む手がきつくなった。他の子供たちも一斉に身を寄せてくる。霊力の膜の外側から、内側から、四方から冷たい手が服の裾を引き、腕に縋り、背中に額を押し当ててくる。

 奥から、何かが来る。

 霊気の密度がさらに跳ね上がった。子供たちの怪異がざわめき、俺の周囲に集まってくる。攻撃のためではない。逆だ。俺の背後に隠れようとしている。

 廊下の最奥、霊力の光すら届かない暗闇の中で、鉄扉がゆっくりと開く音がした。

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