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聖樹会病院の零号

第2話 第2話

第2話

第2話

玄関ホールに踏み込んだ瞬間、闇が閉じた。

 背後の正門から差し込んでいた月明かりが、まるでカーテンを引かれたように遮断される。物理的にありえない。振り返れば割れた窓ガラスの向こうに夜空が見えているはずだ。けれど振り返る気にならなかった。身体が前を向けと言っている。

 懐中電灯を点けた。白い光の円が床を舐める。リノリウムの床。薄緑色だったはずの表面は汚れと経年で灰色に変わり、ところどころ剥がれて下地のコンクリートが覗いていた。受付カウンターの残骸が右手にある。アクリル板の仕切りが傾き、その奥に崩れた書類棚が見えた。

 空気が重い。外よりもさらに温度が低く、吐く息がうっすらと白い。四月だ。異常な冷気が肌を撫でるたびに、毛穴が一つずつ閉じていく感覚がある。

 そして、匂い。

 消毒液の匂いが、ここでは外よりもはっきりとしていた。十五年前の残留物ではない。これは記憶の匂いだ。この場所に染みついた無数の感情が、嗅覚を通じて再生されている。死者たちの恐怖、苦痛、そして——なぜか安堵。それらが入り混じった残留思念が、消毒液という形で俺の鼻腔に届いている。

 受付を過ぎ、外来棟へ続く廊下に足を踏み入れた。

 左右に診察室が並ぶ。扉はすべて開いていた。いや——正確には、扉がない。蝶番だけが壁に残り、扉そのものがどこかへ消えている。十五年の間に朽ちて崩れたのか、あるいは何かが持ち去ったのか。

 最初の浮遊霊を感知したのは、三番目の診察室の前だった。

 気配は薄い。D級、いや、E級程度の残留思念体。生前の形を保つ力すら残っておらず、白い靄のようなものが天井の隅で揺らいでいるだけだ。俺が近づくと、靄がわずかに震えた。恐怖だ。こちらを恐れている。

 右手を軽く振った。浄化の光が靄を包み、二秒で散った。手応えすらない。

 次。廊下の突き当たりを左に折れた先に、三体。いずれも同程度の弱さで、まとめて処理した。五秒。

 そのとき気づいた。

 ——左に曲がることを、迷わなかった。

 懐中電灯で照らしているのは正面だけだ。廊下の分岐に案内板はない。壁の表示はすべて剥がれ落ちている。それなのに俺は、突き当たりの三メートル手前で減速し、左に曲がることを身体が決めていた。

 立ち止まった。光の円を壁に当てる。何もない。ただの灰色の壁だ。けれど足の裏が、右ではなく左だと言っている。さっきの門柱と同じだ。頭は知らない。身体だけが知っている。

 試してみることにした。

 懐中電灯を消した。

 完全な暗闇。視覚が遮断されると、霊気の流れだけが空間の輪郭を描く。建物の構造が、霊力を介して感覚的に浮かび上がる——というのは、通常の廃墟でも使う手法だ。だが、ここでは違うことが起きた。

 目を閉じた瞬間、足が勝手に歩き始めた。

 一歩、二歩。壁に触れるまでもなく、右の壁との距離が七十センチであることを身体が把握している。左の壁までは百十センチ。天井は二メートル四十。廊下の幅、高さ、曲がり角の位置。それらすべてが、地図を読むように自然に浮かぶ。

 これは霊力による空間把握ではない。もっと原始的な何かだ。幼い頃に住んでいた家を暗闇でも歩けるように、身体に刻まれた空間記憶。

 目を開けた。懐中電灯を点け直す。光に照らされた廊下の先に、小さな窓があった。窓の外には中庭らしき空間が広がり、月光がわずかに差し込んでいる。

 窓の位置を知っていた。この廊下を進んだ先の右手に窓があり、そこから中庭が見えること。中庭に枯れた桜の木が一本立っていること。枝が右にだけ伸びていること。

 光を窓に向けた。枯れた木が一本。枝は右に偏って伸びている。

 胃の底が冷えた。

 身体が覚えているという次元を超えている。この病院で過ごした人間の記憶だ。それも短期間ではない。窓からの景色を覚えているということは、何度もここを通ったということだ。何度も。日常的に。

 ——患者として。

 その推測が浮かんだ瞬間、全身に鳥肌が立った。振り払うように歩を進める。感情を挟むな。まず事実を集めろ。

 外来棟の浮遊霊は全部で十二体。いずれもE級からD級で、制圧に要した時間は合計三分に満たなかった。病院全体の霊気の濃さから考えれば、この階は異常なほど空疎だ。力の大半は上階と地下に集中しているのだろう。一階はいわば表層にすぎない。

 だが気になることが一つあった。浮遊霊たちの反応だ。通常、怪異は霊能力者を脅威と認識して攻撃するか、逃走するかの二択を取る。ここの浮遊霊は違った。俺が近づくと震え、浄化されるとき——一瞬だけ、安堵の色を見せた。

 解放されたがっていた。ここに縛られることを望んでいた霊は一体もいない。

 外来棟を一巡し、建物の中央部に戻った。エレベーターホールの残骸。箱はとうに落下したのか、シャフトの開口部が黒い口を開けている。その横に、上階への階段。そして——

 目が、下に向いた。

 地下への階段。

 コンクリートの段が暗闇に沈んでいく。懐中電灯の光を向けても、五段目より先は闇に呑まれて見えない。濃い。上階の比ではない霊気が、階段の下から立ち昇っている。粘度のある冷気が足元を這い、ズボンの裾を湿らせた。

 匂いが変わった。消毒液ではない。もっと古い、もっと深い匂い。地下の土と、錆びた鉄と、そして微かに——血。十五年経ってなお残る、血の記憶。

 一段目に足をかけようとした。

 霊力が弾けた。

 自分の意思ではない。俺の霊力が、許可なく全身を覆った。防御形態。戦闘時に意識的に展開する霊力の膜が、俺の命令を待たずに起動した。こんなことは一度もない。

 二段目に進もうとした足が動かなかった。膝が固まっている。筋肉が、骨が、細胞の一つ一つが下降を拒絶している。恐怖ではない。もっと根源的な何か。火に手を近づけたときに反射的に引くのと同じ——本能の警告。

 「下」に何があるのかを、俺の身体は知っている。

 そして、知っているからこそ、全力で拒絶している。

 階段の下から、風が吹き上がった。生温い、湿った風。その風に乗って、声が聞こえた。

 泣き声。

 一人ではない。二人でも三人でもない。何人もの子供の泣き声が、地下の闇の底から重なり合って昇ってくる。高い声、低い声、かすれた声、叫びに近い声。それらが混じり合い、一つの音の塊となって階段を這い上がる。

 俺の霊力が、さらに厚くなった。全身が白い光に包まれている。こんな出力は意図していない。身体が勝手に最大防御を敷いている。

 泣き声の中に、一つだけ違う音が混じっていた。

 ——にい、ちゃん。

 聞き間違いかもしれない。子供たちの嗚咽に紛れた、ただの音の偶然かもしれない。だが鼓膜が拾ったその二音節は、俺の胸の奥で凍りついた何かをわずかに軋ませた。

 足が、一歩だけ下がった。霊力が防御を維持したまま、身体が階段から距離を取る。俺の意思ではない。知らない。こんな反応は知らない。氷室蓮は後退しない。二十七年間、一度たりとも化け物の前で退いたことはない。

 なのに身体は、あの泣き声から逃げようとしている。

 逃げようとしているのではない、と気づいたのは数秒後だった。

 守ろうとしている。

 何を。誰を。何から。分からない。だが身体に刻まれた反射は明確だった。あの声に近づいてはいけない。近づけば——壊れる。何かが。俺ではない何かが、取り返しのつかない形で。

 階段の闇を見据えたまま、俺は呼吸を整えた。霊力の制御を意識的に取り戻す。暴走する防御を一枚ずつ剥がし、通常の臨戦態勢まで引き下げる。三十秒かかった。たった三十秒が、途方もなく長い。

 地下はまだ早い。

 そう判断したのは、戦術的な理由だ。一階の探索で得た情報が少なすぎる。地下に何があるかを把握しないまま降りるのは愚策だ。——そう自分に言い聞かせた。本能の拒絶に従ったのだとは、認めたくなかった。

 視線を階段から引き剥がし、上階へ目を向けた。

 その瞬間、地下から吹き上がっていた風がぴたりと止んだ。泣き声も消えた。まるで俺が「まだ来ない」と決めたことを、下にいる何かが理解したように。

 待っている。あの暗闇の底で、俺が降りてくるのを、待っている。

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