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聖樹会病院の零号

第1話 第1話

第1話

第1話

化け物が、泣いていた。

 廃工場の最奥、錆びた配管が天井を這う暗闘の中で、それは人の形を保てなくなりながらも、確かに泣いていた。女の声だった。三十代か、四十代か。生前の輪郭はもう読み取れない。ただ黒い靄のような体躯から伸びた無数の腕が、壁を、床を、空気を掻きむしっている。  コンクリートを引っ掻く音が断続的に響く。爪のない指が壁面に白い筋をつけるたびに、錆びた鉄粉が舞い落ちた。泣き声には言葉が混じっていた。「かえして」「かえして」——何度も同じ音の連なりが繰り返されている。聞こうとしなければ聞き取れない程度の、途切れ途切れの嗚咽。  俺は右手を持ち上げた。  霊力が指先に集まる感覚は、もう息をするのと変わらない。意識するまでもなく練り上げられた力が白い光の帯となって暗闇を裂き、化け物の核を正確に貫いた。  悲鳴すら上がらなかった。泣き声が途切れ、黒い靄が塵のように散り、数秒後には湿った空気だけが残った。  天井の配管を伝って水滴が落ちる音だけが、沈黙を刻んでいる。核を砕かれた残滓が床にわずかな染みを残していた。明日には乾いて消える。いつもそうだ。化け物が存在した痕跡は、何も残らない。「かえして」が何を返してほしかったのか、俺が知ることは永遠にない。知る必要もない。  消毒液みたいな匂いがした——いや、違う。工場の薬品だろう。  腕時計を確認する。午前二時十七分。依頼を受けてから現地到着まで四十分、制圧に八分。合計五十分弱。悪くない。  スマートフォンを取り出し、依頼主に定型文を送る。「処理完了。請求は桐生経由で」。それだけだ。化け物の正体も、なぜここに縛られていたのかも、俺には関係がない。  氷室蓮。裏社会では「最強の霊能力者」と呼ばれているらしい。自分でそう名乗ったことはないが、否定する理由もなかった。恐怖という感情がいつから消えたのか、もう思い出せない。たぶん最初からなかったのだと思う。  感情が欠落しているとは思わない。腹は減るし、眠ければ苛立つ。ただ、怖いという感覚だけが——何かに接続されていないコードのように、入力があっても信号が届かない。子供の頃からそうだった気がするが、子供の頃の記憶自体がほとんど残っていない。

 車に戻ると、助手席に置いたスマートフォンが震えていた。桐生からだ。 「終わったか」 「八分」 「相変わらず化け物だな、お前は」  桐生宗一郎。俺の仲介人であり、裏社会における数少ない接点だ。五十がらみの元刑事で、霊感は欠片もないくせに、この業界で二十年以上メシを食っている。 「次の案件がある。急ぎだ」 「場所は」 「聖樹会病院。聞いたことあるか」  バックミラーに映る自分の目を見た。聞いたことはない。ないはずだ。なのに、その名前を耳にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。気のせいだろう。 「ない」 「郊外の精神病院跡だ。十五年前に閉鎖された。患者が一晩で全員発狂して、職員もろとも全滅したっていう、まあベタな曰く付きだな」  桐生の声に、いつもの軽さがなかった。 「依頼主は不動産業者。土地を買い取りたいが、現地調査に送った人間が三人続けて意識不明になった。二人はまだ目を覚まさない」 「報酬は」 「通常の五倍。前金で半額入ってる」  五倍。桐生がこの金額を黙って通したということは、それだけ危険だと判断したということだ。あるいは、他に引き受ける人間がいなかったか。 「一つ気になることがある」桐生の声が低くなった。「意識不明になった三人、全員が同じことを口走ってから倒れた。『帰ってきた』と」 「誰が帰ってきた」 「わからん。三人とも同じ言葉だった。監視カメラの映像が残ってる。三人とも病院の正門をくぐって十歩も歩かないうちに立ち止まって、虚空を見つめて、笑いながら『帰ってきた』と言った。それきりだ」 「笑いながら」 「ああ。三人とも、笑ってた。すげえ嬉しそうに」  その言葉が、妙に引っかかった。恐怖で叫ぶのなら理解できる。何かに怯えて逃げ出すのも。しかし笑顔で倒れる——それは恐怖の反対側だ。脳に直接快楽を注ぎ込まれたか、あるいは、本人にとって心の底から喜ばしい何かが起きたということになる。 「それだけか」 「映像は送る。車の中で見ろ。——蓮」  桐生が俺の名を呼ぶときは、たいてい面倒な言葉が続く。 「無理だと思ったら退け。誰も責めん」 「そういうことを言うのは初めてだな」 「初めてだから言ってる」  電話が切れた。  俺は窓の外を見た。工場の敷地を囲むフェンスの向こうに、街灯のない夜道が続いている。 「明日でいいか」  独り言が車内に落ちた。自分に訊いている。桐生には今夜行くと分かっているだろう。俺がこの手の依頼を断ったことはない。  エンジンをかけた。ナビに住所を入力する。郊外へ向かう高速道路は、この時間なら四十分もかからない。

 聖樹会病院は、思っていたよりも大きかった。  五階建ての鉄筋コンクリート。外壁は蔦に覆われ、正面玄関のガラスは全て割れている。駐車場だった場所は雑草に侵食され、月明かりの下で銀色に揺れていた。  車を降りた瞬間、空気が変わった。  気温が二度は低い。肌に触れる空気に粘度がある。吸い込むと肺の奥が重くなるような、目に見えない圧が全身を包んだ。  霊気が濃い。それは予想通りだった。三人の調査員を昏倒させるだけの怪異が巣食っているなら、これくらいの濃度は当然だ。だが——違う。濃さの問題ではない。この霊気には、方向がある。建物の内側から外へ向かって流れているのではなく、外から内へ、まるで呼吸するように吸い込まれている。  病院が、吸っている。  十五年間の沈黙の中で、この建物は周囲の霊気を際限なく取り込み続けてきたのだ。通常の心霊スポットは霊が気を撒き散らす。ここは逆だ。外殻は静かなまま、内側だけが膨張し続けている。風船に空気を入れ続けるようなものだ。いつか破裂する——あるいは、すでに臨界に達しているのかもしれない。  正門の前に立った。錆びた鉄柵の向こうに、玄関へ続くアプローチが延びている。割れたタイルの隙間から雑草が突き出し、その先に——  足が、止まった。  既視感。  そんな生易しい言葉では足りない。身体の奥底、骨の髄から何かが震えている。この門を、俺は知っている。くぐったことがある。いつ。いつだ。記憶を探っても何も出てこない。頭ではなく、身体が覚えている。足の裏が、この地面の傾斜を知っている。  右に三度傾いている。理由は分からないが、確信がある。足の裏が地面の角度を記憶している。それだけではない。門柱の右側、地面から七十センチほどの高さに何かが刻まれているはずだ——手を伸ばした。指先が石の表面をなぞる。蔦を掻き分けると、浅い溝があった。文字ではない。子供が石で引っ掻いたような、不規則な傷。  知っていた。これがあることを、知っていた。  一歩、踏み出した。  消毒液の匂いがした。  十五年間放置された廃墟に、消毒液の匂いが残っているはずがない。けれど確かに鼻腔を突く、あのツンとした刺激。そしてそれが——懐かしい。  懐かしいと感じた自分に、初めて恐怖に似た何かが走った。  断線していたはずのコードに、微弱な電流が流れた感覚。胸の内側が冷たくなり、指先のわずかな震えを自覚した。氷室蓮が、震えている。化け物を前にしても一度も震えなかったこの手が、誰もいない廃墟の入口で震えている。  俺はこの場所を知らない。知らないはずだ。桐生にも「ない」と答えた。嘘ではない。記憶にはない。  なのに身体は、まるで長い旅から帰ってきた人間のように、この場所に馴染んでいる。  ——帰ってきた。  調査員たちの言葉が脳裏を過ぎった。彼らは自分の意思であの言葉を口にしたのだろうか。それとも、この場所がそう言わせたのか。今この瞬間、俺の喉の奥にも同じ言葉が張り付いている。声にはしない。しないが、確かにそこにある。  風が止んだ。  建物の奥から、かすかに、子供の泣き声が聞こえた気がした。耳を澄ませる。もう聞こえない。夜の虫の声すら消えて、完全な静寂が病院を包んでいる。  霊力を臨戦態勢に引き上げた。指先が淡く光る。  正面玄関の闇が、俺を見ている。比喩ではない。暗がりの奥に、無数の視線がある。敵意ではない。期待でもない。もっと——もっと湿った、粘りつくような感情。  懐かしがっているのは、俺だけではないのかもしれない。  この病院も、俺を覚えている。  ——踏み込んだ。

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