第1話
第1話
雨が、裏切り者の頬を打つ。
冷たい。四月の雨にしては冷たすぎる。まるで十二月の夜に放り出されたような、骨まで届く冷水だった。
三ヶ月前まで、この街を守る側にいた。警視庁捜査一課、槙島隼人。今は指名手配犯。殺人容疑。被害者は十二年来の相棒——黒崎誠司。
横浜港のコンテナヤード。高さ三メートルの鉄の箱が碁盤の目に積み上がり、その隙間が迷路になる。槙島はコンテナの影に背中を預け、呼吸を殺した。鉄の壁が雨で冷えきっていて、薄いパーカー越しに背中の体温を奪っていく。歯を食いしばる。震えたら音が出る。音が出れば、見つかる。
五十メートル先、赤色灯が回っている。
赤い光が雨粒を染めながら、コンテナの壁面を一定間隔で照らしていく。その光が通過するたびに、槙島の影が鉄の壁に一瞬だけ浮かび上がり、また闇に溶けた。
検問だ。パトカー二台。制服警官が四人、懐中電灯を振りながらコンテナの間を歩いてくる。定時巡回ではない。動きが速い。目的がある。靴音のリズムが揃っている。指示系統が明確な動き方だった。現場指揮官がいる。おそらくパトカーの中に。
「——本町埠頭方面、不審者の目撃情報あり。男性、百七十五センチ前後、黒いフード——」
無線の声が雨に滲んで届く。かつて自分が使っていた周波数。犯人を追い詰めるために怒鳴り込んだ回線が、今は自分の特徴を吐いている。
槙島はフードを深く被り直した。濡れた布地が額に貼りつく。視界が狭くなる。だが顔を隠すことの方が、今は視界より重い。
光が近づく。懐中電灯の白い筋がコンテナの壁面を舐めていく。あと二十メートル。十五メートル。足音が三人分。一人は右に回り込もうとしている。
刑事の勘が、頭ではなく脊髄で動く。
右は死角が浅い。行けば挟まれる。左のコンテナ列には二段積みの隙間がある。幅は四十センチ。体は通る。その先は資材置き場。フェンスを越えれば市道に出られる。
三秒で判断した。
槙島は身を低くして左へ滑り込んだ。錆びた鉄の匂いが鼻腔を刺す。コンテナの隙間に体をねじ込み、背中の皮膚が金属の角で擦れる痛みを無視して這った。腹ばいに近い姿勢で、地面の水たまりが腹を濡らす。泥水の味が口の端に触れた。息を止める。心臓の音が鉄の壁に反響して、自分の居場所を叫んでいるような錯覚に襲われる。
懐中電灯の光が頭上を通過する。
白い光の帯が、槙島の頭上三十センチを横切った。光が通り過ぎるまでの二秒間が、三十秒に感じられた。
「こっちはクリア」
若い声だった。まだ二十代だろう。緊張が声に滲んでいる。初めての捜索かもしれない。三ヶ月前の自分なら、その声の震えを聞いて「落ち着け、基本通りにやれ」と肩を叩いていただろう。
足音が遠ざかる。槙島は二段積みの隙間を抜け、資材置き場の砂利を踏んだ。音を立てるな。刑事時代、張り込みで何百時間も訓練した足裁きで、砂利の上を滑るように移動する。つま先から着地し、体重をゆっくり移す。一歩ごとに砂利が微かに擦れる音がするが、雨音がそれを呑み込んでくれた。
フェンスに手をかけた。有刺鉄線はない。管理が甘い区画だと事前に把握していた。逃亡者は地形を記憶する。それは刑事が犯人の逃走経路を読む技術の裏返しだった。
フェンスを越え、市道に降りる。着地の衝撃が膝に走る。三ヶ月前より体が重い。まともに食えていない。睡眠も削られている。体はじわじわと削れている。それでも動ける。動けなくなった日が、終わりの日だ。背後でパトカーのドアが閉まる音。検問は継続中だが、捜索の輪はまだ広がっていない。通報レベルの対応。本格的な包囲網ではなかった。
今夜は、運が良かっただけだ。
槙島は雨の中を歩いた。フードの下で自分の呼吸を聞く。速い。心臓が暴れている。だが足は止めない。
六キロ先の安アパートまで、公共交通は使えない。監視カメラのある大通りも避ける。裏道と住宅街を縫って歩く。所要時間は一時間半。これが、指名手配犯の帰り道だった。
三ヶ月前のことを考える。
あの夜、黒崎からの着信を取らなかった。深夜二時。酔って寝ていた。スマートフォンの画面が暗い天井に青白い光を投げていたのを、半分開いた目で見た記憶がある。「また明日でいいだろう」——そう思って目を閉じた。その判断が、すべてを壊した。翌朝、黒崎は自宅マンションの駐車場で胸を刺されて死んでいた。凶器のナイフからは槙島の指紋が検出された。黒崎のスマートフォンの通話履歴は改竄され、槙島が最後に「口論した」記録が残されていた。
誰かが周到に準備した冤罪だった。
なぜ黒崎が殺されたのか。なぜ自分が犯人に仕立てられたのか。答えはまだない。だが、黒崎が死ぬ一週間前に言った言葉が頭にこびりついている。
「隼人、俺、上を調べてる」
それだけだった。何の「上」かは言わなかった。槙島が聞き返す前に、別の電話が入って会話は途切れた。
あの一言の意味を、三ヶ月かけても掴めていない。
「上」という単語だけが、意味を結ばないまま頭の中で反響し続けている。組織の上層部か。事件の上流か。あるいはもっと別の何かか。黒崎の顔を思い出そうとする。あの時の表情は——緊張していたか、興奮していたか。思い出せない。記憶は感情に引きずられて歪む。刑事としてそれを知っていながら、自分の記憶すら信用できないことに苛立つ。
雨脚が強まる。住宅街の街灯が濡れた路面にオレンジ色の円を作っている。槙島はその光を避けて歩いた。影から影へ。犯罪者の歩き方だった。
自分が追う側の人間だった頃、逃亡犯の心理をよく分析した。追われ続けると人間は三つに分かれる。諦める者、壊れる者、研ぎ澄まされる者。
俺はどれだ。
答えは出さなかった。出す必要がなかった。生きている。逃げている。それだけで十分だった。
アパートの階段を上がる。二階の角部屋。鍵は三つ。ドアノブ、デッドボルト、それと自分で追加した補助錠。偽名で借りた部屋だが、いつ足がつくか分からない。荷物は常にバックパック一つにまとめてある。三分で消えられる態勢。
鍵を回そうとして、指が止まった。
ドアの下の隙間に何かが挟まっている。
白い封筒。
槙島の全身が強張った。反射的に背後を確認する。廊下に人影はない。階段も静か。雨音だけが響いている。
封筒には宛名も差出人もない。消印もない。誰かがこのドアまで来て、直接差し込んだということだ。
この部屋の住所を知っている人間は、三人しかいない。
槙島は壁に背をつけ、封筒を持ち上げた。軽い。爆発物の可能性は低い。だが油断はしない。手袋をはめ、封を慎重に切った。指先に伝わる紙の感触を確かめながら、封筒の口をゆっくりと開く。何かが飛び出す仕掛けはない。内側に粉末も付着していない。
中身は一つだけ。
USBメモリ。
黒い筐体に、何の刻印もない。ラベルもない。メモも手紙も添えられていない。ただ、USBメモリが一本。
槙島は封筒の内側を確認した。何もない。封筒の紙質は市販品。手がかりになるものは見当たらなかった。
誰が。何のために。
刑事の頭が回転する。この住所を知る三人——元同僚の情報屋・戸川、逃亡を手配した闇医者、そして今は連絡が途絶えている後輩刑事の宮野。誰が送ったとしても、リスクを冒してここまで来た理由がある。
だが、三人のうちの誰でもない可能性も捨てきれない。罠かもしれない。GPSトラッカーが仕込まれている可能性。あるいはマルウェア入りのUSBで、接続した端末の位置情報を抜く手口。捜査一課時代、似た手法で犯人の端末を特定したことがある。自分が編み出した手口で、今度は自分が狩られる。その皮肉に、唇の端がわずかに歪んだ。
槙島はUSBメモリを掌の中で転がした。
雨音が窓を叩く。部屋の中は暗い。電気はつけない。外から見られる。
三ヶ月間、ただ逃げてきた。追われることに慣れ始めている自分がいた。それは危険な兆候だと分かっている。慣れは油断を生み、油断は逮捕を生む。
だが今、掌の中に異物がある。
三ヶ月間、世界は槙島を拒絶し続けた。居場所を奪い、名前を奪い、人間関係を奪った。その世界から、何かが差し出された。善意か悪意かも分からないまま、ただ黒い塊として。
この小さな黒い塊が、逃亡の夜に落ちてきた。偶然か、必然か。
槙島はUSBメモリを握り締め、暗闘の中で目を閉じた。黒崎の声が耳の奥で鳴る。「隼人、俺、上を調べてる」——あの声は、助けを求めていたのか。それとも、警告だったのか。
——開けるか、捨てるか。
答えは、もう決まっていた。