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影灯会 — 堕ちた刑事の最後の矜持

第3話 第3話

第3話

第3話

非常階段のドアを押し開けた瞬間、背後で事務所のドアが蹴破られた。

蝶番が弾け飛ぶ音。安物の合板が裂ける乾いた破裂音が、狭い廊下に反響した。続いて怒号。

「いない——裏だ!」

黒崎は非常階段を駆け下りた。錆びた手すりが掌を引っ掻く。乾いた鉄錆の粉が指の腹にこびりつき、握るたびにざらついた感触が神経を逆撫でする。四階から三階。踊り場を蹴って折り返す。革靴の底がコンクリートを叩くたびに、階段全体が不快な振動を返した。壁に据え付けられた蛍光灯がちらつき、影が千鳥足のように揺れる。

二階。一階。非常口のバーを体当たりで押し込む。

裏路地に出た。ゴミ袋の山と、グリストラップの腐った油の匂い。湿った空気が肺の奥にまとわりつく。生ゴミと排水が混ざった、歌舞伎町の裏側特有の臭気だ。左右を確認する。右は表通りに繋がる。左は雑居ビルの隙間を縫う細い路地。

左を選んだ。狭ければ狭いほどいい。複数人での追跡は隊列が崩れる。

背後で非常口が再び開く金属音。蹴り開けたのだろう、バーが壁に激突する甲高い音が路地に跳ね返った。

「回り込め。北側を塞げ」

無線を使っている。三人では足りない。外に待機要員がいる。手慣れた連携だ。追い出し役と待ち伏せ役を分けている。逃走経路を予測し、複数方向から包囲する手口——素人の仕事ではない。

黒崎は走りながらコートの内ポケットを確認した。封筒はある。スマートフォンもある。クラウドには写真と便箋のデータをアップ済みだ。原本を奪われても致命傷にはならない。だが奪われること自体が、相手にこちらの手の内を見せることになる。どの写真を撮ったのか。誰の筆跡を押さえているのか。それが知られれば、次に潰すべき証拠の優先順位が向こうの手に渡る。

路地を抜け、隣のビルの搬入口に滑り込んだ。飲食店の業務用冷蔵庫が唸っている。低周波の振動が腹の底に響くような、重い機械音だ。厨房に通じるドアは施錠されていない。朝の仕込み前で、まだ誰もいない。薄暗い空間にステンレスが鈍く光り、業務用洗剤の塩素臭が鼻を突いた。ステンレスの調理台と壁の間をすり抜け、店内を横切る。テーブルの脚が膝に当たった。鋭い痛みが走ったが、足は止めない。椅子が倒れる音を無視して表口から出る。

靖国通りの手前。人通りが少しずつ増え始めている。通勤の波にはまだ早いが、コンビニの前に配送トラックが停まり、ドライバーが台車を押していた。朝の空気は思いのほか冷たく、走って火照った首筋に心地よかった。

背後を確認。追手の姿はない。だが安心はできない。彼らは黒崎より若く、おそらく体力でも上回っている。見失ったのではなく、別の経路で先回りしている可能性のほうが高い。

「そこの探偵さん」

声は正面から来た。

路地の出口に、男が一人立っていた。黒いスーツ。イヤピース。両手は下げているが、右手がジャケットの裾に近い位置にある。ビルの裏に回り込んだ別動隊だ。読み通り、三人だけではなかった。

男が一歩踏み出した。アスファルトを踏む靴音が妙に静かだった。ゴム底の戦闘靴。走ることを前提にした装備だ。

「その封筒を返してもらおうか」

声に焦りはない。黒崎を追い詰めたという確信が滲んでいる。後ろからも足音が近づいてきた。二人分。コンクリートに反響する革靴の硬い打音。挟まれている。

黒崎は足を止め、男の目を見た。

四十代前半。日に焼けた首筋。耳の後ろに薄い傷痕。立ち姿の重心が低く、左足がわずかに前。格闘の構えだ。元自衛隊。それも普通科ではない。特殊作戦群か、それに準じる部隊の出身。目に殺気はないが、躊躇もない。命令があれば実行する——そういう種類の人間の目だ。

視界の端に、配送トラックが映った。ドライバーは店内に入っている。荷台の扉が開いたまま。

「封筒は事務所のデスクの裏に貼ってある」

嘘だ。だが確認するには戻るしかない。男の目がわずかに揺れた。視線が一瞬だけ黒崎のコートの胸元に向かい、そして判断を迷った。その一瞬。

黒崎は左に跳んだ。配送トラックの荷台を盾にして走る。男が反応するまで〇・五秒。その間に五メートル稼いだ。トラックの車体が視線を切ってくれる。

背後で舌打ち。「追え」

路地に飛び込む。ここからは黒崎の土地だ。歌舞伎町の裏路地は捜査一課時代に骨の髄まで叩き込んだ。どのビルの非常階段がどこに繋がるか。どの路地が行き止まりで、どこに抜け道があるか。頭の中に三次元の地図がある。十五年前の記憶だが、この街の裏側は驚くほど変わらない。表の看板がいくら入れ替わっても、建物の骨格と路地の構造はそのままだ。

パチンコ屋の裏。換気ダクトの隙間を横向きにすり抜ける。肩が擦れて布地が裂けた。構わない。排気の温風が顔を叩き、煙草とホコリの混じった熱気が目を灼いた。狭い通路を三十メートル。突き当たりの壁に据え付けられた古い梯子を掴み、屋上へ。錆びた鉄棒が掌に食い込み、先ほどの手すりで切った傷口が開くのがわかった。じわりと滲む血の温かさ。痛みを無視して腕を引く。

ビルの屋上を跳ぶ。

隣のビルとの間隔は一メートル半。高さのずれは約七十センチ。踏み切る瞬間、眼下に七階分の空隙が口を開けた。見てはいけない。着地の衝撃が膝に響く。さらに隣へ。ここは高低差がない。走るだけでいい。

三つ目のビルの屋上で立ち止まり、振り返った。

追手は来ない。梯子の存在に気づいていないか、気づいても上がってこなかった。屋上の追跡は地上より難しい。落下のリスクがある。訓練された人間ほど、不確実な追跡を嫌う。

呼吸を整える。心拍が百二十を超えている。耳の奥で血流の音がする。こめかみが脈打ち、視界の端が白くちらついた。だが手は震えていない。膝に両手をつき、深く息を吸い込んだ。朝の空気がようやく酸素として体に入ってくる。吐く息が白く、すぐに散った。

男たちの動きを頭の中で再構成した。最初にビルに突入した三人。裏路地で待ち構えていた一人。少なくとも四人。無線で連携し、挟撃を仕掛けてきた。個々の練度は高い。民間の警備会社ではない。元軍人か、現役に近い人間を動員できる組織。

封筒の中身は、それだけの力を持つ人間たちの秘密だということだ。

黒崎は屋上の給水タンクの影に腰を下ろした。コンクリートの縁が朝日を受けて温い。背中を預けたタンクの金属板が、日光で緩く熱を帯びている。空は晴れている。歌舞伎町のビル群が朝の光の中で妙に清潔に見えた。ネオンが消えた看板は色褪せて貧相で、夜の猥雑さが嘘のようだった。遠くでカラスが鳴いている。この街は朝が一番静かだ。

コートの内ポケットから封筒を取り出す。折れ曲がっているが、中身は無事だ。写真五枚と便箋一枚。三島絵里が命と引き換えに残した証拠。

事務所には戻れない。自宅も危険だ。相手がこちらの勤務先を把握しているなら、住所も割れている。使える場所を頭の中で洗い出す。ネットカフェ。カプセルホテル。どちらも長くは持たない。監視カメラがある。身分証の提示を求められる場所もある。腰を据えて証拠を解析できる安全な場所が必要だ。

一人の顔が浮かんだ。借りを作ることになる。だが他に選択肢はない。

使い捨ての携帯——バーナーフォンを取り出す。連絡先は二つしか登録していない。その一方に発信した。

三コール。四コール。五コール。出ない。受話器を耳に押し当てたまま、朝の空を見上げる。飛行機雲が一本、白い線を引いて西へ流れていく。六コール目で回線が繋がった。

「……誰だ」

低い声。寝起きだ。だが声の芯はすぐに硬くなった。警戒と覚悟が一瞬で声色を塗り替える。この番号にかけてくる人間が一人しかいないことを、相手も分かっている。

「宮野、久しぶりだ」

沈黙。二秒。三秒。受話器の向こうで布団を跳ね除ける音がした。スプリングが軋む。足が床を踏む。相手はもう立ち上がっている。

「……黒崎か。三年ぶりだな」

「ああ。悪いが単刀直入に言う」

黒崎は歌舞伎町のビルの屋上から、遠くに霞む東京タワーを見つめた。朝もやの中で赤と白の鉄塔がぼんやりと浮かんでいる。この街で何人もの人間が消えていった。三島絵里もその一人だ。だが彼女は消える前に、爆弾を一つ残していった。

「匿ってくれ」

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