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聖十字病院の楔

第3話 第3話

第3話

第3話

走った。どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ足音から遠ざかることだけを考えて走った。

地下一階の廊下は同じような扉が延々と並んでいて、方向感覚が溶けていく。右に曲がったのか左に曲がったのか、何度角を折れたのか。非常灯の薄緑だけが道しるべで、その光すら断続的に瞬いては消える。暗闇が視界を塞ぐたびに、健人の開ききった瞳孔が網膜の裏で明滅した。

あの引きずるような足音は、もう聞こえなかった。

大輝が壁のフロアマップの前で立ち止まった。肩で息をしながら、汚れたアクリル板を懐中電灯で照らす。

「ここが——検査室の並びだ。東棟の端に近い。彩乃が二階から落ちたなら、東棟の階段を降りてくるはずだ」

「降りてきていれば、だけど」真帆が小さく言った。

誰もその先を継がなかった。健人の灰色の肌が、まだ目に焼きついている。彩乃にも同じことが起きていたら。あの黒い模様が皮膚の下を這い、名前を忘れ、温度を失い——

「行こう」

俺が言った。考える時間が怖かった。立ち止まれば、想像が際限なく膨らんでいく。動いているほうがまだましだった。

東棟の非常階段は、地下一階の突き当たりにあった。階段室の扉を開けた瞬間、上から声が降ってきた。

「——誰かいるの」

彩乃の声だった。震えていたが、意識がある。言葉になっている。それだけで膝の力が抜けそうになった。

「彩乃! 俺たちだ」

「奏太? 大輝——?」

踊り場に彩乃が座り込んでいた。右足首を庇うようにして、壁に背をつけている。懐中電灯を向けると、目を細めてこちらを見た。瞳孔は正常だった。光に反応して縮む、人間の瞳孔。その当たり前の反応に、喉の奥が詰まった。

「足、捻ったの。階段で滑って——健人が追いかけてきてくれたんだけど、途中で見失って」

「健人に会ったか」大輝が静かに訊いた。

「ううん。声だけ聞こえて、すぐに——なんか変な音がして、来なくなった」

変な音。たぶん、あの唸り声だ。彩乃と合流する前に健人が「変わった」のだとすれば、彩乃がここにいるのは幸運だった。もし追いついていたら、今ごろ彩乃も——

大輝が彩乃の横にしゃがみ、足首の状態を確かめた。腫れてはいるが、骨折ではなさそうだった。「歩けるか」と訊くと、彩乃は頷いた。大輝が手を貸して立ち上がらせる。

そのとき、真帆が動きを止めた。

大輝に支えられて立ち上がった彩乃の左手が、懐中電灯の光の中にあった。手首の内側、脈を測る場所のすぐ上。薄い長袖の裾からわずかに覗いた肌に、何かが見えた。

うっすらと。本当にうっすらと。

蛍光灯の下なら見落としていたかもしれない。しかし懐中電灯の強い白色光が斜めから当たったことで、皮膚の下に潜む影が浮かび上がっていた。静脈に沿って——いや、静脈そのものに重なるようにして走る、黒い線。

健人の腕に見たものと同じだった。ただし、ずっと薄い。初期段階。

真帆が俺の袖を引いた。声は出さなかった。視線だけで彩乃の手首を示し、そして俺の目を見た。

──見えた?

──見えた。

声に出さないまま、それだけの会話が成立した。半年間すれ違い続けた二人が、こんな場面で息を合わせている。恐怖は距離を縮める。防火扉の前でも思ったことだ。けれど今回は、恐怖の質が違う。目の前にいる仲間が、静かに人間でなくなり始めている。その事実を二人だけが知っている。

彩乃本人は気づいていなかった。手首を気にする素振りもない。痛みも違和感もないのだろう。健人だって、最初は普通に歩いていた。いつから「変わり始めた」のか分からない。気づいたときには、もう名前を忘れていた。

どれくらいの時間がある? 彩乃があの灰色になるまでに、どれだけの猶予が残されている?

考えても答えは出なかった。出ないまま、四人で地下一階の廊下を歩き始めた。彩乃を真ん中に挟んで、大輝が右側を支え、俺と真帆が前後を固める。健人がどこにいるか分からない以上、立ち止まるわけにはいかなかった。

少しでも地上に近い場所へ。出口を探しながら、合流した安堵と新たな恐怖を同時に抱えて、足を動かし続けた。

そのとき、俺の懐中電灯が壁の一角を照らした。

最初は汚れだと思った。タイルの目地に沿って走る黒ずみ。配管の錆が伝った跡か、カビの繁殖か。だが光の角度を変えた瞬間、それが「汚れ」ではないと分かった。

刻まれていた。

壁のタイルの表面に、細い線で記号が彫り込まれている。一つではない。十、二十——いや、それ以上。タイルの一枚一枚に、異なる記号が整然と並んでいた。直線と曲線の組み合わせ。円と十字を基調にした、見たことのない体系。文字なのか図形なのか、判別がつかない。ただ一つ確かなのは、これが偶然の産物ではないということだった。

間隔が均一だった。記号の大きさが揃っていた。配列に規則性があった。左から右へ、上から下へ、何かの順序に従って並べられている。落書きの無秩序さとは根本的に違う。ここには意図があった。意味があった。

「なんだ、これ」大輝が呟いた。

俺は懐中電灯を横に滑らせた。記号はタイル十枚分、いや二十枚分以上にわたって続いていた。一列ではなく、複数の段に分かれて刻まれている。まるで教科書の頁をそのまま壁に転写したかのように。

しゃがみ込んで、最初の記号に顔を近づけた。彫りは浅い。爪先ほどの深さしかない。だが一画一画が正確で、迷いなく刻まれたことが分かる。道具を使ったのだろう。先端の細い、硬い何かで。

「これ、最近のものじゃない」真帆が壁の端を指した。「タイルの釉薬が削れた部分に汚れが染みてる。何年も前——もしかしたら、何十年も前から、ここにあった」

何十年。この病院が稼働していた時代から。あるいは、閉鎖された直後から。誰が、何のために、地下一階の壁にこれだけの記号を刻んだのか。

彩乃が壁に手をついて身体を支えながら、記号の列を目で追った。「暗号? 誰かへのメッセージ?」

「分からない。でも——」俺は記号の配列を見渡した。「体系的だ。法則がある。これは解読できるものとして書かれてる」

自分の言葉に、自分で驚いた。なぜそう思うのか、論理的な根拠は薄い。だが記号の並びを目で辿っていると、繰り返しのパターンが見えた。特定の記号が一定の間隔で現れる。別の記号は必ず対になって出現する。文法がある。構文がある。言語として機能するための最低限の構造が、この壁の記号群には備わっている。

大輝が一歩引いて、壁全体を見渡した。「解読って、どうやって。言語学者でもいるのかよ」

「いないけど、手がかりはある」

壁の右下に、他とは異なるものが刻まれていた。記号ではなく、日本語だった。崩れた筆跡で、かろうじて読み取れる三文字。

「院長室」

矢印が右を指していた。

記号群を刻んだ人物は、その意味を補足する情報が院長室にあると知っていた。あるいは、院長室から持ち出した知識をもとに、この記号を刻んだ。どちらにしても、院長室が次の手がかりだった。

俺は立ち上がり、彩乃の左手首にもう一度視線を落とした。袖に隠れて、今は見えない。けれど、その下で模様が広がっているかもしれない。今この瞬間にも。

時間がない。

何が起きているのか分からない。この病院が何なのかも分からない。健人に何が起きたのかも、彩乃の模様が何を意味するのかも。でも一つだけ確かなことがあった。

彩乃が健人と同じになる前に、この記号を解かなければならない。

廊下の奥で、かすかに音がした。引きずるような足音。あるいは、そう聞こえただけかもしれない。この病院では、沈黙すら音に聞こえる。壁の呼吸も、水滴の音も、自分の心臓の音も——すべてが「何かが来る」という予兆に変換されてしまう。

「行こう」

俺は言った。さっきと同じ言葉。でも意味が違う。さっきは恐怖から逃げるための「行こう」だった。今は、答えを探しに行くための「行こう」だ。

院長室。記号の意味。彩乃を救う手がかり。

四人の足音が、地下の廊下に重なった。三つは規則的で、一つだけわずかにリズムが乱れている。右足首を庇う彩乃の足音。そのリズムの乱れが、残された時間を刻んでいるように聞こえた。

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