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聖十字病院の楔

第2話 第2話

第2話

第2話

壁の呼吸は、歩き出した途端に止んだ。

まるで聞かれていたことを悟ったかのように、ぴたりと。残されたのは水滴の音と、俺たちの足音だけだった。そのほうが、かえって怖い。聞こえている間は少なくとも「そこにいる」と分かる。止まったということは、息を潜めたということだ。獲物を見定めた何かが、じっとこちらを窺っている——そんな想像が頭を離れなかった。

真帆の手は、いつの間にか俺の腕から離れていた。また、あの一定の距離に戻っている。ほんの数分前、恐怖に駆られて縮まった距離が、呼吸が止まった途端に元に戻る。俺たちの間にある溝は、それだけ深いということだった。

西棟の端まで来ると、別の階段があった。非常階段だ。コンクリートの壁に囲まれた狭い空間に、鉄製の手すりが螺旋状に降りていく。階段の踊り場に立つと、下の階から空気が吹き上がってきた。冷たいだけじゃない。湿っていて、かすかに鉄の味がする風だった。

「下に降りよう。東棟への連絡通路は地下一階にあるはずだ」

俺の声は階段室の中で反響して、自分の言葉が壁に跳ね返って戻ってくるのが気持ち悪かった。

地下一階に降りた瞬間、空気の質が決定的に変わった。地上階の冷気が「まとわりつく」ものだったとすれば、ここの空気は「沈んでいる」。重くて、動かなくて、肺の底に溜まるような空気。天井が低くなり、懐中電灯の光が届く範囲が狭まった。廊下の幅は地上階と変わらないはずなのに、壁が迫ってくるような錯覚に襲われる。足元のリノリウムは剥がれかけて波打ち、歩くたびに靴底がべたついた。何の液体が染みているのか、考えたくなかった。

「——奏太! 真帆!」

声が聞こえた。廊下の向こうから。大輝だった。

懐中電灯の光が二つ重なり、大輝の顔が照らし出される。いつもの飄々とした表情は消えていて、額に汗が滲んでいた。

「よかった、無事だったか。こっちは大変だ。健人と彩乃がはぐれた」

「はぐれた?」

「東棟の二階を回ってるとき、階段で彩乃が足を滑らせてさ。健人が追いかけていった。そのあと——」大輝が言葉を切り、唇を舐めた。「——防火扉が閉まった」

背筋が冷えた。西棟と同じだ。

「自然に?」

「さあな。固定金具が外れたって言われればそうかもしれない。でも、タイミングがよすぎるだろ」

三人になった。五人でいれば怖くないと思っていた。三人になると、失った二人の不在が空気の中にぽっかりと穴を開ける。その穴から、地下の冷気が余計に入り込んでくるようだった。

大輝が地下一階のフロアマップを壁に見つけた。薄汚れたアクリル板の下に、色褪せた図面が収まっている。懐中電灯で照らすと、東西の棟を繋ぐ連絡通路、検査室群、倉庫、そして——旧手術室。

「健人と彩乃が地下に降りてきてるなら、たぶんこのあたりだ」大輝が図面の東側を指で叩く。「連絡通路を通って東棟側に抜ければ合流できる」

連絡通路は思ったより長かった。地上の棟と棟の間にある中庭の地下をくぐっている構造で、天井から水が滲み出して床に浅い水たまりを作っていた。足を踏み入れるたびに、ぱしゃ、と音が立つ。自分たちの位置を知らせているようで嫌だった。

通路の途中で、大輝が急に立ち止まった。

「おい、あれ」

前方の暗がりに、何かが見えた。懐中電灯の光を向けると、壁際に人影が立っていた。

——違う。立っているんじゃない。もたれかかっている。壁に背をつけて、頭を不自然な角度に傾げたまま動かない。

「健人?」

大輝が声をかけた。応答がない。

近づく。五メートル、三メートル。懐中電灯の光が人影の足元から這い上がっていく。見慣れたスニーカー。ジーンズ。サークルの新歓で作った揃いのパーカー。健人だった。

ただ、何かが——おかしい。

肌の色だった。健人の肌は地黒で、いつも日焼けしたような健康的な色をしていた。それが今、灰色になっている。蛍光灯の下で見る死体の肌——いや、違う、そんなものは見たことがない。でも、「死体」という言葉が真っ先に浮かんだのだ。血の気が引いたとか、そういう次元じゃない。肌の色素そのものが抜け落ちて、セメントみたいな灰色に置き換わっている。

「健人、おい」

大輝が肩に手を伸ばした。俺は止めようとした。止めるべきだという直感があった。でも声が出る前に、大輝の手が健人の肩に触れた。

健人の首がゆっくりと動いた。

こちらを向いた目を見て、息が止まった。

瞳孔が開ききっていた。黒目の中の黒。虹彩の色が見えないほど瞳孔が広がり、目がまるごと黒い穴になっている。そこに光を当てても、瞳孔は収縮しなかった。反射が死んでいる。

「健人」俺は名前を呼んだ。「健人、俺だ。奏太だ」

反応がなかった。名前が届いていない。音は聞こえているはずだ——俺の声に反応して首を傾げたのだから。でも、「健人」という名前に、もう意味が結びついていない。自分の名前を忘れた人間の目。いや、「忘れた」のではなく、「もう自分のものではなくなった」名前を聞いている目だった。

「下がれ、大輝——」

遅かった。

健人の喉から音が漏れた。声ではない。空気が肺から押し出されるときに声帯を震わせただけの、意味を持たない振動。低く、湿った唸り。動物の威嚇ですらない。壊れた換気扇が回り続けるような、機械的な音だった。

その手が伸びた。

速かった。さっきまで壁にもたれて動かなかった身体が、一瞬で前に出た。灰色の指が俺の首に向かって伸び、懐中電灯が弾かれて床に落ちた。光がぐるりと回転して、天井、壁、健人の顔、床——断片的な映像が目の奥に焼きつく。

掴まれた。首ではなく、咄嗟に出した右腕を。健人の指が前腕に食い込み、爪が皮膚を破る感触があった。力が異常だった。握力とかそういう話じゃない。人間の筋肉の出力制限が外れたような、骨を軋ませる圧力。

「離せ——ッ」

振りほどこうとして、左手で健人の手首を掴み返した。

触れた瞬間、吐き気がこみ上げた。

体温がなかった。冷たいのではない。温度という概念そのものが消えている。触っている感覚はあるのに、温度だけが欠落している。まるで空間に穴が開いていて、健人の形をした虚無に触れているような——

大輝が横から健人の肩を押し、俺が同時に腕を引き抜いた。バランスを崩した健人が二歩よろめく。その隙に三人分の距離を取った。真帆が床から懐中電灯を拾い上げ、光を健人に向けた。

見えた。

健人のパーカーの袖がまくれ上がり、前腕が露出していた。灰色の肌の上に、黒い線が走っている。血管に沿って——いや、血管そのものが変色しているのか。静脈が浮き出るように、けれど静脈よりもずっと太く、ずっと黒く、皮膚の下で枝分かれしながら肘から手首まで網目のように広がっている。墨を注射したみたいだった。あるいは、黒い根が皮膚の内側で育っているみたいだった。

健人が再びこちらに向かって歩き出した。ゆっくりと。さっきの一瞬の速さは消えて、引きずるような足取りで。壁に手をつきながら、指が壁のタイルに溝を刻んでいく。人間の爪でタイルを削れるはずがない。でも現実に、きぃ、という音を立てて白い線が壁に走っていた。

「走れ」

大輝の声に弾かれるように、三人で駆け出した。連絡通路の水たまりを蹴散らし、東棟側の扉を押し開けて廊下に飛び出す。振り返ると、通路の奥で懐中電灯の光を反射する二つの黒い目が、まだこちらを見ていた。

角を曲がり、二つ目の角を曲がり、ようやく足を止めた。三人とも、肩で息をしていた。

俺は自分の右腕を見た。健人に掴まれた箇所に、五本の指の跡がくっきりと残っていた。赤黒い痕。爪が食い込んだ場所からは、うっすら血が滲んでいる。

「何だよ、あれ」大輝の声が掠れていた。「何があったんだよ、健人に」

答えられなかった。

分かっていることは一つだけだ。あれは、もう健人じゃない。健人の身体をした何かだ。灰色の肌。開ききった瞳孔。体温のない身体。名前に反応しない意識。そして、皮膚の下を這う黒い模様。

あの模様が何を意味するのか、まだ分からなかった。分かりたくなかった。

通路の向こうから、引きずるような足音が近づいてくる。

ゆっくりと。確実に。まるで急ぐ必要がないと知っているかのように。

「彩乃を探さないと」真帆がかすれた声で言った。「彩乃も、同じことになっていたら——」

その言葉の先を、誰も口にできなかった。

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