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聖十字病院の楔

第1話 第1話

第1話

第1話

廃墟の匂いは、記憶に似ている。忘れたつもりでも、一度嗅げば全部戻ってくる。

旧・聖十字病院の正面玄関に立ったとき、最初に感じたのはそれだった。消毒液の名残と、長い年月をかけて積もった埃と、その下にある何か——湿って、甘くて、喉の奥にまとわりつくような匂い。

四月だというのに、建物の周囲だけ空気が冷たかった。街灯の届かない駐車場には雑草がアスファルトを割って伸び、かつて救急車が停まっていたであろうスペースには、誰かが捨てたショッピングカートが錆びついて横倒しになっていた。病院の外壁を覆う蔦は、新芽を出す気配もなく、黒々と建物にしがみついている。

「うわ、マジで入るの?」

後ろで大輝が笑いながら言った。懐中電灯の光が割れたガラスの破片に反射して、一瞬だけ壁が光る。

「入るに決まってんだろ。せっかく来たんだから」

健人が先頭を切って、ベニヤ板を剥がしにかかる。釘が抜ける音が、思ったより大きく響いた。木が裂ける乾いた音が夜気を伝って、周囲の住宅街にまで届いたんじゃないかと一瞬肝が冷えた。

探検サークル「フロンティア」のメンバー五人。健人、大輝、彩乃、真帆、そして俺——奏太。取り壊しが来月に迫った廃病院への肝試しは、健人が三週間前から計画していた。

正直に言えば、俺がここにいる理由は肝試しじゃない。

真帆の横顔を、視界の端で捉える。ポニーテールから垂れた後れ毛が、四月の夜風に揺れていた。半年前まで毎日のように一緒に帰っていた幼馴染。今は、サークルの集まりで顔を合わせても、目が合えばどちらからともなく逸らす——そういう関係になっていた。

半年前の夏祭り。真帆が何か言いかけて、俺は人混みの音にかき消されたふりをした。聞こえていた。全部聞こえていた。でも、あのとき俺は——怖かったのだ。言葉を受け取ってしまったら、もう「ただの幼馴染」には戻れない。その不可逆さが怖くて、聞こえないふりを選んだ。最低だと分かっていた。分かっていて、半年間ずっと、訂正する勇気が出なかった。

「奏太、ぼーっとしてないで」

彩乃の声で意識が戻る。ベニヤ板が外され、正面玄関の黒い口が開いていた。

建物の中に入った瞬間、空気が変わった。

外の春の匂いが途切れて、代わりに押し寄せてきたのは冷たい湿気だった。温度が二、三度は下がっている。肌の表面に薄い膜が張るような、まとわりつく冷気。壁のタイルが剥がれ落ち、天井の配管が錆びた骨のように露出している。足元にはガラス片と、黄ばんだ書類の切れ端が散乱していた。書類の一枚を懐中電灯で照らすと、「入院患者 日課表」という文字がかろうじて読めた。日付の欄は滲んで判読できない。健人の懐中電灯が照らすたびに、廊下の闇がぬるりと後退し、また戻ってくる。

「でかいな」大輝が天井を見上げた。「地上三階、地下二階。病院としてはかなりの規模だ」

「携帯は?」彩乃がスマートフォンを掲げる。

俺も確認した。圏外。アンテナマークの横に、斜線が引かれている。

「まあ、想定内だろ。鉄筋コンクリートの廃墟で電波が入るほうが珍しい」

健人はそう言って、廊下の奥へ進み始めた。非常灯がまだ生きているのか、天井の一角が薄い緑色にぼんやりと点滅していた。非常用の独立電源が数十年越しに明滅を続けている。それが逆に不気味だった。まるで建物がまだ呼吸しているみたいで。

「二手に分かれようぜ。そのほうが効率いい」

健人の提案に、彩乃が顔をしかめた。「ホラー映画のフラグじゃん」

「だから面白いんだろ」

結局、健人と彩乃と大輝が東棟を、俺と真帆が西棟を回ることになった。健人がにやりと笑って俺に目配せしたのが見えた。気を使ってくれたのか、からかっているのか。たぶん両方だ。

三人の足音と声が遠ざかっていく。懐中電灯の光が角を曲がって消えると、俺と真帆は、薄緑色の明滅だけが照らす廊下に取り残された。

沈黙が降りてくる。

水滴の音がどこかから聞こえていた。規則的な間隔で、ぽたり、ぽたり、と。配管の老朽化だろう。そう思った。思おうとした。

「……行こうか」

「うん」

真帆の返事は短かった。半年前の夏祭りの前なら、こんなとき真帆は軽口を叩いていたはずだ。「奏太、ビビってんの?」とか、「私が守ってあげよっか?」とか。今はただ、一定の距離を保って俺の斜め後ろを歩いている。

その距離が、俺にはひどく痛かった。

懐中電灯の円い光が床を滑るたびに、二つの影が壁に伸びる。かつてなら肩が触れ合う距離で歩いていた二人分の影が、今は互いに触れることなく、別々の壁に映っていた。足音だけが妙に揃っている。十五年の付き合いで染みついた歩調は、気まずさくらいでは狂わないらしい。それがまた、やるせなかった。

西棟の廊下を進む。ナースステーションの残骸を過ぎ、リネン室の前を通り、処置室と書かれたプレートの横を通過する。扉はすべて開け放たれていた。中を照らすたびに、錆びたベッドフレームや倒れた棚が影を作った。ナースステーションのカウンターには、花瓶が一つだけ残されていた。中に入っていたであろう花はとうに朽ちて、茶色い染みだけがガラスの内側にこびりついている。誰かの最後の出勤日に活けられた花だろうか。そんなことを考えて、妙に胸が詰まった。

廊下の壁には退色した案内板がまだ貼り付いていて、「小児科→」「産婦人科↑」と色褪せた矢印が行き先を示している。かつてここを行き交った人々——生まれてくる命、消えていく命、その狭間で走り回っていた白衣の背中。そのすべてが去った後も、矢印だけが律儀に方角を指し続けていた。導く相手を失った道標の忠実さが、かえって物悲しい。

処置室の一つに目が留まった。他の部屋と違って、扉が半開きのまま妙に整然としている。中を覗き込むと、ステンレスのトレイが台の上に並んでいた。器具は持ち出されたのか空だったが、トレイの表面に懐中電灯の光が反射して、一瞬、部屋全体が白く明滅した。真帆が小さく息を呑む気配が背中越しに伝わってきた。

そのとき、背後で音がした。

重い金属が擦れる音。低く、長く、廊下の空気を震わせる音。

振り返った。

防火扉が——閉まっていた。

俺たちが通ってきた廊下を塞ぐように、鉄製の防火扉がぴったりと閉じている。さっきまで壁に固定されていたはずの扉が。

「……え」

真帆が俺の腕を掴んだ。指先が冷たかった。その冷たさで、これが冗談でも見間違いでもないと分かった。真帆の指は昔から、本当に怖いときだけ氷みたいに冷たくなる。小学校の林間学校で迷子になったときも、こうだった。

走り寄って取っ手を引く。動かない。押しても引いても、扉はびくともしなかった。蝶番が錆びついているのとも違う。まるで反対側から何かが押さえているような、あるいは、扉そのものが閉じることを選んだような——

馬鹿な。ただの老朽化だ。固定金具が外れて、自重で閉まっただけだ。

自分にそう言い聞かせた。心臓が速くなっているのを、真帆に気づかれたくなかった。手のひらで取っ手を叩いた感触が、じんじんと残っている。鉄の冷たさが骨まで沁みた。

「大丈夫。反対側から回れば合流できる」

声を出してから、自分がどれだけ平静を装っているか自覚した。喉の奥が乾いて、舌が上顎に貼りつきそうだった。

「……うん」

真帆の声が震えていた。けれど俺の声も、たぶん同じくらい震えていた。

廊下に戻る。水滴の音は続いている。ぽたり、ぽたり——

違う。

水滴の音に混じって、別の音が聞こえる。

壁の奥。コンクリートの向こう側。配管の隙間を縫うように、何かが規則的に繰り返されている。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

呼吸だった。

人間の呼吸に似た、しかし人間にしては深すぎる、長すぎる、遅すぎる呼吸。壁全体が肺であるかのように、建物の内側から空気を出し入れしている。

足が止まった。真帆も止まっていた。二人とも、同じものを聞いている。

真帆の手が、まだ俺の腕を掴んでいた。さっき防火扉の前で掴まれたまま、どちらも離さなかった。離せなかった。薄緑の明滅の中で、真帆の目が光っている。恐怖の色。けれどそれだけじゃない。半年間ずっと蓋をしていた何かが、極限の緊張の中で剥き出しになりかけている。そんな目だった。

呼吸のたびに、壁が微かに振動しているのが指先に伝わってくる。真帆の腕を通じて、彼女の脈拍も感じ取れた。速い。俺と同じくらい速い。恐怖が二人の心拍を同期させていた。半年かけて広がった距離を、この得体の知れない恐怖が一瞬で縮めている。皮肉だと思った。こんな形で触れ合うことになるなんて。

「ねえ」

真帆の声は、ほとんど吐息だった。

「この病院、いつ閉鎖されたか知ってる?」

知らなかった。健人は「九十年代に潰れた」としか言っていない。なぜ閉鎖されたのか、何があったのか。誰も調べなかった。調べようとも思わなかった。

ただの廃墟だと思っていたから。

壁の呼吸が、少しだけ速くなった気がした。

俺たちが来たことに、気づいたみたいに。

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