第3話
第3話
動けなかった。
体のどこにも力が入らない。指先が痺れている。視界の端が暗く滲んで、懐中電灯を握る手だけが他人のもののように白く浮かんでいた。
懐中電灯の光の中で、それはもう一歩、こちらに近づいた。素足が床を擦る音。ずる、と。湿った、重い音。廃墟の静寂を引き裂くようにして、その音だけが鼓膜に貼りついた。灰色の皮膚は乾いているようにも濡れているようにも見えた。表面に細かいひび割れがあって、そこから薄い液体が滲んでいる。汗ではない。もっと粘度のある、透明な何か。光を受けて、ひび割れの縁がてらてらと鈍く光った。人間の肌がこんな色になるのを、私は見たことがなかった。生きているとも死んでいるとも言えない、その中間の、あってはならない状態。
逃げなければ。頭ではわかっている。けれど膝が言うことを聞かない。恐怖が筋肉を凍らせている。心臓だけが暴走して、こめかみの血管がどくどくと脈打っていた。胃の底から酸っぱいものがこみ上げてくる。喉の奥で唾を飲み込もうとしたが、口の中が完全に乾いていて、舌が上顎に貼りついたまま剥がれなかった。
それが口を開いた。
声は出なかった。ただ顎が上下に動いて、喉の奥から空気が漏れるような音がした。ひゅう、ひゅう、と。昨夜の電話の呼吸音に似ていた。あの正確なリズムとは違う、もっと壊れた、途切れがちな呼吸。喉仏のあたりが不規則に痙攣するように上下して、その度に灰色の皮膚が薄く伸びた。何かを言おうとしているのか。それとも、かつて言葉を発していた器官が、意味を失ったまま動き続けているだけなのか。
懐中電灯の光が震えて、その向こうの闇を一瞬だけ照らした。
いた。
一体ではなかった。
廊下の奥、光がかろうじて届く範囲に、同じような灰色の影がいくつも蠢いていた。三つ、五つ、いや——数えられない。壁に寄りかかるもの、床に這いつくばるもの、立ったまま微動だにしないもの。どれも同じ灰色の皮膚、同じ白濁した目。病衣の残骸を纏い、裸足で、人間だったものの形をかろうじて保っている。這いつくばる一体の指が、タイルの目地を無意味に引っ掻いていた。爪はとうに剥がれ落ちていて、指先の肉が床に擦れる湿った音だけが繰り返されていた。
甘い腐臭が一気に濃くなった。この匂いは建物のものじゃない。彼らの匂いだ。果物が発酵したような甘さの奥に、もっと生々しい——内臓の、体液の、崩壊しかけた有機物の匂いが混じっている。鼻の粘膜が焼けるようで、息をするたびに吐き気が喉元まで迫った。
最初の一体が、さらに一歩近づいた。距離は五メートルもない。足が、やっと動いた。一歩、後ろに下がる。靴底がラテックス手袋を踏んで、ぐにゃりと嫌な感触が返ってきた。
もう一歩。背中が壁に当たった。行き止まりではない。左に廊下が続いている。走れる。走って、どこかに——。
体が反転しかけた。足に力を込めて、暗い廊下の先に向かって駆け出そうとした、その瞬間。
「走るな」
背後から声がした。
低い、しかしはっきりとした男の声。私の体はその声に縫い止められたように動きを止めた。反射だった。暗闇の中で聞いた人間の声に、本能的にしがみついた。
振り返る余裕はなかった。目の前の灰色の群れが、私が動いた瞬間に空気が変わったように身じろぎしたからだ。首の角度がこちらを向いた個体がいた。白濁した目が——見えていないはずの目が、私の位置を捉えようとしているように動いた。
「動くな。息を浅くしろ」
声は背後二メートルほどの位置から聞こえた。足音はしなかった。いつの間にそこにいたのか。
私は言われるままにした。考える余裕がなかった。口を閉じて鼻だけで浅く呼吸した。甘い腐臭が肺に入ってくるのが嫌で、ほとんど息を止めていた。肺が軋むように痛んだ。酸素が足りない。視界の端に赤い点が明滅し始めたが、それでも口を開けることが怖かった。息を吸えば、あの甘い腐敗の粒子が舌の上に落ちてくる気がして。
群れの動きが鈍くなった。最初の一体は、こちらに向かって伸ばしかけていた腕をゆっくりと下ろした。首がわずかに傾いて、そのまま静止した。聞いているのだ。音を。動きを。空気の振動を。
十秒。二十秒。群れは再びゆっくりとした往復運動に戻った。壁と壁の間を、意味もなく行き来する。ずる、ずる、と足を擦りながら。その反復は夢遊病者のそれに似ていた。目的がない。意志がない。ただ動くことだけが残っている。それが余計に恐ろしかった。怒りや飢えで襲ってくるなら、まだ理解できる。だがこの群れにはそれすらない。空洞だった。人の形をした空洞が、廊下を往復している。
「こっちだ」
囁くような声とともに、腕を掴まれた。手袋越しの感触。ラテックスではない、布の手袋。指の力は強かったが、痛くはなかった。手慣れた力加減だった。誰かを導くことに慣れている人間の手。私は声を殺して、その手に引かれるまま歩き出した。
男は信じられないほど正確に暗闇を移動した。私の懐中電灯を手で覆い、光が漏れないようにしながら、壁に沿って音を立てずに進む。角を二回曲がった。群れのうめき声が少しずつ遠ざかった。
やがて男が立ち止まり、金属の扉を開けた。錆びた蝶番の音を最小限に抑えるように、ゆっくりと。私を中に押し込んで、自分も入り、扉を閉めた。
内側からロックがかかる音がした。かちり、という小さな金属音が、静寂の中で異様に大きく響いた。
「……ここは」
声が掠れた。自分の声がこんなに細いことに驚いた。暗闘の中で懐中電灯を持ち上げると、男が覆っていた手を離した。白い光が部屋を照らす。
病室だった。ベッドが二つ、壁際に寄せてある。窓はない。地下だから当然だ。棚にはガーゼや包帯が残っていて、それだけが妙に整然としていた。誰かがここを使っていた形跡がある。ベッドの上に毛布が畳んであり、床に水のペットボトルが数本並んでいた。空になったボトルが三本、壁際にきちんと並べてある。几帳面な人間がここで暮らしている。この地獄のような場所で、日常の形を保とうとしている。
男を見た。
白衣を着ていた。黄ばんで汚れた白衣だが、元は医療従事者のものだとわかる。年齢は三十代前半に見えた。頬がこけている。目の下に深い隈があった。何日も——あるいは何週間も、まともに眠れていないような顔。無精髭が顎を覆い、唇はひび割れて乾いていた。それでも背筋は真っ直ぐで、目には正気の光がある。この場所で正気を保っていること自体が、異常なことに思えた。胸元の名札は削り取られて、白い布地の上にこすった跡だけが残っていた。意図的に消したのだ。名前を知られたくない理由がある。
「秋山凛」
男が言った。私の名前を。
声を失った。この男は何者だ。なぜ私の名前を知っている。脚が震え始めたのを、膝に力を入れて堪えた。懐中電灯を男に向けたまま、半歩後ずさった。背中がベッドの縁にぶつかった。
「なんで私の名前を——」
「君のゼミでの発表は知っている。水島拓海のことも」
水島先輩の名前が出た瞬間、胸の奥が締まった。冷たい手で心臓を握られたような感覚。先輩の顔が脳裏をよぎった。研究室で笑っていた顔。連絡が途絶える前日、「ちょっと気になることがある」とだけ言い残した横顔。
「先輩を知ってるんですか。先輩は——先輩はどこに」
男は答えなかった。代わりに、壁際の棚から古いファイルを一冊取り出して、ベッドの上に置いた。
「質問は後だ。まず理解しろ」
「理解って——」
「出口は一つだけある」
男が私を真っ直ぐに見た。隈の下の目は疲弊しきっていたが、焦点は正確だった。
「だがそこに辿り着けるのは、この病院で何が行われたかを正しく知る者だけだ」
意味がわからなかった。出口があるなら場所を教えてくれればいい。知識が脱出の条件になるというのは、どういう理屈なのか。
けれど問い詰める時間はなかった。廊下の向こうから、重い足音が複数近づいてくるのが聞こえた。ずる、ずる、ずる。群れだ。先ほどよりも近い。鉄の扉一枚を隔てただけで、あの灰色の群れがすぐそこにいる。扉を叩く音がした。鈍く、一定のリズムで。どん。どん。どん。扉が微かに振動して、ロックの金具がかちかちと鳴った。
男はそちらを一瞥しただけで動じなかった。その落ち着きが、むしろ不気味だった。何度もこの状況を経験してきた人間の目だった。
「この扉は保つ。しばらくは」
ファイルを示した。茶色い表紙に「診療記録」と印字されている。角が擦り切れて、何度も開かれた跡があった。
扉を叩く音が続いている。どん。どん。間隔が少しずつ短くなっている気がした。
「読め。時間がない」
男の声に急かされて、私は震える指でファイルを開いた。