Novelis
← 目次

Loss病院、地下三階

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の五時に目が覚めた。眠れたのは一時間もなかったと思う。

カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる。四月半ばの夜明けは早い。けれどその明るさが、昨夜の非通知着信の記憶を薄めてはくれなかった。あの呼吸音が、まだ耳の奥に残っている。規則正しく、正確に、吸って、吐いて。

シャワーを浴びた。熱い湯を首筋に当てながら、行くか行かないかを最後にもう一度だけ考えた。蛇口を止めたとき、答えは出ていた。行く。水島先輩がどうなったのか、確かめなければ日常に戻れない。戻ったふりはできるだろう。でもそれは、知らないふりをしながら生きるということだ。それだけは嫌だった。

始発のバスに乗った。市街地を抜けると住宅街がまばらになり、やがて山が近づいてきた。乗客は私のほかに二人だけ。作業着の男性と、買い物袋を抱えた高齢の女性。二人とも窓の外を見ていて、私のことなど気にしていない。バスの振動が太腿に伝わってくる。リュックの中で懐中電灯が揺れるたびに、金属の微かな音がした。

六条口というバス停で降りた。ここから先は歩きだ。舗装された道が徐々に細くなり、枯れ葉の積もった山道に変わる。スマホの地図を見ながら二十分ほど歩いたところで、木立の向こうにそれが見えた。

六条中央病院。通称、Loss病院。

四階建てのコンクリートの建物が、山の斜面に張りつくように建っていた。外壁は灰色に褪せて、ところどころ蔦が這い上がっている。窓ガラスはほとんど割れていて、黒い口を開けたように中が覗いている。正面玄関の上に掲げられていたであろう看板は、片方の留め具が外れて斜めにぶら下がっていた。文字はもう読めない。

立ち止まった。心臓が速い。呼吸が浅くなっているのがわかる。大丈夫、まだ引き返せる。そう自分に言い聞かせながら、足は前に出ていた。

正面玄関のガラス扉は開いたままだった。片方が完全に外れて地面に倒れている。もう片方も蝶番が錆びて、風が吹くたびにきいと甲高い音を立てた。リュックから懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。白い光の円が、薄暗いエントランスホールを舐めるように照らす。

受付カウンターの上に、十年分の埃が積もっていた。椅子が倒れ、案内板が壁から剥がれ落ちている。床のリノリウムは剥がれかけて、踏むたびにぺきぺきと乾いた音がした。天井から何かが垂れ下がっている。配線だ。むき出しの銅線が、懐中電灯の光を受けて鈍く光った。

荒廃。ただそれだけの場所だった。心霊スポットとしての不気味さよりも、放棄された建物特有の寂しさが漂っている。十年前までここで人が働き、患者が暮らし、日常があった。それが丸ごと置き去りにされている。

一階を歩いた。診察室、待合室、薬局。どこも同じだった。埃と蜘蛛の巣と、割れたガラス。懐中電灯の光が届く範囲には、怪しいものは何もない。ネットで見た心霊写真や怪談が、急に馬鹿らしく思えてきた。ここはただの廃墟だ。誰かが失踪したのは事実かもしれないけれど、この建物自体には何の力もない。

そう思いかけたとき、足元の感触が変わった。

廊下の突き当たりに、下り階段があった。地下への入口。金属製の防火扉が半開きになっている。扉の表面に「B1F」と書かれたプレートが残っていた。

階段の入口に立った瞬間、わかった。

匂いが違う。

一階にはなかった匂いだ。埃やカビとは違う。甘いような、生臭いような。腐った果物に似ているけれど、もっと重い。鼻の奥に粘りつくような、吐き気を催す甘さ。

——地下に降りたら、匂いが変わった。

三人の失踪者が残した言葉が、現実の感覚として鼻腔に押し寄せてきた。これだ。この匂いのことを、あの人たちは書いたのだ。

引き返すべきだった。常識で考えれば、ここで踵を返してバス停まで走り、電車に乗って自分の部屋に戻るべきだった。でも足が動かなかった。引き返す方向には動かなかった。

懐中電灯を握り直して、階段を降り始めた。一段ごとにコンクリートの冷たさが靴底を通して伝わってくる。匂いが濃くなる。空気が変わる。一階の乾いた埃っぽさが消えて、湿り気を帯びた重い空気が肌にまとわりつく。まるで季節が変わったようだった。四月の春から、どこか別の場所の、別の時間に降りていくような感覚。

壁に手をついた。指先に触れたコンクリートが湿っている。冷たい。水滴が壁を伝っているのが、懐中電灯の光で見えた。天井も同じだ。結露なのか地下水なのか、細い水の筋が何本も走っている。

階段を降りきった。

地下一階の廊下は、一階とはまるで別の建物だった。天井が低い。私の頭上二十センチほどのところに、灰色のコンクリートが迫っている。廊下の幅も狭い。両手を広げたら壁に届きそうだ。懐中電灯の光が廊下の先を照らしたが、十メートルほどで闇に呑まれている。その先に何があるのか見えない。

一歩踏み出した。靴の下で何かが、ぐちゃり、と潰れた。

見下ろす。床に何かが散らばっている。最初は落ち葉かと思った。けれど懐中電灯を向けて、違うとわかった。医療用の手袋だ。使い捨てのラテックス手袋が、何十枚も床に散乱している。変色して、一部は溶けたように床に貼りついていた。

廃墟に残ったゴミにしては量が多すぎる。それに、手袋のいくつかには暗い染みがついていた。懐中電灯の白い光の下で、その染みは黒に近い赤褐色に見えた。

空気が動いた。

廊下の奥から、微かに風が流れてきた。この地下に換気が生きているはずがない。ということは、どこかに外部との接続がある。あるいは——誰かが扉を開けた。

足を止めた。息を殺して、耳を澄ませた。自分の心臓の音がうるさい。どくん、どくん。それ以外には何も聞こえない。匂いだけが、甘く重く、肺の奥に染み込んでくる。

もう少しだけ進もう。そう思って足を踏み出した、そのとき。

背後で音がした。

重い金属が動く音。錆びた蝶番が軋む音。そして——がしゃん、という、何かが閉まる音。

振り返った。懐中電灯の光を階段のほうに向けた。

さっき降りてきた階段の上、地下への入口にあった防火扉が、完全に閉まっていた。半開きだったはずの、あの扉が。

駆け寄った。取っ手を掴んで押した。引いた。動かない。錆びついているのとは違う。向こう側から何かが押さえているような、そういう動かなさだった。

スマホを取り出した。画面を見て、胃の底が冷えた。

圏外。

一階では電波が入っていた。たしかに確認した。地下に降りただけで届かなくなったのか、それとも——。

扉をもう一度押した。叩いた。拳が金属にぶつかる鈍い音が、狭い階段に反響した。返事はない。何も聞こえない。ただ、扉の向こう側の空気が微かに震えているような気がした。私が叩く振動とは別の何かで。

手を止めた。

静かになった地下の廊下で、私は一人だった。懐中電灯の光だけが頼りだ。予備の電池はリュックにある。けれどそれがいつまで保つか。この匂いの中で、この暗闇の中で、出口のない地下に。

——落ち着け。

自分に言い聞かせた。パニックを起こしたら終わりだ。扉が閉まったのは風のせいかもしれない。老朽化した建物なら、ありえないことじゃない。出口は他にもあるはずだ。非常口が。非常階段が。建築基準法で、地下には複数の避難経路が——。

廊下の奥から、音が聞こえた。

足音ではない。何かを引きずるような、湿った音。ずる、ずる、と。一定の間隔で。近づいてきている。

懐中電灯を廊下の奥に向けた。光の輪が揺れる。十メートル先の闇の中に、何かが動いていた。白く、不定形で、ゆっくりと——。

光が届いた。

それは人間の形をしていた。白い。白いのではなく、灰色だ。皮膚が灰色で、髪も灰色で、纏っている衣服——病衣の残骸のようなもの——も灰色に染まっている。素足の指が床を擦って、あの湿った音を立てていた。

顔が見えた。

目が合った、と思った。けれど目ではなかった。眼窩はあるのに、瞳がない。白濁した、のっぺりとした眼球がこちらを向いている。

私は声を出せなかった。懐中電灯を持つ手が震えて、光の輪が痙攣したように跳ねた。

それは、一歩、こちらに足を踏み出した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ