第1話
第1話
「地下に降りたら、匂いが変わった」
その言葉を最初に見つけたのは、深夜二時のことだった。
画面の青白い光だけが部屋を照らしている。私——秋山凛は、もう何時間もパソコンの前に座っていた。民俗学ゼミのフィールドワーク課題。テーマは自分で選んだ。Loss病院にまつわる失踪譚。ネットの片隅で、ほとんど誰にも読まれないまま沈んでいく書き込みたちを、私はひとつひとつ拾い上げていた。
最初は偶然だと思った。二〇一九年に行方不明になった男子大学生のブログ。更新が途絶える三日前の記事に、その一文があった。「地下に降りたら、匂いが変わった」。廃病院の探索記録だった。
気になって検索を続けた。二〇二一年、フリーライターの女性が同じ病院を取材した後に失踪している。彼女が最後に知人に送ったメッセージ。「地下に降りたら、匂いが変わった。甘いような、腐ったような」。
三人目は去年だった。私のゼミの先輩、水島拓海さん。卒論のフィールドワークでLoss病院を訪れた後、連絡が取れなくなった。警察には届け出が出されたけれど、手がかりはない。水島さんが最後にゼミのグループチャットに投稿したメッセージを、私は何度も読み返していた。
「地下に降りたら、匂いが変わった」
三人が三人、同じ言葉を残している。
背筋に冷たいものが走った。エアコンの風が首筋をなぞる。違う、これは風のせいじゃない。怖いのだ。怖いのに、目が離せなかった。
ブックマークのフォルダには、もう三十以上の断片が入っている。失踪者たちの足取り、地元の噂話、匿名掲示板のスレッド。どれもばらばらで、信憑性も怪しい。けれど「地下」と「匂い」というキーワードだけが、糸のように繋がっていた。
翌日の午後、私はゼミの発表でこの調査結果をまとめたレジュメを配った。
コピー機から出てきた温かい紙の束を八部、手が汗ばむのを感じながら一枚ずつ配っていく。表紙に「Loss病院失踪事例における共通言語要素の分析」と書いた。大袈裟なタイトルだと自分でも思った。けれど中身に自信がなかったからこそ、せめて形式だけはきちんとしたかった。
「——以上のように、少なくとも三名の失踪者がLoss病院の地下階に言及しており、最後の発言に共通するフレーズが確認できます」
沈黙。八人いるゼミ生の視線が、手元のレジュメと私の顔を行き来する。窓の外でグラウンドの部活動の掛け声が聞こえた。午後の日差しがホワイトボードに反射して、やけに教室が明るい。その明るさが、自分の話の荒唐無稽さをいっそう際立たせている気がした。
最初に口を開いたのは、隣の席の宮本だった。
「秋山さん、これって要するにネットのコピペでしょ。同じフレーズが出回ってるだけじゃない?」
宮本は頬杖をつきながら、レジュメの端をぱらぱらとめくっていた。目を通す気がないのが丸わかりだった。
「でも、時期が違うんです。二〇一九年、二一年、去年。それぞれ別の人が——」
「都市伝説ってそういうものだよ」。向かいの田辺が肩をすくめた。「誰かが最初に書いた文章が拡散されて、それを真似る人が出てくる。ミームの伝播だ。民俗学的にはむしろそっちのほうが面白いだろ」
笑いが起きた。小さな、悪意のない笑い。けれど私の胸の奥で何かが軋んだ。喉の奥が熱くなる。泣きそうなのか、怒っているのか、自分でもわからなかった。レジュメを握る指に力が入る。紙の端がくしゃりと曲がった。
「水島先輩は実際に行方不明なんです」
声が震えた。自分でも驚くくらい。ゼミ室の空気が一瞬だけ固まった。宮本の頬杖が崩れ、田辺の口元から笑みが消えた。誰かがペンを落とした小さな音が、やけにはっきり聞こえた。
指導教官の笹倉先生が眼鏡を押し上げた。分厚いレンズの奥で、先生の目が一瞬だけ何か——同情とも警戒ともつかない色を帯びたように見えた。
「秋山さん。水島くんの件は警察が捜査中だ。我々が素人判断で動くべきじゃない」
「でも——」
「廃墟への不法侵入を前提とした調査は、大学として許可できない。テーマを変えなさい」
それ以上の反論は許されない空気だった。レジュメを片づけながら、指先が微かに震えているのを誰にも悟られないように拳を握った。ゼミが終わって教室を出ると、廊下の蛍光灯の白さが目に痛かった。背後で他のゼミ生たちが次の発表について雑談を始める声が聞こえた。もう私の話は終わったことになっている。
わかっている。証拠が足りない。論理が飛躍している。ネットの断片を並べただけで「ここに真実がある」と主張するのは、学術的にはお粗末だ。
わかっている。けれど。
水島先輩のメッセージの、最後の一行が頭から離れない。あの人は都市伝説を「真似た」んじゃない。自分の目で見て、自分の鼻で嗅いで、そう書いたのだ。
——私が確かめるしかない。
その結論に至るまでに、三日かかった。
三日間、私は普通の大学生のふりをした。講義に出て、バイトに行って、友達とご飯を食べた。けれど頭の中ではずっと、あの言葉が回っていた。地下に降りたら、匂いが変わった。匂いが変わった。匂いが。
友達と食べたパスタの味がしなかった。ミートソースの匂いを嗅いだ瞬間に「甘いような、腐ったような」という言葉が浮かんで、フォークを持つ手が止まった。向かいの席で友達が何か話していたけれど、内容が頭に入ってこない。相槌だけを返しながら、私はずっとあの地下のことを考えていた。
Loss病院は、市街地から車で四十分ほどの山間部にある。正式名称は六条中央病院。二〇一五年に経営破綻して閉鎖された後、管理者不在のまま放置されている。ネットでは心霊スポットとして名前が挙がるが、アクセスの悪さから訪れる人間は少ない。
地図を印刷した。懐中電灯を二本、予備の電池、モバイルバッテリー、軍手、マスク。リュックに詰めながら、自分の手が震えていることに気づいた。
怖い。心底、怖い。暗いところが苦手だし、虫も苦手だし、一人で廃墟に入るなんて正気じゃない。
でも、知りたい。
この矛盾が私という人間なのだと思う。怖がりのくせに、知らないままでいることのほうがもっと怖い。わからないものを「わからない」のまま放置することが、たぶん私にとっては一番の恐怖だった。
明日の朝、行く。
決意したのは、日付が変わる少し前だった。歯を磨いて、布団に入って、目を閉じた。
枕元のスマホが震えた。
画面を見る。非通知着信。時刻は午前零時十三分。
出るべきではないと思った。こんな時間の非通知なんて、ろくなものじゃない。指が震えている。けれど——知りたいという衝動が、恐怖より一瞬だけ速く、通話ボタンに触れた。
「……もしもし?」
応答はなかった。
ただ、呼吸音だけが聞こえた。かすれた、湿った呼吸。吸って、吐いて、吸って。人間の呼吸だ。けれど何かが違う。リズムが一定すぎる。まるで機械のように正確な間隔で、空気が喉を通る音だけが続いている。
「誰ですか」
声が裏返った。返事はない。呼吸だけが、正確に、繰り返される。
耳にスマホを押し当てたまま、私は暗い天井を見つめていた。自分の心臓の音が、相手の呼吸と重なって聞こえる。どくん、すう、どくん、はあ。二つのリズムが微妙にずれながら交互に鳴っている。布団の中で足先が冷たくなっていく。四月だというのに、真冬のような冷えが足首から這い上がってくる。
四秒、五秒、六秒——。
通話が切れた。
画面が暗くなる。部屋に静寂が戻る。エアコンの低い唸りだけが、鼓膜の奥で震えている。
着信履歴を確認した。非通知。折り返す手段はない。
布団を引き寄せて、目を閉じた。眠れるはずがなかった。あの呼吸音が耳の奥にこびりついている。規則正しく、正確に、まるで——。
まるで、まだ呼吸だけは続けている人間のように。
枕元のリュックの中で、懐中電灯の金属が微かに鳴った。明日、私はあの病院に行く。その判断が正しいのかどうか、もうわからなくなっていた。