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逃亡刑事・黒崎蓮

第3話 第3話

第3話

第3話

始発電車の蛍光灯が、黒崎の顔を青白く照らしていた。

京浜東北線の車内はまばらだった。早朝の通勤客がちらほらと座席を埋めている。黒崎はドア脇に立ち、窓ガラスに映る車内を監視していた。乗客の視線、手の動き、不自然な位置取り。誰も黒崎を見ていない。今のところは。車両が揺れるたびに、窓ガラスの反射像がわずかにぶれる。その揺らぎの中に異質な動きがないか、黒崎の目は自動的に追い続けていた。

川崎駅から乗った。鶴見川の河川敷で夜明けを待ち、始発の時刻に合わせて駅へ向かった。河川敷の草は夜露に濡れ、靴底が湿った土を踏むたびに小さな音を立てた。空が白みはじめても、体の芯に染みた夜気の冷えはなかなか抜けなかった。改札の防犯カメラは避けられない。だがICカードは使わない。券売機で現金切符を買い、帽子を目深に被って通過した。顔認証システムの精度は帽子一つで三割落ちる。捜査一課時代に検証した数字だ。

横浜まで十五分。だが直行はしない。

鶴見で降りた。階段を上がり、改札を出ずにホームを移動する。京浜東北線の反対方向、大船行きに乗り換えた。二駅乗って新子安で降り、今度は改札を出て駅前のバスロータリーを横切る。ロータリーの向こう側にあるコンビニで缶コーヒーを買い、店の裏手からもう一本隣の通りへ抜けた。徒歩で十分。仲木戸駅から京急線に乗る。

電車を三回乗り換え、徒歩を二回挟む。所要時間は直行の四倍。だが尾行を切るには経路の複雑さではなく、移動手段の切り替え回数が物を言う。徒歩と電車を交互に繰り返すことで、車両による並走追跡と徒歩尾行の両方を分断する。元刑事の逃亡技術が、自分自身の首を絞める皮肉。

京急で横浜へ。みなとみらい線に乗り換え、元町・中華街駅で降りた。

午前十一時。約束の午後二時まで三時間ある。

駅の出口を出ると、空気が変わった。中華街特有の油と香辛料の混じった匂いが鼻腔に触れる。赤い門楼の向こうに、色彩の洪水が広がっていた。金色の龍の装飾、赤提灯の列、漢字だらけの看板。観光客の喧噪が通りを満たしている。人混みは味方だ。群衆に紛れれば、個人の追跡は格段に難しくなる。

三時間を使って周辺を歩いた。媽祖廟通りの位置、永福楼の外観、出入口の数、裏路地への接続。建物は三階建ての雑居ビルで、一階が中華料理店、二階が個室、三階は不明。裏手に従業員用の非常階段がある。錆びた鉄製の階段で、二階の踊り場から路地へ直接降りられる。いざという時の脱出経路を二つ確認した。

午後一時五十分。永福楼の入口をくぐった。

一階は円卓が八つ並ぶ広間で、昼時の客が麺を啜っている。エビチリの甘酸っぱい香りと、炒め物の油煙が混ざった空気が肺を満たす。奥の階段を上がる。二階は個室が四部屋。廊下の突き当たりの部屋から、煙草の煙が漏れていた。

襖を開ける。

「遅えよ」

片桐は窓際の椅子に座り、煙草をくわえていた。五十代半ば、痩せた体躯に革のジャケット。右頬に古い切傷の跡がある。テーブルの上に灰皿と、湯気の立つ中国茶が二つ。黒崎の分も用意してある。

「十分前だ」黒崎は入口に背を向けず、壁際の椅子に腰を下ろした。

「十分前に来る男は、一時間前から店の周りをうろついてる。見えてたぞ」

片桐の目が細くなった。笑っているのか、値踏みしているのか。おそらく両方だ。

この男は情報屋だ。警察にもヤクザにも属さず、双方に情報を売る。黒崎が捜査一課にいた頃、非公式の情報提供者として何度か接触した。信用はしていない。だが片桐の情報は正確だった。金で動く人間は、逆に言えば金の分だけ誠実だ。

「で。何が欲しい」

片桐は茶を一口啜り、湯呑みをテーブルに戻した。磁器が木の天板に当たる硬い音が、個室の静けさの中で妙に響いた。

「港北区第三倉庫。所有者と管理団体。それと——」写真をテーブルに置いた。「この女が、誰にどう殺されたことになっているか」

片桐は写真を手に取り、十秒ほど眺めた。表情が変わらない。だが煙草を持つ指が一瞬止まった。知っている。黒崎はその反応を見逃さなかった。

「宮園沙耶か」片桐が写真を戻した。「お前の被害者。生きてるじゃねえか」

「知ってたのか」

「知ってたら、とっくに売ってる。だがこの写真の背景——タイだな。バンコクかチェンマイ。東南アジア系の金融ブローカーが絡んでるなら、話は面倒になる」

片桐は茶を一口飲み、灰皿に煙草を押しつけた。新しい一本に火を点ける。ジッポの蓋を閉じる金属音が乾いて響き、紫煙が天井に向かってゆっくりと立ち昇った。

「調べられる。倉庫の登記情報、管理会社の法人登記、周辺の監視カメラ配置。宮園の死亡届と司法解剖記録も、ルートがある。四十八時間の期限内に間に合わせてやる」

「代価は」

片桐の目が光った。待っていた言葉だ。

「お前、捜査一課にいた頃、鶴見の港湾労働者変死事件を担当してたな。二〇二四年十一月の件だ」

黒崎の指が膝の上で強張った。

「あの事件は未解決で処理された。だがお前は証拠を持ってる。被害者の携帯から抽出した通話記録のバックアップ。正規の証拠保全ルートに乗せなかったデータだ」

「なぜそれを知っている」

「知ってるから情報屋をやってる」片桐は煙を吐いた。「あのデータには港湾利権に絡む人間の名前が入ってる。俺の別の客が欲しがってる。データを渡せ。それが対価だ」

黒崎は黙った。

鶴見の事件。港湾労働者が冷凍コンテナの中で変死体で見つかった件。表向きは事故死で処理されたが、黒崎は他殺を疑い、独自に被害者の携帯データを複製していた。正規の証拠として提出する前に、宮園の事件が起き、逃亡生活に入った。データは——まだ持っている。クラウドストレージに暗号化して保管してある。

証拠データを情報屋に渡す。元刑事としての矜持が抵抗する。だがその矜持は半年前に砕かれた。今の自分は刑事ではない。逃亡者だ。

「一つ条件がある」黒崎は言った。「データは宮園を確保した後に渡す。情報が先だ」

片桐が笑った。初めて見せる、歯を剥き出しにした笑い。

「信用取引か。いい度胸だ」片桐は新しい煙草の煙を天井に向かって吐いた。「だがお前は逃げねえよ。逃げる奴は、こんな場所にのこのこ来ない」

立ち上がり、窓の外を一瞥してから黒崎に向き直った。

「明日の朝までに第一報を入れる。このメモの番号に、非通知でかけろ。三コールで切れ。かけ直す」

テーブルの上に紙片を滑らせた。黒崎はそれをポケットにしまい、席を立った。

「片桐」

振り返らずに言った。

「四十八時間のうち、もう二十時間が消えた」

「分かってる」片桐の声が背中に届いた。「だから急いでんだろうが」

階段を降り、一階の喧噪を抜けて通りに出た。中華街の午後の陽光が目を刺す。観光客の笑い声と中国語の呼び込みが、耳の中で溶け合っている。

黒崎は人混みに紛れながら、胸の内で天秤を揺らしていた。鶴見の事件のデータを渡せば、別の誰かの正義が動く可能性がある。あるいは、別の誰かの犯罪に加担する可能性も。片桐の「別の客」が何者かは分からない。だが分からないまま取引に応じようとしている自分がいる。半年前の黒崎なら、この選択肢を即座に切り捨てていた。

だが今、天秤の片方には宮園沙耶の命が載っている。

残り二十八時間。片桐の第一報を待つ間に、黒崎には準備すべきことがある。港北区の地理。倉庫周辺の地形。単独での潜入計画。情報が来る前にできることを、一つずつ潰す。

駅への道を歩きながら、ポケットの中の写真に触れた。角が少し折れている。何度も取り出したせいだ。

片桐は宮園の写真を見て、一瞬だけ指を止めた。あの反応は「知らなかった」のそれではない。完全な驚きなら、指ではなく目が動く。片桐は写真の存在ではなく、写真が黒崎の手にあることに反応した。

つまり、宮園が生きていることを——片桐は、すでに知っていた可能性がある。

背筋を冷たいものが伝った。情報屋は常に、売る相手より多くを知っている。片桐が何を知り、何を隠しているのか。その答えは、明日の第一報の中身で見えてくる。

黒崎は駅の階段を降りた。改札の向こうに、横浜の午後の光が細く差し込んでいた。地下へ続く階段の途中で、一瞬だけ足を止めた。背後に視線を感じた——気がした。振り返る。観光客の群れが、何事もなく通りを行き交っている。誰も黒崎を見ていない。だが半年の逃亡生活で身についた勘は、理屈より先に体を動かす。黒崎は歩調を変えずに階段を降りきり、改札を抜けた。

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