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逃亡刑事・黒崎蓮

第2話 第2話

第2話

第2話

雨脚が強まっている。

黒崎は運河沿いの遊歩道を南に向かって歩いていた。フードを深く被り、視線を落とす。雨粒がナイロンの表面を叩き、首筋を伝って背中に冷たい筋を引く。すれ違う人間はいない。午後十一時の工業地帯に、好んで出歩く者はいなかった。運河の水面が街灯のオレンジ色を揺らしているだけだ。工場の排気ダクトが吐き出す低い唸りが、雨音の底に沈んでいる。

歩きながら、内ポケットの写真を取り出す。街灯の下で立ち止まるわけにはいかない。指先の感触だけで裏面をなぞった。ボールペンの筆圧が残す凹凸。『港北区第三倉庫。48時間。』その下の日付と時刻。起算は今日の午前零時——残りは約二十九時間を切った。

港北区第三倉庫。心当たりはない。だが「第三」という番号は、複数の倉庫を管理する組織の存在を示唆している。個人の持ち物ではない。企業か、あるいはそれに類する団体の施設。

写真の表面に意識を戻す。薄暗い中では細部が見えない。だが脳裏に焼きついた映像を反芻する。カフェのテラス席。ヤシの木。東南アジア圏の看板文字——タイ語かベトナム語に見えた。宮園の髪は肩より下まで伸びていた。半年前に事情聴取で会ったとき、彼女の髪は肩の上で切り揃えられていた。髪が伸びた。つまり、時間が経過している。死亡認定は六ヶ月前。写真の髪の長さは、少なくとも三ヶ月以上の伸長を示していた。

宮園沙耶は、殺されていない。

その結論が胸の奥で鳴るたびに、黒崎の指は無意識に写真の縁を強く握った。半年間、自分が殺したと断じられた女が生きている。怒りなのか安堵なのか、感情の正体がつかめない。ただ、心拍が速くなっていることだけは確かだった。

遺体は別人か、あるいは偽装だった。司法解剖の結果を黒崎は見ていない。逮捕状が出た時点で逃亡したからだ。遺体の身元確認がどの程度厳密に行われたのか。歯科記録の照合は。DNA鑑定は。捜査一課の正規手続きなら見落とすはずがない——だが、捜査そのものが黒崎を嵌めるために歪められていたとしたら。

足を止めた。

運河にかかる歩道橋の手前。橋の向こう側、二百メートルほど先の路地の入口に、車が一台止まっている。エンジンはかかっていない。ライトも消えている。だが排気口から白い靄が微かに漂っている。エンジンを切ったばかりか、あるいはアイドリングを止めた直後。

偶然かもしれない。だが黒崎の足は、もう歩道橋に向かっていなかった。首の後ろに走った冷たい感覚。刑事時代に何度も経験した、理屈ではない警報。身体が先に動いていた。

左に折れ、運河と並行する裏路地に入る。工場の外壁と資材置場のフェンスに挟まれた細い道。アスファルトの亀裂から雑草が伸び、雨に打たれて地面に張りついている。錆びた鉄柵の匂いと、どこかの排水溝から漂う油の臭いが混じり合っている。

五十歩進んで振り返る。追ってくる人影はない。だが安心はしなかった。プロの尾行は対象の背後につかない。並行移動か、先回り。黒崎が捜査一課で教わった手法がそのまま自分に使われている可能性を考えた。

裏路地を抜け、片側一車線の県道に出た。交通量はほぼゼロ。道路を渡り、反対側の歩道に移る。五十メートル歩いてから、不意に方向を変えた。来た道を戻るように横断歩道を渡り返す。

——いた。

三百メートル後方、コインランドリーの軒下。人影が一つ。黒崎が方向を変えた瞬間、身体を建物の影に引いた。素人なら気づかない。だが黒崎は「引く動き」を見ていた。立っている人間が突然身を隠す——それは見られていることを意識した反応だ。

一人ではない可能性が高い。車が別にいるなら、徒歩の尾行者は連絡係。無線かスマートフォンで位置を伝えている。包囲網を作られる前に、この追跡を切らなければならない。

黒崎は歩調を変えずに歩き続けた。走れば相手も走る。今の段階では「気づいていない」と思わせる方がいい。次の交差点を右折。工場の搬入路に入った。ここはトレーラーが出入りするため道幅が広く、敷地内にフォークリフトや資材が散在している。身を隠す場所が多い。

フォークリフトの陰に滑り込んだ。息を殺す。雨がフォークリフトの鉄骨を打つ音が、自分の呼吸より大きいことを確認した。背中を冷たい金属に預け、視線だけを交差点の方向に据える。

十五秒後、交差点の角から人影が現れた。男。黒いウインドブレーカーにジーンズ。帽子はない。左手に何かを握っている。距離があって判別できないが、形状からスマートフォンだろう。男は搬入路に入り、足を止めた。視線が左右に動く。黒崎を見失った。

男がスマートフォンを耳に当てた。低い声で何かを話している。聞き取れない。だが通話しているということは、相手がいる。やはり複数人の監視体制。

四十秒ほどで男は通話を終え、搬入路の奥へ歩き始めた。黒崎を探している。

今だ。

フォークリフトの陰から這い出し、来た道を逆行する。交差点を左折。男が入ってきた方向と反対側へ。足音を殺し、路肩の水たまりを避けて走る。

二つ目の路地を右折、三つ目を左折。工業地帯の地図は頭に入っている。半年間、逃亡経路を何通りもシミュレーションしてきた。この一帯の道は、すべて黒崎の身体に刻まれている。

五分後。鶴見川の支流にかかる小さな橋の下で足を止めた。橋桁のコンクリートが雨を遮り、束の間の乾いた空間を作っている。耳を澄ます。追手の気配はない。撒いた。

呼吸を整えながら、状況を整理した。

宿舎が割れた直後に尾行がついている。写真を置いた人間と尾行者が同一かは分からない。だが時系列は明確だ。先に部屋に侵入した何者かがいて、黒崎が出てきたところを別の何者かが追った。共謀しているのか、それとも異なる勢力が同時に動いているのか。

いずれにせよ、この地域にはもういられない。

写真を取り出す。橋桁の隙間から差し込むわずかな街灯の光で、もう一度表面を確認した。宮園のグラスに手を伸ばす横顔。視線は斜め下、テーブルの上を見ている。唇がわずかに開いている。何かを言いかけた瞬間——あるいは、微笑みの直前。

死者の微笑。

罠だとしても構わない。だが罠に飛び込むなら、情報がいる。港北区第三倉庫の所有者、管理団体、周辺の地形。宮園の「死」がどう処理されたかの詳細。一人で調べるには時間が足りない。

一人で調べる必要はない。

黒崎は使い捨ての携帯電話を取り出し、電源を入れた。登録されている番号は三つだけ。そのうちの一つを呼び出す。コール音が三回鳴り、四回目の途中で繋がった。

「——久しぶりだな、片桐」

沈黙。受話器の向こうで、男の呼吸音だけが聞こえた。五秒。十秒。橋の下を吹き抜ける風が、黒崎の濡れた髪を揺らした。

「死んだと思ってたぜ」低く、しわがれた声が返ってきた。「番号変えてねえのか。相変わらず間抜けだな」

「会いたい。明日中に」

「断る」

「情報がいる。払いはする」

もう一度、沈黙。片桐が煙草を吸う音が聞こえた。長い吐息。吸い込む音、間、そして煙を吐く音。黒崎はその間隔から片桐の思考を読もうとした。迷っているのではない。条件を計算している。

「……場所は俺が指定する。中華街の媽祖廟通り、『永福楼』の二階。明日の午後二時。一人で来い」

通話が切れた。

黒崎は携帯の電源を落とし、バッテリーを抜いた。通話時間は三十八秒。逆探知には不十分な長さ——だが油断はできない。この携帯は使い捨てだが、片桐の番号は固定だ。あちらが監視されていれば、接触記録は残る。

橋の下から這い出す。雨は小降りになっていた。空気が少しだけ温んでいる。夜明けまであと五時間。それまでに川崎を離れなければならない。

バックパックの紐を締め直し、鶴見川の河川敷に沿って歩き始めた。横浜方面。中華街。片桐。半年間避けてきた人間に、自分から会いに行く。

残り二十八時間。

宮園が生きている。その一点だけが、闇の中の磁石だった。黒崎の足は止まらない。コンクリートの護岸を踏む靴音だけが、川面の静寂に小さく響いていた。

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