第1話
第1話
雨が、錆びた鉄骨を叩いている。
黒崎蓮は工場の搬入口脇に立ち、煙草に火を点けた。吸わない。煙の流れで風向きを読む。北東。監視カメラの死角は搬入口から左に十二歩、フェンス沿いに進めば駐車場の裏手に抜けられる。半年前に刑事をやめた——正確には、やめさせられた——男の習慣は、骨に染みついて消えない。
午後六時。日雇いの現場が終わり、作業員たちが三々五々と散っていく。黒崎は誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさない。この工業地帯で「田中」を名乗る無口な男は、空気のように透明な存在だった。
煙草を捨てる。踵で揉み消し、雨に濡れた路地へ踏み出した。
宿舎までの経路は三つある。今日は二番目のルートを選んだ。京浜工業地帯の外れ、運河沿いの細道を通る。街灯が二本に一本の割合で切れている。暗がりは味方だ。足音を殺し、水たまりを避けながら歩く。背後の気配を常に意識する。尾行はない。三十秒ごとに確認する癖が、もう身体の一部になっていた。
運河の水面に工場の排気灯が橙色に揺れている。油膜の浮いた水が、雨粒のたびに同心円を広げては消す。潮の匂いと重油の匂いが混ざった空気が鼻腔の奥にへばりつく。半年前、捜査車両の助手席から眺めていた東京の夜景とは別の国のようだった。あのころは、街の灯りの下にいる側の人間だった。今は灯りの届かない水際を歩いている。足元を流れる黒い水が、時折ごぼりと音を立てた。まるで運河そのものが、何かを飲み込む喉のようだった。
途中、コンビニに寄った。弁当と水を買う。店員の目を見ない。防犯カメラの画角を把握しているから、棚の影になる位置で商品を選ぶ。レジでは俯き加減に金を出す。顔の特徴を記憶されにくい角度。元捜査一課の刑事が、万引き犯のような所作で日用品を買う。笑えない冗談だった。
宿舎は運河から二本入った路地の、四階建ての古いアパートだ。外壁の塗装が剥がれ、階段の手すりは錆で茶色く変色している。三階の角部屋。家賃三万八千円。身分証の要らない物件を探すのに三日かかった。
階段を上がる。二階の踊り場で足を止めた。
靴底が、何かを踏んだ。
砂利。コンクリートの踊り場に、砂利が散っている。昨日はなかった。黒崎の目が細くなる。砂利の粒は均一で、工事現場で使う砕石に似ている。誰かが靴底につけて運んだ。この階段を、最近誰かが上った。
黒崎は膝を落とし、砂利を一粒つまみ上げた。指先で転がす。角が立っている——新しい砕石だ。近隣で工事をしている現場は、三丁目の道路拡張だけ。住人なら砂利は玄関前で落とす。二階の踊り場まで持ち込む理由がない。
右手が腰に伸びる。そこにあるべきホルスターは、もうない。指先が空を掴む感触に、半年経っても慣れない。代わりに拳を握り、爪が掌に食い込む痛みで意識を研ぎ澄ませた。
呼吸を整える。三階まで壁に背をつけて上がった。角部屋のドア。鍵穴を確認する。傷はない。だがドアの下端に挟んでおいた髪の毛が、なくなっていた。
誰かが、入った。
黒崎は五秒間、ドアの前で耳を澄ませた。室内に人の気配はない。ドアノブを左手で掴み、右足を軸にして一気に押し開けた。身体は壁際に張りつく。
暗い室内。雨音だけが窓ガラスを叩いている。
スイッチを入れた。蛍光灯が二度瞬いてから点く。
部屋は荒らされていた。
畳んであった着替えが床に散乱し、シンク下の収納が開け放たれている。マットレスがずらされ、床板との隙間に押し込んでいた非常用の現金——三万円——が消えていた。だが荒らし方に違和感がある。物色の痕跡は雑だが、配置を見ると家捜しの手順が一定のパターンに従っている。素人の空き巣じゃない。何かを探していた。あるいは、何かを残すために来た。
黒崎は床に散らばった衣類を一つずつ確認した。発信機やカメラが仕込まれていないか。シンク下に頭を突っ込み、排水管の裏側を指で探る。何もない。だが鼻腔がかすかな異臭を拾った。タバコでも食べ物でもない。革と、微かな柑橘系の——コロンだ。安物じゃない。日雇いの作業員が使う匂いではなかった。この部屋に入った人間は、この街に似つかわしくない誰かだ。
壁。
黒崎の視線が、窓際の壁に釘付けになった。
一枚の写真が、釘で打ちつけられていた。
L判のスナップ写真。女性が映っている。カフェのテラス席で、テーブルの上のグラスに手を伸ばしている横顔。背景にはヤシの木と、東南アジア特有の看板文字が見える。
黒崎の心臓が跳ねた。
宮園沙耶。
半年前、黒崎が担当していた資金洗浄事件の重要証人。そして、黒崎が「殺した」とされている女。
死んでいるはずの女が、写真の中で生きていた。
写真を壁から抜き取る。手が震えた。裏面を返す。ボールペンの走り書き。
『港北区第三倉庫。48時間。』
数字の下に、日付と時刻が書かれている。起算点は今日の午前零時。つまり残りは約三十時間。
黒崎は写真を光にかざした。印刷の質はコンビニプリント。だが写真自体のデータ——背景の店舗看板、光の角度、宮園の髪の長さ——が示す撮影時期は、彼女の死亡が認定された日よりも明らかに後だ。
あの夜のことが蘇る。
事情聴取のために宮園を保護する手はずだった。だが約束の場所に現れたのは、宮園ではなく所轄の制服警官二人と、殺人の逮捕状だった。宮園の遺体が発見された。凶器から黒崎の指紋が検出された。弁解の余地もなく、黒崎は——走った。
あの瞬間の記憶は不思議なほど鮮明だ。制服警官の一人が逮捕状を読み上げる声。もう一人の手が手錠に伸びるのが視界の端に映った。黒崎の身体は思考より先に動いていた。路地に飛び込み、フェンスを越え、排水溝の蓋を蹴り外して下水道に潜った。背後で怒号が聞こえた。自分の名前が、犯人を追う声色で叫ばれていた。その声は今も耳の奥に貼りついている。夜ごと、まどろみの淵で聞こえる。「黒崎——止まれ!」。あの声の主は同期の刑事だった。一緒に飯を食い、張り込みの車内で缶コーヒーを分け合った男の声が、自分を殺人犯として追いかけてきた。
逃げた夜から半年。公判は欠席のまま進行しているはずだ。元同僚たちは黒崎を人殺しだと思っている。家族とも連絡を絶った。すべてを失った。
だが。
宮園が生きているなら、すべてが変わる。
黒崎は写真の中の横顔を見つめた。カフェの光に照らされた宮園の表情は穏やかだった。少なくともこの瞬間、恐怖や苦痛の中にはいない。生きている。どこかで、息をしている。その事実が胸の底から熱い塊となってせり上がってきた。怒りに似ている。だが怒りとは違う。半年間、氷の下に沈めていた何かが、ひび割れた音を立てて浮上してくる。
写真をジャケットの内ポケットにしまった。部屋を見回す。もうここには戻れない。侵入者が誰であれ、この場所は割れた。
罠の可能性は高い。黒崎を誘い出し、始末するための餌。だが逆に考えろ。殺すだけなら、寝込みを襲えばいい。写真を残して去った意味は何だ。相手は黒崎に動いてほしい。それが罠だとしても、動く理由を与えた。
宮園が生きている。
その可能性がゼロでない限り、黒崎蓮という男は動く。刑事だったからじゃない。あの夜、守れなかった証人がまだ息をしているなら——。
三十秒で荷物をまとめた。着替え、非常食、折りたたみナイフ、使い捨ての携帯電話。バックパック一つ。逃亡者の全財産。
階段を降りる前に、もう一度部屋を振り返った。半年間の隠れ家。安全だと思っていた場所。蛍光灯の白い光が、何もなくなった部屋を照らしている。ここで過ごした百八十二日の夜を、黒崎は一度も安眠できなかった。それでもこの部屋には屋根があり、鍵があり、世界から切り離された静寂があった。それすらも今、失われた。
もう、どこにも安全な場所はない。
雨の中に踏み出す。北東の風が頬を打つ。冷たい雨粒が首筋を伝い、背中を流れ落ちていく。身体が芯から冷えていくのに、胸の内側だけが焼けるように熱い。黒崎は宿舎に背を向け、運河沿いの闇に溶けた。ポケットの中で、写真の角が指先に触れている。
四十八時間。
時計の針が、動き始めた。