第3話
第3話
橋本に会う決断をしたのは、消去法だった。
千葉へ向かう途中、神崎は湾岸線を降りて葛西臨海公園の駐車場に車を止めた。エンジンを切り、暗い車内で思考を整理する。午前三時。駐車場には他に二台。どちらも無人。観覧車のシルエットが夜空に黒く浮かんでいる。
宮部を追う前に、確認すべきことがある。
警察側がこの件をどう把握しているか。赤城は「警察にとっても都合が悪い」と言った。それが事実なら、組対部は独自に宮部を追っている可能性がある。神崎が宮部に接触したとき、そこに警察の網が張られていれば詰む。
リスクは承知の上だ。だが情報なしで動くリスクの方が大きい。
携帯を取り出した。橋本のナンバーを呼び出す。半年間の沈黙を破る。指が一瞬止まったが、迷っている時間はなかった。画面の光が車内を青白く照らし、自分の顔がフロントガラスにうっすら映った。疲弊した目が、暗闇の中でこちらを見返している。
コールは三回で繋がった。午前三時の電話に、三コール。早すぎる。
「——神崎か」
橋本の声は明瞭だった。寝起きの気配がない。
「久しぶりです。緊急の件で」
「場所を指定しろ」
それだけだった。理由も聞かない。半年も連絡を絶っていた潜入捜査官からの深夜の電話に、驚きも怒りもない。まるで、この電話を待っていたかのような反応だった。
神崎は待ち合わせ場所を告げた。葛西臨海公園の展望広場。午前四時。人目がなく、見通しが利く。尾行の確認もしやすい。
電話を切った後、バックミラーを確認した。尾行なし。だが橋本の声の温度が、引っかかっている。
*
橋本は時間通りに現れた。
五十手前。痩身で、常にアイロンの効いたシャツを着ている男だ。深夜でもそれは変わらない。グレーのジャケットの下に白いシャツ。革靴の音が舗装された遊歩道に響く。
展望広場のベンチに並んで座った。東京湾の向こうに、工業地帯の灯りが横一列に並んでいる。風が強い。潮の匂いが濃い。
「半年だな」
橋本が口を開いた。咎める調子はない。事実を確認しただけ。
「組織の警戒が強まっていた。接触を控える判断をしました」
「それはいい。で、何があった」
神崎は要点だけを伝えた。赤城から宮部の処理を命じられたこと。宮部が組織のデータを持ち出して逃亡中であること。そしてそのデータに、二年前の横浜の通信記録が含まれていること。
最後の一点を告げたとき、橋本の反応を注視した。
変化は、なかった。
眉一つ動かない。視線は海を向いたまま。呼吸のリズムも変わらない。
それが異常だった。
桐生が殉職した作戦の通信記録。その存在を聞いて、何の反応も示さない人間がいるとすれば——すでに知っていた人間だけだ。
「宮部か」
橋本がようやく口を開いた。声は平坦。
「こちらでも情報は掴んでいる。元々〈鉄環〉の資金洗浄ルートを追う中で、宮部の名前は浮上していた」
嘘だ、と神崎の直感が告げた。
資金洗浄の捜査で名前が浮上しただけなら、この深夜の電話に三コールで出る理由にならない。橋本は宮部の件を、資金洗浄の文脈ではなく、通信記録の文脈で追っている。
「処理の件、どうすべきですか」
あえて指示を仰ぐ形にした。潜入捜査官として当然の行動。だが真の目的は、橋本の次の言葉を聞くことだ。
橋本は五秒ほど黙った。海風がジャケットの裾を揺らしている。視線は相変わらず海に固定されたまま。その沈黙が計算されたものであることを、神崎は見抜いていた。
「宮部は始末しろ」
声のトーンが変わっていた。平坦なまま、しかし一段低い。命令の声だ。
「データごと消せ。通信記録は警察にとっても機微な情報が含まれている。外部に出れば捜査手法が漏洩する。組織の命令に従う形で処理しろ。こちらとしても都合がいい」
神崎は呼吸を止めた。
赤城と同じ台詞。「データごと消せ」。まったく同じ指示が、組織と警察の両方から降りてきた。
「捜査手法の漏洩」。もっともらしい理由だ。だが通信記録に含まれるのは、誰がいつどこに連絡したかという事実データであり、捜査手法とは別の問題だ。橋本はそれを知っているはずだ。
都合がいい。橋本はそう言った。誰にとって都合がいいのか。
「了解しました」
神崎は短く答えた。それ以上は聞かない。聞けば警戒される。
橋本が立ち上がった。ベンチの座面を掌で一度叩き、埃を払うような仕草をした。
「一つ確認だ。宮部にはまだ接触していないな」
「これからです」
「そうか。接触前に必ず連絡しろ。場所と時間を事前に報告。これは絶対だ」
その指示が意味することを、神崎は即座に理解した。橋本は神崎の動きを把握したがっている。宮部に接触する瞬間を監視下に置きたい。理由は一つ。神崎がデータを見る前に、確実に消したいからだ。
「分かりました」
橋本が歩き去っていく。革靴の音が遠ざかり、やがて駐車場でエンジン音が上がった。テールランプの赤い光が暗闇に吸い込まれていく。
神崎は一人、ベンチに残った。
*
風が強まっている。東の空が、ごく薄い紫色に変わり始めていた。
神崎はベンチの背もたれに身体を預け、暗い海を見つめた。波の音が単調に繰り返される。遠くの灯りが、水面に細長い光の筋を落としていた。
橋本の反応を、頭の中で再構成する。
一つ。深夜三時の電話に即応した。宮部の件、あるいは通信記録の件で、すでに臨戦態勢にあった。
二つ。横浜の通信記録の存在を聞いて動揺しなかった。既知の情報だった。
三つ。「宮部を始末しろ」。組対部の連絡窓口が、潜入捜査官に殺人を命じた。建前上の理由は捜査手法の保全。だが本音は別にある。
四つ。接触前に場所と時間を報告しろ。神崎の行動を完全に監視下に置く意図。
パズルのピースが揃い始めている。まだ全体像は見えない。だが一つだけ確実なことがある。
橋本は、あの通信記録の中身を知っている。そしてそれが世に出ることを、極度に恐れている。
赤城は組織の利益を守るためにデータの消去を命じた。それは理解できる。だが橋本は違う。橋本が恐れているのは、捜査手法の漏洩などではない。あの通信記録には、橋本自身か、あるいは橋本の上にいる誰かの関与が記録されている。
桐生を殺した指示系統の中に、橋本がいる。
断定はまだできない。だが仮説としては十分に成立する。
神崎はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐く。指先は安定していた。怒りは、もう制御できている。三年間で学んだ。怒りは判断を鈍らせる。冷たく保て。
方針を固めた。
宮部は殺さない。データを確保する。その上で橋本には偽の報告を入れる。接触場所と時間は嘘を伝える。橋本が何を仕掛けてくるか、それ自体が証拠になる。
二つの顔を使い分ける。組織には忠実な実行者として。警察には従順な潜入官として。そのどちらでもない三つ目の顔で、桐生の仇を追う。
ベンチから立ち上がった。膝が一瞬軋んだ。身体は疲弊している。だが頭は冴えていた。三年間で最も冴えている。
煙草を地面に落とし、靴底で踏み消した。灰色の煙が風に千切れて消えた。
駐車場に戻り、車に乗り込んだ。茶封筒を助手席に広げ、宮部の潜伏先の情報を改めて確認する。九十九里。外房の小さな集落。人口数百の過疎地域。隠れるには向いているが、よそ者は目立つ。
エンジンをかけた。ナビに九十九里の住所を入力する。到着予定、午前六時過ぎ。夜明けとほぼ同時だ。
千葉へ向かう高速に乗った。バックミラーに映る東京の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。前方の空は紫から薄い灰色に変わりつつあった。
橋本の最後の言葉が耳に残っている。「接触前に必ず連絡しろ」。その声に含まれていた、かすかな切迫。あれは命令ではなく、懇願に近い何かだった。追い詰められた人間が出す声の色を、神崎は組織の中で嫌というほど聞いてきた。
報告はしない。少なくとも、本当の場所は教えない。
橋本がどう動くか。それが答えになる。
アクセルを踏み込んだ。千葉の夜明けへ向かって、車は走る。