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鉄環の墓標

第2話 第2話

第2話

第2話

新木場の雑居ビルは、昼間は貿易会社の看板を掲げている。夜は別の顔を見せる。

一階奥の事務所。蛍光灯が一本切れかけていて、部屋の右半分が薄暗い。安物のスチールデスクが三つ並び、壁際にはスチール棚が積まれている。表向きの書類が、埃をかぶって並んでいた。どこかで水道管が軋む音がして、壁の向こうから低い振動が伝わってくる。

赤城は革張りのソファに深く腰を沈め、グラスを傾けていた。五十代半ば。白髪交じりの短髪に、度の入っていない黒縁眼鏡。一見すると中小企業の経営者にしか見えない。だがこの男が〈鉄環〉の実働部門を束ねている。末端の粛清から警察との駆け引きまで、赤城の手を通らない案件はない。

「座れ」

赤城が顎でソファの対面を示した。神崎は従った。テーブルの上にはウイスキーのボトルと、灰皿。赤城の煙草の煙が、切れかけた蛍光灯の明滅に合わせて揺れている。

「今夜の取引、問題なかったそうだな」

「いつも通りです」

「いつも通り、か。お前がいるとこっちは楽だよ、神崎」

赤城がグラスを置いた。氷がカラリと鳴る。その目が笑っていない。

「本題に入る」

空気が変わった。赤城の声から世間話の色が消え、乾いた事務的なトーンに切り替わる。神崎は背もたれから背中を離し、わずかに前傾した。

「宮部浩一。覚えてるか」

名前に聞き覚えがあった。〈鉄環〉の経理を担当していた男。神崎が組織に入った頃にはすでに古参で、金の流れを一手に管理していた。一年ほど前に姿を消したと聞いている。

「金庫番だった男ですね。行方をくらましたと」

「そうだ。一年逃げ回っていやがった」

赤城が新しい煙草に火をつけた。ライターの炎が、眼鏡のレンズに反射する。

「足取りが掴めた。千葉の外れ、九十九里方面に潜伏してるらしい。問題は、あいつがデータを持ち出してることだ」

「データ」

「〈鉄環〉の取引記録、連絡網、金の流れ。三年分のデータをそっくり抜いて消えやがった」

赤城はゆっくりと煙を吐き出した。煙が蛍光灯の光の中を漂い、天井に向かって広がる。

「放っておけば、どこかに売る。警察か、他の組織か。どっちにしろ面倒だ」

「それで、俺に」

「処理しろ。宮部を見つけて、データごと消せ」

処理。その一語が意味することは明確だった。殺せ、ということだ。

神崎は表情を変えなかった。三年間で身についた仮面は、もうほとんど本当の顔と区別がつかない。

「期限は」

「一週間。それ以上は待てない」

赤城がテーブルの引き出しから茶封筒を取り出し、滑らせた。中を開けると、宮部の写真と、千葉県内の住所が数カ所。車のナンバー。逃亡先で使っているらしい偽名。組織の情報網が一年かけて集めた成果だ。

「なぜ俺ですか。この手の仕事なら、他にも——」

「お前が一番確実だからだ」

赤城が遮った。眼鏡の奥の目が神崎を捉えている。値踏みするような視線。

「それともう一つ、厄介な事情がある」

赤城が身を乗り出した。声が低くなる。

「宮部が持ち出したデータの中に、二年前の横浜の件の通信記録が含まれてる」

心臓が止まった。

比喩ではない。一瞬、本当に鼓動が途切れた感覚があった。横浜。二年前。桐生が殺されたあの夜の——通信記録。

背筋を冷たいものが這い上がる。こめかみの奥で血流の音が急に大きくなった。視界の端がわずかに歪む。三年間の潜入で何度も修羅場を潜ってきたが、この瞬間ほど仮面が剥がれかけたことはない。

神崎は呼吸を整えた。表情筋を意識的に制御する。眉を動かすな。目を見開くな。何も感じていない顔をしろ。

「横浜の件、というと」

「お前も現場にいただろう。警察に踏み込まれた夜だ。あの夜の無線通信、携帯の発着信、GPSログ。全部データに入ってる。宮部はああ見えて用心深い男でな、組織内の通信記録を全部バックアップしてた」

赤城がグラスのウイスキーを一口含んだ。飲み込んでから、笑った。

「あいつが持ってるブツは、警察にとっても都合が悪いらしいぜ」

その笑みの意味を、神崎は瞬時に読み解いた。赤城は知っている。あの夜の通信記録には、組織側だけでなく警察側の不都合な真実が記録されていることを。

「どういう意味です」

あえて訊いた。表面上は冷静な疑問。内側では思考が加速している。

「さあな。俺も全部は知らん。だが宮部は面白いことを言ってたらしい。金庫番のくせに、妙に情報通だった男だ」

赤城はそれ以上は語らなかった。テーブルの上の茶封筒を指で叩く。

「一週間だ、神崎。綺麗に片づけろ」

    *

事務所を出た。

夜風が頬を打つ。四月の深夜、気温は十度を切っている。だが神崎の額には薄く汗が浮いていた。潮の匂いを含んだ風が、雑居ビルの隙間を吹き抜けていく。遠くで貨物列車の警笛が鳴り、その残響が湾岸の闇に溶けていった。

車に乗り込み、エンジンをかけない。暗い車内で、ハンドルに両手を置いたまま動かなかった。革のハンドルカバーが、汗ばんだ掌に張りついている。

通信記録。

桐生が殺されたあの夜の、すべての通信記録。

それが存在するということは——誰が、いつ、どこから、誰に連絡を取ったのか。すべてがデータとして残っているということだ。桐生の背中を撃った弾丸の出どころを、物理的に証明できる可能性がある。

一年間、自分なりに調べてきた。だが決定的な証拠は見つからなかった。現場の弾丸は回収済み。監視カメラの映像は「機材トラブルで欠損」と処理されていた。証拠は組織的に消されていた。

だが通信記録は別だ。宮部が組織のバックアップとして保管していたなら、改竄されていない生データが残っている可能性がある。

神崎はゆっくりと息を吐いた。吐いた息が、フロントガラスの内側をわずかに曇らせた。

宮部を殺すわけにはいかない。

あのデータを手に入れなければならない。桐生を殺した人間の名前が、あの中にある。

だが赤城の命令は「処理」だ。データごと消せ。宮部を生かして帰れば、組織の中での三年間が崩れる。潜入者としての立場も、復讐者としての足場も、すべてが失われる。

選択肢は二つ。

命令に従い、宮部を殺してデータを破壊する。復讐の手がかりは永遠に失われるが、組織内の立場は守られる。

あるいは——宮部を確保し、データを手に入れた上で、赤城には「処理した」と報告する。成功すれば桐生の死の真相に大きく近づく。失敗すれば、死ぬのは自分だ。

選択肢は一つしかなかった。最初から。

神崎はエンジンをかけた。

赤城の言葉が頭の中で反響する。「あいつが持ってるブツは、警察にとっても都合が悪いらしいぜ」。警察にとっても。それは組対部——神崎の本来の所属先もまた、あの通信記録の存在を恐れていることを意味する。

組織だけではない。警察も、宮部のデータを消したがっている。

二つの巨大な力が、一人の逃亡者を消そうとしている。その間に、神崎は割り込まなければならない。

首都高に乗った。深夜の道は空いている。街灯のオレンジ色の光が等間隔で車内を照らしては消えていく。その断続的な明滅が、赤城の事務所の蛍光灯と重なった。神崎は茶封筒の中身を思い返した。九十九里方面。千葉の外房。人口の少ない地域。隠れるには悪くないが、逃げ場も少ない。

一週間。その間に宮部を見つけ、データを確保し、宮部を始末したように見せかける。

不可能ではない。だが余裕もない。一手でも間違えれば、組織と警察の両方から追われることになる。

携帯を取り出し、電話帳を開いた。組対部の連絡窓口——橋本のナンバーが表示される。定期連絡を止めてから半年。だが今回ばかりは、橋本に接触する必要があるかもしれない。宮部の件を報告し、警察側の反応を探る。

指が画面の上で止まった。

赤城の笑い顔が脳裏をよぎる。警察にとっても都合が悪い。橋本もまた、信用できる相手ではない可能性がある。あの通信記録に、橋本の名前が含まれていないという保証はどこにもない。

神崎は携帯をポケットに戻した。まだ早い。まずは宮部を見つける。すべてはそこからだ。

車は湾岸線を東へ走る。フロントガラスの向こうに、夜明け前の空がわずかに白み始めていた。

宮部浩一。

元金庫番。逃亡者。そして今、桐生の死の真相を握っているかもしれない唯一の人間。

殺すなと命じる自分と、殺せと命じる組織の間で、神崎は千葉へ向かう高速道路のアクセルを踏み込んだ。

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