第1話
第1話
潮の匂いが、血の記憶を連れてくる。
神崎蓮司は埠頭の暗がりに立ち、コンテナの影から海面を見つめていた。午前一時。東京湾の黒い水面に、対岸の工業地帯の灯りがぼんやりと揺れている。左耳にはめた無線機から、断続的にノイズが漏れる。風が湾岸特有の重たい湿気を運んできて、革ジャケットの襟元にまとわりつく。コンテナの鉄壁は夜露で薄く濡れ、指先で触れるとひんやりとした冷たさが骨まで伝わった。どこかで係留索が軋む音がして、それが不規則なリズムを刻んでいる。この場所に立つたび、自分の心臓がそのリズムに同期していく錯覚に陥る。
今夜の取引は銃器。中国ルートから流れてきた改造トカレフ二十丁。買い手は都内の半グレグループ。神崎の役目は現場の見張りだ。
三年。
犯罪組織〈鉄環〉の末端構成員として、この世界に沈んでから三年が経つ。警視庁組織犯罪対策部の潜入捜査官——それが本来の肩書だ。だが今の神崎にとって、その肩書は名刺の裏に印刷された別人の名前と同じくらい、意味を失っていた。
潜入初日の記憶はもう霞んでいる。あのとき自分は何を感じていた。正義感か、使命感か、それとも恐怖か。今はもう、どれも思い出せない。三年という時間は、人間の輪郭を少しずつ削り取る。かつて自分が何者だったのか、鏡を見ても分からなくなる日が来る。神崎はとうにその日を通り過ぎていた。
腰のホルスターに収まった拳銃の重さを確かめる。組織から渡されたグロック。何度か使った。人に向けて引き金を引いたことも、ある。最初の一発を撃った夜のことは覚えている。相手の肩口に当たり、男は倒れ、血が黒いアスファルトに広がった。あの夜、帰りの車の中で手が震えたのは寒さのせいだと自分に言い聞かせた。二発目からは、もう震えなかった。それが成長なのか、喪失なのか、神崎には判断がつかない。
「神崎、東側クリア?」
無線から声。組の若手、黒沢だ。二十代半ば、気が利くが深く考えない。この世界では長所でもあり、致命的な短所でもある。
「問題ない」
短く返す。視線は海から離さない。買い手の船が近づいている。小型のプレジャーボート。予定通り。暗い海面を切り裂くように白い航跡が伸び、エンジンの低い唸りが水を通して腹の底に響いてくる。
取引そのものに緊張はない。この三年で何十回と立ち会ってきた。段取りは身体に染みついている。立ち位置、逃走経路、万が一の射線。すべて頭に入っている。
問題は、それが「捜査」のためではないということだ。
神崎が〈鉄環〉に留まり続ける理由は、とうに正義とは無関係になっていた。
*
二年前の光景が、不意に蘇る。
あの夜も埠頭だった。場所は横浜。〈鉄環〉の武器庫を急襲する作戦の最中、相棒の桐生が撃たれた。
作戦は午前三時に始まった。横浜港の外れ、放棄されたように見せかけた倉庫。錆びた鉄扉の隙間から、内部の蛍光灯が青白い線を落としていた。突入の直前、桐生は防弾チョッキのベルクロを締め直しながら、いつもの癖で首を左右に鳴らした。コキ、コキ。その音が、今も耳の奥にこびりついている。
銃声は二発。一発は壁に当たり、もう一発は桐生の背中を貫いた。
——背中を。
敵は前方にいた。桐生は突入の先頭に立っていた。背後にいたのは味方だけだ。
桐生が倒れた瞬間、神崎は振り返った。暗闘の中、誰が撃ったのかは分からなかった。だが弾道は明確だった。後方から前方。味方の陣地から、桐生の背中へ。
桐生の身体がコンクリートに崩れ落ちたとき、その目はまだ開いていた。驚きでも恐怖でもなく、納得に似た色を浮かべていた。まるで、自分が撃たれることをどこかで予感していたかのように。神崎が駆け寄り、背中の傷口を押さえた。指の間から溢れる血は、体温を持って脈打っていた。唇が動く。声にならない声で何かを伝えようとしていた。そして——動かなくなった。
公式記録には「殉職」と記された。敵の流れ弾による不幸な事故。報告書はそう結論づけた。
嘘だ。
神崎だけが知っている。あの弾丸は、桐生を殺すために撃たれた。
桐生は死の直前、神崎に耳打ちした言葉がある。作戦の待機中、わずか十秒足らずの会話。
「蓮司、この作戦は妙だ。俺たちが踏み込む前に、向こうが動いてる」
桐生の声は低く、平静だった。だがその目には、長年の相棒だからこそ読み取れる鋭い警戒があった。向こうが動いている。つまり情報が漏れている。漏らしたのは誰か——その問いに答える前に、桐生は死んだ。
それが最後の言葉になった。
以来、神崎は〈鉄環〉の中に留まり続けている。潜入捜査官としてではない。復讐者として。桐生を殺した人間を見つけ出し、自分の手で決着をつけるために。
定期連絡も出さなくなった。組対部のハンドラーには「組織が警戒している、しばらく接触を控える」と伝えてある。嘘ではないが、本当でもない。報告を続ければ、やがて撤収命令が出る。そうなれば桐生の死は永遠に「殉職」のまま処理される。それだけは許せなかった。
*
取引は滞りなく終わった。
トカレフ二十丁がボートに積み込まれ、代わりに現金の入ったアタッシュケースが渡される。黒沢が中身を確認し、頷く。札束を手早く数える黒沢の指先は慣れた動きで、一束ごとに小さく唇を動かしていた。買い手のボートがエンジン音を上げて離岸した。航跡の白い泡がすぐに闇に呑まれ、やがてエンジン音も波の音にかき消された。埠頭にはまた、潮と錆の匂いだけが残る。
「手際いいな、今日の客」
黒沢が煙草に火をつけながら言う。ライターの炎が一瞬、黒沢の若い顔を照らした。この世界に入って二年目。まだどこか遊び半分のような軽さがある。
「金払いがいい客は手際もいい」
神崎は周囲を見回しながら答えた。警察の気配はない。当然だ。今夜の取引は、神崎自身が組対部に報告していない。報告すれば、捜査の手が入る。捜査が入れば、神崎の立場が変わる。今はまだ、この位置にいる必要がある。
かつてなら、この判断に良心の呵責があった。違法な銃器が街に流れる。それを止めるのが本来の仕事だ。だが今、その声は遠い。桐生を殺した真相を暴くまでは、他のすべてが後回しだ。その優先順位が正しいのか間違っているのか、もう考えないことにしている。
「神崎さん」
背後から別の声。振り返ると、組の連絡役が立っていた。痩せた中年の男で、いつも少し猫背気味に立つ。暗闘が嫌いで、伝言を正確に運ぶことだけに徹する、組織の中では珍しい性格の男だ。
「赤城さんがお呼びです。今夜中に来いと」
赤城。〈鉄環〉の幹部で、神崎の直属の上。冷静で計算高く、末端の人間を名前で呼び出すことは滅多にない。呼び出すときは、昇格か、粛清か、あるいは誰にも頼めない汚れ仕事か。いずれにせよ、日常の延長線上にはない話だ。
「何の用だ」
「さあ。ただ、直接話があるとだけ」
連絡役は肩をすくめた。表情に緊張はない。少なくとも、粛清の空気ではなさそうだ。
黒沢が横目でこちらを見ている。神崎は小さく頷いた。
「分かった。場所は?」
「いつもの事務所です。一階の奥」
新木場の雑居ビル。〈鉄環〉が表向きの貿易会社を装って使っている拠点のひとつだ。
神崎は煙草を踏み消し、車に向かった。アスファルトを踏む自分の靴音が、静まり返った埠頭にやけに大きく響く。
三年間、一度も正体を疑われたことはない。組織の中で信頼を積み上げ、実績を作り、幹部の目に留まるまでになった。すべては桐生の死の真相に辿り着くための布石だ。だが時折、ふと思う。布石を打っているのか、それとも本当にこちら側の人間になりつつあるのか。その境界線は、三年前よりもずっと曖昧になっている。
車のエンジンをかける。バックミラーに、遠ざかる埠頭の灯りが映った。
赤城が直接呼び出す。何かが動く予感がある。あるいは、ようやく動かせる何かが見つかったのかもしれない。
ハンドルを握る手に力がこもる。
桐生。お前を殺した奴を、俺は必ず見つける。
新木場へ向かう首都高の直線で、神崎はアクセルを踏み込んだ。フロントガラスの向こうに、東京の夜景が無機質に広がっている。高層ビルの赤い航空障害灯が、等間隔に明滅を繰り返している。まるで街全体が、何かの暗号を発しているように。
この街のどこかに、裏切り者がいる。
警察の内側に。
あるいは——もっと近くに。
神崎の携帯が震えた。赤城からのメッセージ。一行だけ。
「仕事の話だ。お前にしか頼めない」
口の中に、鉄の味が広がった。予感が、確信に近い重さで胸の底に沈む。
三年間待った。
夜明けはまだ遠い。だが、闇の中でようやく、何かの輪郭が見え始めていた。