第3話
第3話
歌舞伎町の雑踏を縫いながら、蓮は頭の中で地図を描いていた。
手帳の符丁を分解すると、白石遼の足取りは三つの地点に収束する。新宿五丁目の物流倉庫。歌舞伎町一丁目のバー。そして臨海部の、まだ特定できていない一画。遼が消える直前の二週間、この三角形を繰り返し往復していた。
まず倉庫だ。
新宿五丁目の外れ、大久保寄りの一角に小規模な物流倉庫が並ぶエリアがある。表向きは食品卸や雑貨の中継拠点だが、蓮が捜査一課にいた頃、この一帯は何度も内偵の対象になった。合法の荷物に紛れて非合法の物資が動く。古典的な手口だが、物流の海に針を落とされれば、見つける側の負担は跳ね上がる。
手帳のエリアコードが示す番地まで歩いた。築三十年はくだらないコンクリートの箱。シャッターは下りている。看板には「丸正ロジスティクス」。蓮はスマホで社名を検索した。法人登記はある。設立は五年前。代表者名は個人。資本金は最低額。ペーパーカンパニーの典型的な外殻だ。
シャッターの脇に回り込む。防犯カメラは二台。一台は入口正面、もう一台は搬入口の上。だが搬入口のカメラはレンズが曇っている。半年は清掃されていない。稼働しているかも怪しい。その下の地面にタイヤ痕が重なっていた。大型車両が頻繁に出入りしている。平日の昼間、シャッターが閉まっているのに。
蓮は倉庫の外壁に沿って歩いた。裏手のフェンスに小さな隙間がある。覗き込む。コンクリートの床に段ボール箱が積まれている。ラベルは見えない。だがフォークリフトの爪痕が床に幾筋も刻まれていた。ここは頻繁に使われている。油と埃の混じった匂いがフェンスの隙間から漂ってくる。倉庫の奥、蛍光灯が一本だけ点いていた。無人のはずの空間に、薄い光が落ちている。
十分で切り上げた。長居は目立つ。今は情報を集める段階だ。
次。歌舞伎町のバー。
手帳の符丁に繰り返し現れる三文字のコードを、蓮は業種コードとして読んだ。飲食。歌舞伎町一丁目。靖国通りから一本入った路地に、該当するエリアがある。午後二時。ほとんどの店はまだ閉まっている。看板だけがネオン管の残骸を曝している。
三軒目で当たりを引いた。
「バー・ランタン」。地下一階。入口の階段は狭く、壁には煙草のヤニが層をなしている。午後の仕込み中らしく、ドアは開いていた。カウンターの奥でグラスを磨いている中年の男に、蓮は遼の写真を見せた。
「この男を見たことは」
バーテンダーの目が写真に落ちる。指がグラスの上で止まった。一秒の判断。蓮はその一秒を見逃さなかった。知っている顔だ。
「……さあ。うちは客が多いんでね」
嘘。グラスを磨く手が再開したが、力加減が変わっている。さっきより強く握っている。
蓮は名刺を一枚、カウンターに置いた。
「思い出したら連絡をくれ」
名刺を置いたのは情報を引き出すためじゃない。この店に探偵が来たという事実を、ここの常連——つまり裏社会の人間に伝播させるためだ。石を投げて、波紋を見る。捜査の基本だ。
バーを出て、蓮は三つ目の手がかりに向かった。遼の携帯電話。
端末は消えている。だが基地局の接続記録は残る。岸谷に頼むのは筋が悪い。既に一度借りを作った。別のルートが必要だった。
蓮はスマホを操作し、もう一つの番号を呼び出した。片桐。元捜査一課の技術畑で、三年前に定年退職した。今は民間のセキュリティ会社でデジタルフォレンジックを請け負っている。蓮が辞めた後も年に一度、年末に酒を飲む程度の関係は続いていた。
「片桐さん。神代です」
「蓮か。珍しいな、仕事の話か」
「ああ。携帯の基地局情報を辿りたい」
電話の向こうで椅子が軋む音。片桐が姿勢を変えた。
「番号は」
蓮は楓から聞いた遼の携帯番号を読み上げた。
「直近二週間分だけでいい。最後に電波を拾った基地局と、その前後三日間の移動パターンが分かればいい」
「正規ルートじゃ出せんぞ。分かってるな」
「分かってる。だから片桐さんに頼んでる」
短い沈黙。それから低い笑い声。
「二時間くれ」
通話を切った。
蓮は歌舞伎町の路上に立ち、ぬるい缶コーヒーを飲んだ。午後三時の陽光が雑居ビルの谷間に細く差し込んでいる。張り込みの待ち時間と同じだ。ただ待つ。体を休めながら、頭だけを回す。
遼は経理部員として暁の資金洗浄に触れた。手帳に取引の符丁を記録した。物流倉庫とバーを行き来していた。そして消えた。自発的な失踪か、組織による排除か。
楓の反応が引っかかる。「暁」の名前を知っていた。兄の巻き込まれた事態の本質を、少なくとも一部は理解している。にもかかわらず蓮に依頼してきた。警察でもなく、別の組織でもなく、元刑事の私立探偵に。なぜだ。
缶コーヒーの苦味が舌の奥に残った。自販機の横のガードレールに背を預け、蓮は通りを眺めた。昼と夜の間の歌舞伎町は、化粧を落とした顔のように生気がない。客引きもまだ出ていない。ただ、ビルの隙間を吹き抜ける風だけが、排水口の饐えた匂いを運んでくる。
片桐から折り返しが来たのは、一時間四十分後だった。
「見つけた。最後の接続は十四日前、午後十一時二十三分。基地局は新宿区歌舞伎町一丁目。その後、端末の電源が落ちている。以降、復帰なし」
歌舞伎町。遼が最後に電波を発した場所は、あのバーのすぐ近くだ。
「その前三日間は」
「新宿五丁目と歌舞伎町を往復。一日に三回から五回。それと——最終日の午後八時台に、歌舞伎町の別の基地局を経由して港区方面に移動してる。赤坂の基地局を最後に拾って、そこから歌舞伎町に戻って、二十三時二十三分で途切れてる」
赤坂。手帳には出てこなかったエリア。新しい点が地図に加わった。
「もう一点。最終接続の直前、二十三時十五分から二十三時二十二分の間に、同一基地局内で別の端末と通話記録がある。相手の番号は——」
片桐が番号を読み上げた。蓮はそれを頭に刻んだ。メモには残さない。
「恩に着る」
通話を切り、蓮はすぐにその番号を検索にかけた。プリペイド携帯。名義は出ない。だが蓮にはもう一つのルートがあった。捜査一課時代に構築した情報源のネットワーク。表に出せない人脈。歌舞伎町の裏を知り尽くした古い顔馴染みに、番号だけを送った。
返信は十五分で来た。
一行。
「藤堂の番号だ。触るな」
蓮はスマホの画面を見つめた。歌舞伎町のネオンが点灯し始めている。夕暮れの空が、ビルの隙間から赤く滲んでいた。
藤堂。暁の中堅幹部。手帳に名前があった男。白石遼が消える直前、最後に通話した相手。
点が線になった。
遼は藤堂と接触していた。経理部員として資金洗浄の記録をつけながら、組織の幹部と直接繋がっていた。それが発覚して消されたのか、あるいは藤堂との取引が破綻したのか。
いずれにせよ、次は藤堂を追う。
蓮はコーヒーの缶を握り潰し、ゴミ箱に投げ入れた。金属が底を打つ乾いた音が、路地に響いて消えた。捜査一課を追われた元刑事が、かつて尻尾すら掴めなかった男を追う。武器はカメラと観察眼だけ。拳銃もバッジもない。
だが蓮は知っている。人間を追うのに必要なのは権限じゃない。執念だ。
ポケットの中で、スマホが震えた。楓からのメッセージ。
「何か分かりましたか」
蓮は画面を見つめたまま数秒、返信を打たなかった。楓が知っていること。隠していること。あのバーテンダーの反応。藤堂の番号。すべてが一つの像を結ぼうとしている。だがまだ、輪郭が足りない。
「明日、また会えるか。話がある」
送信。既読はすぐについた。
返信が来るまでの十二秒間、蓮は楓がどんな顔でこのメッセージを読んでいるか想像した。恐怖か。安堵か。それとも——あの罪悪感か。
「はい。いつでも」
短い四文字。だがその返信の速さに、蓮は別の感情を読んだ。楓は待っていたのだ。蓮からの連絡を。兄の行方を知らせる言葉を、画面の向こうで息を詰めて待ち続けていた。
蓮はスマホをポケットにしまい、歌舞伎町の雑踏に背を向けた。事務所に戻る。手帳をもう一度精査する。藤堂の周辺情報を洗う。寝るのは、それからだ。
階段を上がり、事務所のドアに手をかけた瞬間——蓮の指が止まった。
ドアノブに、微かな脂の跡。
蓮が最後に触れたとき、ノブは乾いていた。今は薄く指紋が光っている。誰かが来た。そして——中に入った形跡はない。ノブを握っただけで、回してはいない。確認だけして去った。蓮がここにいるかどうかを。
背筋に冷たいものが走る。蓮は呼吸を止め、廊下の空気に耳を澄ませた。階下から漏れる居酒屋の喧騒。換気扇の低い唸り。それ以外の気配はない。だが鉄製のドアノブに残った脂は、まだ乾ききっていなかった。一時間以内。この階段を、誰かが上ってきた。
バーに名刺を置いたのは石を投げるためだった。波紋は、思ったより早く返ってきた。