第2話
第2話
「暁」。
蓮はその三文字を睨んだまま、気づけば二時間が過ぎていた。
デスクの上には手帳のページを書き写したメモが散らばっている。缶コーヒーは二本目。中身はとうに冷めている。蛍光灯の光が白いコピー用紙の上で安っぽく反射し、走り書きの文字列を浮かび上がらせていた。窓の外は深夜の静寂だった。道路の向こうのコンビニだけが青白く光っていて、それ以外の闇が部屋の壁際まで染み込んでくるようだった。
符丁の体系は、蓮が捜査一課時代に追っていたものと同一だった。ただし変異がある。基本構造は同じでも、末尾に二桁の数字が付加されている。三年前にはなかったルール。組織が符丁を更新した。つまり「暁」はまだ生きている。
蓮はペンを置き、目を閉じた。瞼の裏に、赤黒い残像が浮かんだ。蛍光灯を見すぎた目が焼きついている。
三年前。暁の捜査は途中で潰された。内部告発のでっち上げで蓮が追い出され、担当は高杉に移り、そのまま立ち消えになった。蓮が築いた捜査線も情報源も、すべて高杉の手に渡った。高杉の薄い笑みを思い出す。引き継ぎの会議室で、蓮の資料を受け取りながら「ご苦労さん」と言った、あの声。労いではなかった。勝者が敗者に向ける、儀礼的な侮蔑だ。
指先が無意識にこめかみを押さえる。怒りじゃない。もっと冷たいものだ。
手帳に戻る。符丁を一つずつ分解していく。頭の二文字がエリアコード。次の三文字が取引種別。末尾の数字が——日付か、あるいは金額の下二桁。蓮は冷めた缶コーヒーを一口含んだ。鉄みたいな味がした。
パターンが見えてきた。白石遼の手帳に記された符丁は、大きく三つのエリアに集中していた。新宿。池袋。そして臨海部。歌舞伎町のネオン街から東京湾岸まで、点と線が蓮の頭の中で像を結び始める。
午前六時。窓の外が白み始めた。
蓮はスマホを手に取り、楓の名刺に目を落とした。表には「白石楓」の名前と携帯番号。裏は無地。名刺の紙質は上等だが、肩書きがない。職業不明。意図的に伏せているのか、書くものがないのか。
コールは三回で繋がった。
「神代です。今日、会えるか」
電話の向こうで息を呑む気配。間が一拍あった。
「——はい。どこでも」
どこでも。即答の中に滲む切迫感を、蓮は聞き逃さなかった。
新宿御苑前の喫茶店を指定した。人通りが多く、長居できる。そして窓際の席からは入口と裏口の両方が見える。元刑事の習慣が選ばせた場所だ。
楓は時間の十分前に来た。昨夜の黒いコートではなく、グレーのジャケット。だが目の下の隈は昨夜より濃い。眠れていない。蓮と同じだ。
「兄貴について、もう少し聞きたい」
蓮はコーヒーカップを脇に寄せ、手帳を開いてテーブルに置いた。楓の視線が手帳に落ちた瞬間、肩が強張った。指先がカップの取っ手を探り、握りしめる。関節が白くなるほどの力で。
「遼は普段、どんな仕事を」
「商社の経理部です。中堅の——名前はMKトレーディング」
「勤続年数は」
「四年。大学を出てすぐ入りました」
蓮は手帳の最初のページを指した。符丁が初めて現れる箇所。日付は約八ヶ月前。
「この頃、遼の様子に変化は」
楓の目が泳いだ。視線が右上に動く。記憶を探っている。嘘を構築する動きではない。
「……帰りが遅くなりました。週に三、四回。それまでは定時で上がる人だったのに」
「金遣いは」
「変わりませんでした。むしろ——節約するようになった気がします」
金が増えていないのに帰りが遅い。報酬目的ではなく、巻き込まれた側の動き方だ。蓮の中で仮説が一段固まった。
蓮はメモを取らなかった。すべて頭に入れる。ペンを走らせる動作は相手の警戒を呼ぶ。取調室で学んだ技術だ。
「遼の交友関係で、最近変わったことは」
「電話が増えました。でも私の前では絶対に出なかった。別の部屋に行くか、外に出るか。一度だけ、切り忘れたスマホの画面を見たことがあります」
楓がコーヒーに口をつけた。手が僅かに震えていた。カップがソーサーに当たって、小さく鳴った。
「何が映ってた」
「知らない名前のメッセージアプリです。普通のLINEじゃなかった。画面は暗い背景で、文字が緑色で——」
シグナルか、あるいは独自の暗号化メッセンジャー。裏社会の連絡手段。
「そのスマホは」
「兄と一緒に消えました」
蓮は手帳の最後のページを開いた。「暁」の符丁を指先で叩く。楓の反応を見るためだ。
楓の目がその文字を捉えた瞬間——呼吸が止まった。一秒。二秒。そして意識的に呼吸を再開した。知っている。この名前を知っている。
だが蓮は問い詰めなかった。今ここで追及すれば、楓は殻を閉じる。怯えている人間を追い込めば、真実ごと逃げられる。
「分かった。動いてみる」
蓮はそれだけ言って、手帳をしまった。
楓が席を立った。ジャケットのポケットに手を入れ、何かを取り出しかけて——やめた。蓮の目はその動作を捉えていた。ポケットの中に何かがある。出そうとして、出さなかった。ポケットの布地が、中の硬い輪郭を浮かせていた。紙か、あるいは薄いカード状の何か。
「神代さん」
振り返った楓の顔に、昨夜とは違う表情が浮かんでいた。恐怖でも覚悟でもない。
罪悪感だ。
「兄を、お願いします」
ドアが閉まる。蓮はコーヒーの残りを一口で飲み干した。苦味が喉の奥に貼りついた。
楓は嘘をついている。全部じゃない。部分的に。兄の失踪を心配しているのは本当だ。だが知っていることの半分も話していない。「暁」の名前を知っていた。あの反応は偶然目にした程度のものじゃない。身体が覚えている恐怖だ。呼吸が止まるのは意志ではなく、反射だ。過去にあの名前と直接接触した人間の反応。
蓮はスマホを取り出し、連絡先を一つ探した。捜査一課時代の後輩、岸谷。まだ現役で、蓮が辞めた後も細い糸だけは切らずにいてくれた数少ない人間だ。
三コールで出た。
「岸谷、俺だ」
「蓮さん。珍しいですね、こっちからかけてくるなんて」
「MKトレーディングって商社に心当たりは」
電話の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえた。短い打鍵音の連打。岸谷が端末を検索している。
「——あります。半年前にマネーロンダリングの疑いで内偵かかってます。ただ、尻尾を掴めなくて凍結中」
蓮の背筋に電流が走った。符丁。暗号化メッセンジャー。遅くなる帰宅。そしてマネロン疑惑の商社。白石遼は経理部の人間として、金の流れを見てしまったのだ。見てしまった上に、記録した。あの手帳は告発の準備だったのか、それとも自分を守るための保険だったのか。
「もう一つ聞く。その内偵、暁って名前は出てるか」
長い沈黙。岸谷の呼吸だけが受話器越しに聞こえた。
「……蓮さん。それ、どこから」
「答えろ」
岸谷の声が低くなった。
「名前は出てます。ただし確証なし。上はその線を潰したがってる。三年前と同じ空気です」
三年前と同じ。組織を追えば、上から潰される。あのとき蓮を追い出したのと同じ力学が、今も警察の中で動いている。
「ありがとう。これは聞かなかったことにしろ」
通話を切った。
蓮は喫茶店を出て、新宿の雑踏に紛れた。四月の風がコートの裾を攫う。花見帰りの集団が笑い声を上げながらすれ違っていく。別の世界の住人だった。頭の中で情報が組み上がっていく。
白石遼はMKトレーディングの経理部員として暁の資金洗浄の現場に触れた。手帳の符丁は取引記録だ。八ヶ月前に始まり、加速度的に深みにはまった。そして二週間前——消えた。
消されたのか、逃げたのか。
どちらにせよ、次に辿るべき線は決まった。手帳に記された三つのエリア。新宿、池袋、臨海部。遼が最後に足を運んだ場所を特定する。
蓮はポケットから手帳を取り出し、最も頻度の高い符丁を確認した。新宿エリアの符丁に、繰り返し現れる固有名。人名か店名か——まだ分からない。だがこの文字列を、蓮は三年前の捜査資料で見た覚えがあった。記憶の底に沈んでいた名前が、手帳のインクの上で浮上してくる。
「藤堂」。
暁の中堅幹部。三年前は尻尾すら掴めなかった名前が、白石遼の手帳に刻まれている。
蓮は足を速めた。歌舞伎町の方角へ。