第1話
第1話
三日、眠っていない。
歌舞伎町の裏路地に停めた旧型セダンの中で、神代蓮はファインダーから目を離さなかった。助手席に散らばったコンビニの空き袋。ぬるくなった缶コーヒー。車内に染みついた煙草と汗の匂いが、時間の経過を無言で告げている。フロントガラスの外では、酔客の怒声と客引きの呼び込みが断続的に重なり、この街が眠る気配はない。
午前一時三十七分。ネオンの残照が路面を濡らす。
対象の男が、ようやく動いた。
雑居ビルの非常階段を降りてくる中年のスーツ。後ろから出てきた女が男の腕にしがみつき、何か囁いて笑う。男は周囲を見回した。素人の警戒。視線の動きが直線的すぎる。死角を確認する訓練を受けた人間の目ではない。
シャッターを切る。連写。男が女の腰に手を回した瞬間、女がつま先立ちで唇を寄せた瞬間。蓮のカメラは逃さない。
六枚。十分だ。
蓮はカメラを下ろし、後頭部をヘッドレストに預けた。こめかみの奥で鈍い痛みが脈打っている。三日分の睡眠不足が、じわりと視界の端を曖昧にする。
浮気調査。それが今の神代蓮の仕事だ。
元警視庁捜査一課。殺人、強盗、誘拐——かつては都内の凶悪事件の最前線にいた。捜査一課の中でも「目」の良さは群を抜いていた。現場に残された靴跡の深さから体重を割り出し、防犯カメラの死角から犯人の土地勘を読み取り、取調室では相手の瞬きの回数で嘘を見抜いた。
その目が今、不倫の証拠写真を撮っている。
皮肉だとは思わない。思わないことにしている。
蓮はエンジンをかけた。セダンが低く唸る。バックミラーに映る歌舞伎町のネオンが、雨上がりの路面で滲んでいた。
事務所は新宿三丁目の雑居ビル四階。エレベーターは三年前から壊れたままで、階段を使うしかない。鉄骨の手すりに手をかけ、重い足を引き上げる。膝が軋む。三十八歳。体は正直だ。
二階の踊り場で、蓮は足を止めた。
上から声がする。いや、声ではない。息遣い。誰かが四階のドアの前にいる。
反射的に背中を壁につけた。右手がジャケットの内側に滑り込む——が、そこにあるのはカメラのバッテリーケースだけだ。拳銃を携帯していたのは前の職場の話だ。
呼吸を殺して耳を澄ます。
足音はひとつ。体重は軽い。ヒールではない。フラットシューズの柔らかい接地音。立っている位置は事務所のドアの正面。ドアノブを試した形跡はない。つまり、不法侵入の意図はなく、蓮が戻るのを待っている。
階段を上がった。
四階の薄暗い廊下に、女が立っていた。
二十代後半。黒いコートに身を包み、肩にかかる髪が蛍光灯の青白い光を受けて輪郭だけを浮かび上がらせている。バッグの持ち手を両手で握りしめていた。指先が白い。力を込めすぎている。コートの肩口にはうっすらと湿り気が残っていた。雨はとうに止んでいる。ここに来てからかなりの時間が経っているということだ。
蓮の足音に振り向いた瞬間、その目が揺れた。
恐怖。しかしその奥に、別の何かがある。蓮はそれを見た。見逃さなかった。
怯えている人間は目を逸らす。助けを求める人間は目を合わせる。この女は——蓮の目を真っ直ぐに見据えたまま、一歩も退かなかった。
覚悟だ。何かを決めてここに来ている。
「神代探偵事務所の方ですか」
声は低く、僅かに掠れていた。喉が渇いている。長時間ここで待っていた証拠だ。
「看板が出てるだろう」
蓮は女の横を通り過ぎ、鍵を開けた。ドアの取っ手に手垢はない。ドアノブも回されていない。さっきの観察通りだ。
事務所の中は六畳ほどのワンルーム。デスクと椅子が二脚、壁際にスチール棚、窓際に観葉植物の残骸。蓮は入口のスイッチを叩き、蛍光灯が数回の点滅のあとに室内を照らした。
「どうぞ」
女——後に白石楓と名乗ることになるその依頼人は、椅子に座ると、バッグから一枚の写真を取り出した。
二十代前半の男。楓と似た目元。兄弟だと分かる。
「兄が消えました」
短い一文。だが声の奥に押し込められた震えを、蓮の耳は拾った。
「警察には」
「届けました。成人の家出だと言われて、それきりです」
蓮は写真を手に取った。男の背景に映り込んだ看板。歌舞伎町の飲食店。撮影時期はおそらくひと月以内。男の表情は——笑っているが、目が笑っていない。何かに怯えている人間の作り笑いだ。頬の肉が持ち上がっているのに、瞳孔がわずかに開いている。恐怖を隠しきれていない顔だった。
「失踪してどれくらいだ」
「二週間です」
二週間。警察が動かないのは想定通りだ。成人男性の自発的失踪は事件性が認められなければ捜査対象にならない。だが二週間連絡が取れない家族が、深夜に探偵事務所のドアの前で立ち尽くすほど追い詰められている。
蓮はデスクの引き出しからファイルを取り出し、依頼書の用紙を一枚、楓の前に置いた。
「料金は日当五万に経費実費。成功報酬なし。見つかっても見つからなくても金はかかる。それでいいか」
「構いません」
即答。金額を確認もしない。財布の中身を心配する余裕がないのか、それとも——金に困っていない人間の反応か。蓮はその違和感を頭の隅に置いた。消しはしない。ただ、置いておく。
楓がペンを取り、依頼書に記入していく。その指先を蓮は観察した。ペンの持ち方は正しく、筆圧は安定している。だが名前を書く瞬間だけ、僅かに速度が落ちた。
嘘は書いていない。だが、何かを隠している。
蓮は窓の外に目を向けた。歌舞伎町のネオンが、ビルの壁面に赤と青の光を交互に投げかけている。
三年前、同じような夜に、同じような直感を無視した。相棒の高杉を信じた。捜査資料の持ち出しに目を瞑り、裏で何が動いているか見て見ぬふりをした。結果——内部告発者として名前が上がったのは蓮の方だった。高杉が仕組んだ。信頼を利用された。
それ以来、蓮は誰も信じないと決めた。
目の前の女を見る。
恐怖。覚悟。そして——隠し事。
信じるな。観察しろ。ファインダー越しに見ろ。感情を挟むな。
蓮は楓から依頼書を受け取り、写真をもう一度見た。
「兄貴の名前は」
「白石遼です」
「遼の持ち物で、手元にあるものは」
楓が一瞬だけ躊躇した。バッグの中に手を入れ、革表紙の手帳を取り出す。手帳の角は擦り切れ、表紙には何度も開閉した跡が刻まれていた。楓自身が何度も読み返したのだろう。
「兄の部屋に残っていました」
蓮は手帳を開いた。几帳面な字で書かれたスケジュール。だがところどころに、数字とアルファベットの羅列が混じっている。一見すると暗号。だが蓮はこの記号の並びを知っていた。
——裏社会の符丁だ。
背筋を冷たいものが走る。手帳を持つ指に、無意識に力がこもった。捜査一課にいた五年間で叩き込まれた感覚が、眠っていた筋肉のように一瞬で目を覚ます。この記号体系を使う連中の顔が、声が、次々と脳裏を横切った。
視線が手帳から楓の顔に戻る。楓は蓮の反応を窺うように、じっとこちらを見ていた。
「この手帳、警察には見せたか」
「いいえ」
「なぜ」
「——見せるべきではないと思ったからです」
嘘ではない。だが全部でもない。
蓮は手帳を閉じ、デスクの引き出しにしまった。
「明日から動く。連絡先を置いていけ」
楓は名刺を一枚、デスクに置いた。立ち上がり、ドアに向かう。その足取りに迷いはなかった。来たときと同じ、覚悟を決めた人間の歩き方。
ドアが閉まる。階段を降りていく足音が遠ざかり、やがてビルの外へ消えた。
蓮は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯が微かに唸っている。
手帳の符丁。あれは歌舞伎町の地下経済で使われる取引記号だ。蓮が捜査一課にいた頃、何度も目にした。普通の会社員が書けるものじゃない。
白石遼は何かに巻き込まれている。あるいは——最初から、その中にいた。
蓮は手帳を再び開いた。ページを繰るたびに、符丁の頻度が増していく。最初は月にひとつ。それが週にふたつ、三つと増え、最後の数ページはほとんど符丁で埋め尽くされていた。白石遼が何かに深く沈んでいった軌跡が、この几帳面な文字の羅列に刻まれている。
最後の記入日の欄に、ひとつだけ他と違う符丁があった。蓮がかつて追っていた組織の名。
「暁」。
指先が止まる。
三年前の記憶が、錆びた刃物のように胸を抉った。