第3話
第3話
路地を三本抜けた。
氷室は壁際に背中を預け、左右の通りを確認する。人通りはまばらだ。午前三時を回った歌舞伎町は、終電を逃した酔客と始発待ちのタクシー運転手の街になっている。看板のネオンが半分ほど落ち、残った光が濡れたアスファルトに赤黒く滲んでいた。どこかの店から漏れるベースの重低音が、地面を伝って靴底に微かに響いている。空気は湿っていた。さっきまで降っていた雨の名残が、ビルの壁面を伝い落ちる水滴の音として残っている。
凛が二歩後ろで息を整えている。走った直後とは思えない静かさだ。荒い呼吸を意識的に抑えている。喉の奥で音を殺す呼吸法。訓練された——とまでは言わないが、少なくとも追われ慣れている人間の息の殺し方だった。額に張りついた前髪の隙間から、黒い瞳がせわしなく周囲を走査している。恐怖は見えない。だが油断もない。常に最悪を想定している人間特有の、削ぎ落とされた緊張感がそこにあった。
「監視カメラ」
氷室が短く言った。視線は通りの向こう、電柱に取り付けられたドーム型の筐体に固定されている。
「帳のものかは外見では判別できない」凛が氷室の視線を追って言った。「既存の防犯カメラネットワークに寄生する形で顔認証システムを走らせてる。カメラ自体は区や民間のもの。帳はその映像フィードだけを吸い上げる」
「つまり、全部が敵の目か」
「全部じゃない。帳が接続しているカメラには一定の条件がある。高解像度で、顔認証に耐えるアングルのものだけ。古い低画質のカメラや、角度が悪いものはスルーされる」
氷室は路地の天井を見上げた。配管の隙間に小さなカメラが一台。レンズの周囲に水垢がこびりついている。十年は交換されていない旧式だ。
「あれは」
「たぶん対象外。ただ、確証はない」
確証がないなら避ける。氷室は凛の肘を軽く引き、カメラの死角になる壁際を伝って路地の奥に進んだ。凛の肘は細かったが、その下の筋肉は硬く引き締まっていた。触れた瞬間、凛がわずかに身を強張らせ、すぐに力を抜いた。信頼ではない。合理的判断だ。今はこの男についていくしかないという計算が、身体の反射より先に働いている。
表通りは使えない。交差点にはほぼ確実に高解像度カメラがある。大通りは論外。コンビニの軒先も駄目だ。ATMも。駅は言うまでもない。この街は監視の目で編まれた蜘蛛の巣だ。網の目を縫って移動するしかない。
「スマホは壊した。ICカードは」
「持ってない」
「現金は」
「ここに来る前にATMで下ろした。十二万」
氷室はポケットに手を入れた。財布の中身を指先で確認する。紙幣の枚数。三万と少し。合わせて十五万。歌舞伎町で身を隠すには心もとないが、足りないわけじゃない。
問題は別にある。
情報だ。「帳」の監視網の全貌がわからない限り、逃げ続けることしかできない。逃げるだけでは状況は変わらない。追手のリソースは組織の数だけ無限に補充される。こちらは二人。削られるのは時間だけだ。
氷室は足を止めた。古びた雑居ビルの非常階段の下、錆びた鉄骨が作る影の中。ここなら頭上のカメラの画角から外れている。
「蛇崩を知ってるか」
凛が首を傾げた。
「情報屋だ。この辺りで二十年やってる。表向きは古書店。裏では歌舞伎町のあらゆる組織の情報を扱ってる」
「帳との接点は」
「ないはずだ。蛇崩はどの組織にも属さない。それが奴の商売の根幹だ。中立であることが看板で、どちらか一方に与すれば商売が成り立たなくなる」
凛が黙った。何か言いかけて、唇を閉じた。氷室はそれを見逃さなかったが、追及しなかった。今は動くことが先だ。
靖国通りの裏手を並行して東に進む。氷室は歩きながら頭上を確認し続けた。カメラの位置。照明の角度。人の流れ。すべてを計算に入れて経路を選ぶ。十二年分の記憶が地図の代わりになる。この路地は行き止まり。あの角を曲がれば飲食店の搬入口に出る。その先の階段を下りれば地下道に繋がる。体が覚えている道を、足が勝手に辿った。
七分歩いた。
区役所通りから一本入った路地の奥。看板のない店が並ぶ一画に、蛇崩の古書店があるはずだった。
——なかった。
正確には、店はそこにあった。だがシャッターが下りている。それ自体は深夜なら普通のことだ。普通でないのは、シャッターの表面に白いスプレーで描かれた印だった。
円の中に縦線が一本。
凛の息が止まった。
「帳の封鎖印」
氷室はシャッターに近づいた。指先でスプレーの塗料に触れる。完全に乾いている。最低でも数日は経っている。シャッターの隙間から覗くと、店内は空だった。本棚ごと消えている。蛇崩の痕跡が何一つ残っていない。まるで最初からここには何もなかったかのように。
「知ってたな」
振り返ると、凛が唇を噛んでいた。目を伏せたその横顔に、初めて後ろめたさに似た表情が走った。路地の薄明かりが頬の輪郭だけを浮かべている。
「確証はなかった。でも——帳は三ヶ月前から主要な情報屋を順番に潰してる。中立の業者を排除して、裏社会の情報流通を完全に掌握するために。蛇崩がまだ無事かどうかは——賭けだった」
「賭けに負けたわけだ」
凛は答えなかった。
氷室はシャッターの印を見つめた。白い塗料が夜の闇に浮かび上がっている。墓標のように。蛇崩は殺されたのか、逃げたのか。どちらにせよ、ここにはもういない。二十年分の情報と、それを読み解く頭脳ごと。この街の裏側を歩くための灯りが一つ、完全に消えた。
情報を得る手段が一つ消えた。歌舞伎町で蛇崩以外に信用できる情報屋は——三人いる。だがそのうち二人は蛇崩と取引関係にあった。蛇崩が潰されたなら、その二人も危ない。
残りの一人。
氷室は靴底で地面を叩いた。癖だ。考えるときに出る、無意識の動作。コツ、コツ、と乾いた音が路地に反響し、すぐに湿った夜気に吸い込まれて消えた。
「当てはもう一つある。だが——」
言葉を切った。路地の入り口に人影が見えた。酔客ではない。立ち方が違う。壁に寄りかかるでもなく、ふらつくでもなく、路地の奥をまっすぐに見ている。暗くて顔は見えない。だが姿勢でわかる。こちらを認識している。右手がポケットに入っている。何かを握っている——あるいは、すぐに取り出せる位置に添えている。職業的な所作だった。
偶然か。追手か。帳の末端か。
判断する時間はない。
氷室は凛の手首を掴み、シャッターの脇にある搬入口の扉を蹴った。鍵は壊れていた——蛇崩の店が封鎖されたときに破壊されたのだろう。扉が内側に開く。暗闇に飛び込む。埃の匂い。空っぽの棚の列。蛇崩が二十年かけて積み上げた古書の山は、根こそぎ消えていた。棚だけが骨格のように残り、埃が積もった床にはキャスターの引き摺り跡が無数に走っている。急いで運び出した痕跡だ。計画的に、だが猶予のない速度で。
奥に通用口があるはずだ。隣のビルの地下に繋がる非公式の通路。蛇崩が緊急時の脱出路として使っていたもの。情報屋は常に複数の逃げ道を確保する。それが生存の基本だ。氷室は暗闇の中を壁伝いに進んだ。指先がコンクリートの継ぎ目を辿り、鉄製の扉のハンドルに触れた。金属の冷たさが指の腹から腕へ伝わる。
回す。重い。錆が噛んでいる。力を込めて押し下げると、金属の軋む音とともにハンドルが動いた。
扉の向こうから、冷たい地下の空気が吹き上がる。黴と湿ったコンクリートの匂い。闇が深い。底が見えない。
背後の搬入口で、靴音が近づいてくる。一人ではない。少なくとも二人分の足音が、わずかにずれたリズムを刻んでいる。
氷室は凛を先に通し、自分も扉をくぐった。扉を閉める。内側にロックはない。代わりに、壁際に立てかけてあった鉄パイプをハンドルに噛ませた。数分は持つ。
暗闇の中で、凛の呼吸だけが聞こえる。規則的に整えようとして、わずかに乱れる。地下の冷気が肌を刺し、二人の吐く息が白く立ちのぼっているはずだが、闇が深すぎて見えない。
「あの情報屋——蛇崩。あなたにとって、ただの取引相手じゃなかった」
氷室は答えなかった。代わりに地下通路の闇を見据えた。
蛇崩が残した逃げ道がどこに繋がっているか、確かめる必要がある。そしてその先で、もう一人の情報屋に接触する。帳が裏社会の情報網を潰して回っているなら、残された時間は長くない。
足を踏み出す。暗闇の底へ。