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冤罪刑事の追跡夜

第3話 第3話「十年の助手席の読唇」

第3話

第3話「十年の助手席の読唇」

仁科の唇が動いた。

風切り音とエンジンの咆哮が言葉を千切る。だが槙島には読めた。十年間、同じ捜査車両の助手席で、無線が拾えない状況でも口の動きだけで意思を伝え合った。張り込みの夜、暖房の壊れた車内で、コーヒーの湯気越しに読んだ唇。犯人が動いた瞬間、声を出せない緊張の中で交わした無音の合図。その技術が、今は敵との対話に使われている。

「止まれ、槙島」

止まらない。アクセルを踏み込む。右足の裏からペダルの振動が骨を伝い、膝まで痺れる。二十メートルが十五メートルになる。仁科のクラウンの排気管から吐き出される熱風が、軽バンのフロントガラスに叩きつけられるのを感じた。排気ガスの焦げた臭いがエアコンの吹き出し口から車内に侵入し、喉の奥を焼いた。1号羽田線の狭い二車線。左はコンクリートの壁、右はガードレール越しの湾岸の闘。逃げ場のない箱の中で、二台の車が時速百二十キロで並走している。

仁科が窓から顔を出した。ナトリウム灯の橙色が、その表情を照らす。髪が風に引き千切られるように暴れている。額に汗が光っていた。だがその目は——動じていなかった。

恐怖ではなかった。怒りでもない。仁科の目に浮かんでいたのは——哀れみだ。かつて同僚を見る目。酔い潰れた後輩を介抱する先輩の目。おまえは可哀想な奴だ、と言外に告げる目。三年前と同じだ。接見室で「大丈夫だ」と言ったときも、仁科はこの目をしていた。あのとき既に、裏切ることを決めていたのだ。握手した手のひらの温度を、槙島はまだ覚えている。乾いていた。迷いのない人間の手だった。この哀れみは——見捨てる者が自分を許すために浮かべる表情だ。

「おまえはもう終わってるんだ、槙島!」

風の中で、仁科の声が届いた。声は裂けていた。哀れみの下に、別の何かが滲んでいる。焦りか。それとも、哀れみですら演技だと自分で気づいている人間の、行き場のない苛立ちか。

終わっている。その通りかもしれない。指名手配犯。住所なし、職なし、家族なし。社会的には三年前に死んだ人間だ。戸籍の上では犯罪者で、報道では殺人犯で、娘にとっては——存在しない父親だ。

だが。

ダッシュボードの写真が視界の隅で揺れている。ピントのぶれた一枚。黄色い帽子の少女。ひとりでブランコを漕ぐ背中。公園の砂場の向こうで、母親らしき女性がスマホを見ていた。その背中は、槙島が知っている妻の背中だった。元妻の。写真の端に写り込んだ影が、槙島の知らない三年間を語っている。

終わっていない。まだ何も終わっていない。あの背中に、父親がいたことを伝えるまでは。

槙島はハンドルを右に切った。

軽バンの左前端がクラウンの右リアフェンダーに接触する。金属が悲鳴を上げ、火花が路面に散った。オレンジ色の破片が暗い路面に尾を引いて消える。衝撃がハンドルを通じて両腕を痺れさせた。歯の根が噛み合わなくなる。口の中に鉄の味が広がった——舌を噛んだ。車体が横に振られる。ガードレールが迫る。ステアリングを立て直す。軽バンのボディパネルが歪み、風の抵抗が変わった。車体が左に引かれる感覚。かまわない。走れるうちは走る。

仁科のクラウンもわずかにふらついたが、すぐに体勢を戻した。セダンの車重と安定性。軽バンでは分が悪い。だが当てたことで仁科の走りが変わった。計算で走っていた男に、物理的な恐怖が注入された。車線変更のタイミングが微かに早くなっている。マージンを取り始めた。頭ではなく身体が反応している証拠だ。

仁科が急ブレーキを踏んだ。テールランプが燃えるように光る。赤い光が網膜に焼きつく。槙島の反射がステアリングを左に切る。クラウンが軽バンの右を掠めて追い越し車線に飛び出す。擦過音が耳を劈いた。急加速。仁科は引き離しにかかった。

追う。

エンジンの悲鳴が一段高くなる。水温計の針は赤いゾーンに完全に入っている。ボンネットから白煙が途切れなく上がっている。焼けたオイルの甘い異臭が車内に充満し始めた。計器盤の警告灯が全て点灯した。赤、橙、赤。ダッシュボードがクリスマスツリーのように光っている。それでもアクセルを踏み抜く。百三十、百四十。車体全体が共振するように震えている。ハンドルを握る手に、エンジンの断末魔が伝わってくる。あと何分持つか。五分か、三分か。

無線が割れた。

『——大黒高速隊、対象車両を臨海副都心方面で再捕捉。1号羽田線を都心方面へ北上中。増援を要請——』

捕捉された。大井JCTのカメラか、それとも仁科の二度目の通報か。どちらでも同じだ。パトカーが合流してくる。残り時間が一気に縮まった。

仁科のクラウンが前方で車線を変えた。右、左、右。トラックの間を縫うように走る。引き離しにかかっている。だが仁科の動きには、さっきまでの冷静さがない。接触が効いている。計画通りにパトカーに任せるつもりだった男が、自分の車体に傷をつけられ、処分場所まで辿り着けるか不安になり始めている。車線変更のたびにウインカーを出す癖が消えている。仁科の中で、警察官の習慣が剥がれ落ちている。

仁科は合理的な男だ。だからこそ、合理的な判断をする。

この先の浜崎橋JCT。ここで都心環状線に入れば、箱崎、両国、複数の分岐が連続する。選択肢が増える。追跡車を撒くには最適な区間だ。だがパトカーの待機場所でもある。仁科はどちらを取る? 追跡者を撒く可能性と、パトカーに遭遇するリスク。

答えはすぐに出た。仁科は都心環状に入らない。処分完了が最優先だ。環状線の混乱に飛び込めば時間を失う。1号羽田線をそのまま北上し、銀座で降りる。一般道に出て処分場所に向かう。最短ルートを選ぶ。それが仁科だ。十年の付き合いで、この男が迷ったのを見たことがない。迷わないことが仁科の強さで、同時に弱点だった。選択肢を一つに絞る人間は、その一つを潰されたとき脆い。

浜崎橋JCTの分岐が迫る。高架の継ぎ目を越えるたびに車体が跳ね、写真が裏返しになった。

仁科のクラウンが直進した。読み通りだ。

だが、無線が新たな情報を吐き出す。

『——芝浦方面に覆面二台追加配備。1号線芝公園出口を封鎖——』

芝公園出口。銀座の手前だ。封鎖されれば仁科は降りられない。仁科もこの状況は想定しているはずだ。ということは——銀座では降りない。もう一つ先の出口を使う。あるいは。

仁科のクラウンが突然減速した。

ブレーキではない。ギアを落とした。エンジンブレーキ。テールランプが光らない減速。後続車に意図を悟らせない走り。訓練された動きだ。教習所では教えない、追跡と逃走の実務で身につく技術。かつて二人で犯人を追ったとき、仁科がやってみせた動きと同じだった。あのとき槙島は助手席から見ていた。今は、追われる側からそれを見ている。

次の瞬間、仁科のクラウンが中央分離帯寄りの隙間を縫って——Uターンに近い角度で、本線から逸れた。

非常駐車帯。その奥の、保守用搬入路。一般車両が入れない、高速道路の管理用通路。

仁科はこのルートを知っている。現職の警察官だからこそ知っている、表の地図に載らない道だ。

搬入路の暗がりにクラウンのテールランプが吸い込まれていく。赤い光が闇に滲んで、まるで傷口のように見えた。

槙島は一瞬だけ迷った。搬入路の先がどこに繋がっているか、俺は知らない。仁科だけが知っている道。追えば罠かもしれない。だが追わなければ見失う。見失えば、明朝までに証拠は消える。三年間かけて集めた欠片が、すべて無意味になる。

迷いは一秒で消えた。

ハンドルを切る。軽バンが非常駐車帯に突っ込む。タイヤが砂利を噛み、車体が跳ねた。搬入路の入口は鉄製のバリケードで塞がれていたが、仁科のクラウンが突破した跡がある。ひしゃげた鉄柵の隙間を軽バンが擦り抜ける。サイドミラーが吹き飛んだ。ガラスの砕ける音が一瞬だけ響き、風に攫われて消えた。

暗い通路。天井が低い。照明はない。ヘッドライトを点けた。もう隠れる必要はない。コンクリートの壁がライトを跳ね返し、狭い通路が黄色く染まった。排水溝の鉄蓋を踏むたびに車体が揺れ、天井との距離が縮まるような錯覚に襲われる。

仁科のテールランプが、三十メートル先で赤く揺れている。

通路の先に、外の光が見えた。街灯の白い光。一般道だ。一般道に出る。その先がどこであれ、仁科を止める。この手で。

無線が、最後の一言を吐いた。

『——全車注意。対象車両、1号線本線上からロスト。捜索範囲を再設定——』

警察が見失った。仁科も、槙島も、レーダーの外に出た。

二人だけの追跡が始まる。

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