第3話
第3話
光が消えてどれくらい経ったのか、わからなかった。
一分かもしれないし、十分かもしれない。時間の感覚が溶けていた。真人は壁にもたれたまま、腕の中の亮太の呼吸だけを頼りに意識を繋いでいた。浅く、細い呼吸。生きている。それだけが確かなことだった。手術室の闇は濃く、懐中電灯を落としたことにさえ気づいていなかった。指先で床を探ると、冷たい金属の筒に触れた。スイッチを入れると、弱々しい光が天井を舐めた。
女はいなかった。
天井には染みと剥がれかけた塗装があるだけで、逆さまに貼りついていたあの白い体は跡形もない。夢だったのだろうか。そう思いたかった。だが左手首の灼熱痕が、現実を突きつけていた。腫れはむしろ広がっている。皮膚の下に何かが潜り込んでいるような、異物感。紋様の輪郭が、さっきよりはっきりとしていた。円の中に幾何学的な線が交差する図形。見覚えのない文様なのに、なぜか目が離せない。触れると皮膚の表面は滑らかなままだった。刺青でも火傷でもない。皮膚の下の、もっと深い場所から浮き出ているかのようだった。
左手首が、また脈打った。心臓とは別のリズムで。
その拍動に呼応するように、手術台の向こう側の闇が揺らいだ。
最初は目の錯覚だと思った。暗闇に長くいると、存在しないものが見え始める。だがこれは違った。闇そのものが凝集している。懐中電灯の光が届いているはずの場所に、光を拒絶する一点がある。それが徐々に輪郭を持ち始めた。人の形に。小さな——子供くらいの背丈の、人の形に。
真人は亮太を抱えたまま身を固くした。逃げなければ。だが脚に力が入らない。さっきの光で全身の力を使い果たしたかのように、筋肉が動かなかった。
輪郭が、色を帯びた。
闇から浮かび上がったのは、十二、三歳ほどの少年だった。入院患者が着るあの白い病衣を纏い、裸足で手術台の横に立っている。髪は短く、顔立ちはどこにでもいそうな少年のものだった。だが目が違った。瞳の奥に、懐中電灯の光とは無関係の青白い光が灯っている。左手首の紋様と同じ色の、冷たい光。
少年は真人を見下ろしていた。
表情はなかった。敵意も、好意もない。ただこちらを観察している。昆虫の標本を眺めるような、あるいはもっと深い関心を押し殺しているような、読めない目だった。真人は喉の奥から声を絞り出した。
「——お前も、さっきの」
「違う」
少年の声は、妙にはっきりと聞こえた。手術室の反響を無視するかのように、鼓膜に直接届く声。低くはない。子供の声だ。だがそこに含まれる重みは、年齢と不釣り合いだった。
「俺はお前を喰いにきたんじゃない」
少年が一歩近づいた。真人の体が反射的に強張る。だが左手首の紋様は反応しなかった。さっきの女のときとは違う。熱くならない。脈打ちはしているが、それは警告ではなく、むしろ——共鳴のように感じられた。
「お前の手首、見えてるだろ。その紋が光ったから、俺はここに出てこれた」
少年は真人の左手首を見つめていた。その視線には、懐かしさのようなものが混じっていた。長い間待ち続けていたものを、ようやく見つけたときの目。
「俺の名前はシン。この病院で死んだ」
声に感情の揺らぎはなかった。自分が死んだという事実を、天気の話でもするように告げた。
「死んだ、って——幽霊ってことか」
「守護霊、と言ったほうが近い」シンは小さく首を傾げた。「正確にはよくわからない。ただ、この病院に縛られて、ずっとここにいる。お前が来るまで、誰にも見えなかった」
真人は呑み込めなかった。幽霊は存在しない。死んだら終わり。母が動かなくなったあの日に決めたことだ。だが目の前の少年は存在していて、さっきの女も存在していた。信じるかどうかの問題ではなく、現実が認識を踏み潰していた。
「さっきの女は何だ」
「怪異。この病院に封じられていたものの一体だ」シンの表情が初めて微かに動いた。眉根が寄る。「封が解けた。お前たちが入ってきたからじゃない。もっと前から、少しずつ綻んでいた。——今夜、全部解けた」
「全部?」
「七体」
七。その数字が、手術室の空気に落ちて沈んだ。一体でこれだ。白目を剥いた亮太と、天井から這い下りてくる女の指。あれが七つ。真人は無意識に亮太の体を強く抱えた。冷たい。まだ体温が戻らない。指先が氷のようだった。さっきまでは汗ばんでいたはずの肌が、今は蝋人形のような質感に変わっている。
「あいつを元に戻せるのか」
シンは亮太を見た。感情のない目だった。だがその目の奥で、青白い光が一瞬だけ揺れた。
「七体すべてを祓えば、この病院の縛りが消える。そうすれば出口も開くし、そいつに障っているものも消える。だが祓わないまま朝が来れば——この病院は閉じる。お前たちを中に入れたまま」
「閉じる?」
「外との繋がりが断たれる。二度と出られなくなる」
静寂が降りた。手術室の壁が、かすかに軋んでいた。建物が呼吸する音。マイクが拾っていた心拍のようなリズムは消えていたが、代わりに建物全体が低く唸っているような振動が、床から伝わってきていた。
真人は亮太を見下ろした。閉じた瞼。血の気のない唇。こいつはここに来たくて来たのだ。配信のネタだと笑って、先頭を歩いて、カメラを構えて。それがこんなことになるとは思っていなかった。誰も思っていなかった。
美咲と翔太は逃げた。もう一人はここで倒れている。真人は自分の手を見た。左手首の紋様は青白く明滅し続けている。さっき、あの光が女を弾いた。制御なんてできなかった。ただ恐怖が爆発しただけだ。それでもあの光がなければ、自分もどうなっていたかわからない。
七体。全部祓えば出られる。祓えなければ閉じ込められる。
選択肢は最初から一つしかなかった。
真人は亮太の体を引き起こし、背中に担いだ。意識のない人間の体は重い。肩に食い込む重量に膝が軋んだ。背骨が悲鳴を上げ、太腿の筋肉が震えた。だが立てた。立てたなら歩ける。歯を食いしばり、亮太の腕が首から滑り落ちないよう掴み直した。
「シン」
名前を呼ぶと、少年の目がわずかに見開かれた。名前を呼ばれることに慣れていない、という顔だった。
「道を教えろ。美咲と翔太を探す。全員連れて帰る」
シンは真人を見つめていた。沈黙が数秒続いた。少年の顔に浮かんだのは、何と呼べばいいのかわからない表情だった。安堵ではない。期待でもない。もっと複雑な——長い時間をかけて諦めていた何かが、不意に揺さぶられたときの、戸惑いに似たもの。
「……ついてこい」
シンが背を向けて歩き出す。裸足の足が床に触れているのかいないのか、足音がしなかった。真人は亮太を背負い直し、懐中電灯を握りしめて手術室を出た。
廊下は来たときと変わっていないように見えた。だが空気が違った。さっきまでは廃墟の空気——カビと埃と湿気の混合物だった。今は、それらの上に何か別のものが重なっている。甘い腐臭に似た、だが腐臭とも違う、嗅いだことのない匂い。気配、としか言いようがなかった。廊下の闇の中に、複数の何かが息を潜めている。見ている。待っている。
シンが足を止めた。振り返り、真人の左手首を見た。
「お前のその力は、恐怖で動く」
「知ってる。さっき勝手に光った」
「勝手にじゃない。お前が怖がったから光った。だがあのままじゃ使えない。暴発するだけだ」
シンの声に、初めて焦りのようなものが混じった。
「七体の怪異は、あの女より弱いものばかりじゃない。次に会ったとき、今のお前では——」
言葉が途切れた。廊下の奥から、音が聞こえたからだ。
子供の泣き声だった。
遠く、微かに、しかし確実に。暗闇の奥で、誰かが泣いている。その声は一つではなかった。重なっている。二つ、三つ——いや、もっと多い。幾重にも重なった泣き声が、廊下の壁に反射して、四方から真人を包み込んだ。
左手首の紋様が、鋭く脈打った。今度は熱かった。
背中の亮太の体温が、また一段下がった気がした。