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廃病院の守護霊と七つの怪異

第2話 第2話

第2話

第2話

扉が開いた瞬間、消毒液の匂いが壁のように押し寄せた。

鼻腔どころではない。目が、喉が、肺の奥が灼けるような濃度だった。真人は咄嗟に腕で口元を覆った。隣で美咲が小さく咳き込み、翔太が「うわ、なんだこれ」と顔をしかめる。だが先頭の亮太だけが、何も感じていないかのように手術室の中へ踏み込んでいった。

「亮太、ちょっと待て」

声は届かなかった。あるいは、届いていたのに無視されたのか。亮太はカメラを構えたまま、まっすぐに部屋の中央へ歩いていく。その足取りには、さっきまでの配信者のテンションも、踊り場で見せた引きつった笑みもなかった。ただ機械のように正確な歩幅で、一歩、また一歩。

懐中電灯の光が室内を舐めた。

手術台があった。ステンレスの台が部屋の中央に据えられ、その表面だけが不自然に光っていた。十五年以上放置された廃墟のはずなのに、埃の一粒も載っていない。天井には手術灯の残骸がぶら下がり、壁際にはキャスター付きの器具台が整然と並んでいる。器具台の上にはメスや鉗子が——いや、そこには何もなかった。だが真人の目は一瞬、銀色の器具が整列しているのを確かに見た。瞬きをした次の瞬間には空だった。

見間違いだ。そう思おうとした。

亮太が手術台の前で立ち止まった。カメラを持つ手がだらりと下がり、レンズが床を向く。赤いランプは点いたままだ。

「亮太?」

返事がなかった。真人は一歩踏み出し、亮太の肩に手を伸ばした。触れた瞬間、指先に伝わったのは人間の体温ではなかった。Tシャツ越しでもわかるほど、亮太の体が冷えきっている。八月の夜に、氷を抱いているかのような冷たさ。真人が亮太の体を引き寄せ、正面に回り込んだとき——息が止まった。

亮太の目が白かった。

瞳孔も虹彩もない。眼球の全面が、牛乳を流し込んだように白く濁っている。まばたきもしない。呼吸しているのかすら怪しい。だが亮太は立っていた。両足で床を踏み、直立したまま微動だにしない。人間の姿をした、人間ではないものがそこにいた。

「亮太! おい、亮太!」

肩を揺すった。反応がない。体が石のように硬い。筋肉が全て同時に収縮したかのような、異常な硬直。真人の手が震え始めたのは、恐怖ではなく——いや、恐怖だった。認めたくなかっただけだ。背後で美咲の悲鳴が聞こえた。甲高く、短い悲鳴。翔太が「何だよ、何だよ」と繰り返している。

真人が顔を上げたのは、天井から何かが滴ったからだ。

頬に落ちた一滴。冷たくはなかった。生温かった。人肌の温度の液体が、真人の頬を伝って顎先から落ちた。反射的に見上げた天井に、それはいた。

女だった。

逆さまに、天井に貼りついていた。長い黒髪が重力に従って垂れ下がり、カーテンのように揺れている。白い病衣——入院患者が着るあの薄い布が、逆さまの体に巻きついていた。腕が二本、だらりと垂れている。だが人間の腕ではありえない長さだった。肘から先が、通常の倍はある。指は細く、関節がひとつ多いように見えた。顔は髪に隠れて見えない。見えないことが、かえって真人の想像力を際限なく暴走させた。

その指が、動いた。

ゆっくりと、海底の生物が触手を伸ばすように、女の右手が真人へ向かって下りてくる。関節がありえない方向に折れ曲がり、指先が空気を掻く。爪の先端が懐中電灯の光を反射して鈍く光った。黄ばんだ、厚い爪。匂いが変わった。消毒液の下に隠れていた別の匂い——甘くて重い、腐敗の初期に漂うあの匂いが、女の体から零れ落ちてきた。

「逃げろ」

声が出た。自分でも驚くほど低い声だった。だが体が動かない。足が床に縫い止められたように重い。指先が真人の髪に触れようとしていた。あと数センチ。冷たい空気が指先の周囲だけ渦を巻いて、真人の額に当たった。髪の毛が一本、ふわりと持ち上がる。

左手首が爆ぜた。

灼熱ではなかった。もっと激しい、皮膚の内側から火を噴くような衝撃。真人は叫んだ。声にならない叫びだった。左手首の内側から青白い光が弾け、手術室の闇を一瞬で塗り潰した。それは懐中電灯の光とはまるで違う、冷たくて鋭い光だった。蛍光灯でもLEDでもない。この世のどんな照明とも似ていない、青白い閃光。

光が女の指を弾いた。正確には、光が壁のように広がり、真人と女の間に割り込んだ。女の指が光に触れた瞬間、じゅう、という水を熱した鉄板に落としたような音がして、女の体が大きく痙攣した。髪の奥から声が漏れた。人間の声帯から出る音ではなかった。金属を引き裂くような、高く、細く、鼓膜の奥まで突き刺さる叫び。

真人は耳を塞ぐ余裕もなく、その場に膝をついた。左手首の光はまだ消えていない。だが光は制御できるものではなかった。心臓が暴れるように脈打ち、その拍動に合わせて光が明滅する。強くなったり弱くなったり、まるで真人の恐怖そのものに連動しているかのように。

視界の端で、二つの影が動いた。美咲と翔太だった。美咲が翔太の腕を引き、二人は手術室の入口へ走った。翔太が振り返りかけて、やめた。真人と目が合う一瞬があった。翔太の顔には恐怖と——それから、別の感情があった。罪悪感だ。逃げる自分を許せない、だが足が止まらないという、引き裂かれた表情。次の瞬間、二つの懐中電灯の光が廊下の闇に吸い込まれ、足音が遠ざかっていった。

残されたのは、真人と、白目を剥いて硬直した亮太と、天井の女。

左手首の光が弱まり始めていた。それに呼応するように、女の体がゆっくりと揺れ始める。垂れ下がった腕がふたたび真人に向かって伸びてくる。さっき弾かれた右手ではなく、今度は左手。関節が、こきり、こきりと音を立てて折れ曲がっていく。

もう光は出なかった。

左手首が焼けるように熱い。だが光はない。真人は亮太の腕を掴んだ。冷たく硬直した体を引きずるように抱え、後ずさった。靴底がリノリウムの床を擦る音が、静まり返った手術室に響く。女の指が近づいてくる。あと一メートル。あと五十センチ。

真人の背中が壁に当たった。退路がない。

そのとき、左手首の皮膚の下で何かが脈打った。心臓とは違うリズム。もっと深い場所から、骨の芯を震わせるような振動。光が——消えかけていた青白い光が、もう一度だけ爆ぜた。

閃光が手術室を満たし、真人は意識が白く飛ぶ感覚の中で、女の叫びを聞いた。今度は遠かった。天井から離れていくように、あるいは何かに引きずり込まれるように、声が急速に小さくなっていく。

光が消えた。

暗闇と静寂が戻った。手術室には、消毒液の匂いだけが残っていた。真人は壁にもたれたまま、荒い呼吸を繰り返した。左手首がじんじんと痛む。見下ろすと、懐中電灯の光の中で、手首の内側の皮膚がうっすらと赤く腫れていた。火傷のような痕。だがその痕には規則性があった。火傷ではありえない、何かの紋様のような——。

腕の中で、亮太の体がぐらりと崩れた。硬直が解けたのだ。糸の切れた操り人形のように全身の力が抜け、真人ごと床に倒れ込む。亮太の目は閉じていた。白濁は消えている。だが意識はない。呼びかけにも、頬を叩いても反応しない。ただ微かに胸が上下しているのだけが、生きている証拠だった。

真人は亮太の体を抱え直し、壁に背を預けた。手が震えている。全身が震えている。さっきまで信じていたもの——幽霊なんていない、死んだら終わり、怖いものはない——そのすべてが、数分前に粉々に砕けた。あの女は何だ。この光は何だ。何も、わからない。

廊下の奥で、何かが軋む音がした。

建物が呼吸しているような、長く、低い音。床を伝わる振動が、真人の背骨を這い上がる。亮太の体温は戻らない。冷たいままの体を抱えて、真人は暗闇の中で耳を澄ませた。美咲と翔太は逃げた。この階にはもういない。自分は今、意識のない亮太と二人きりで、この暗闇の中にいる。

左手首の紋様が、闇の中でかすかに——本当にかすかに——青く明滅していた。

心拍に合わせて。

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