第1話
第1話
廃病院の玄関は、思っていたよりもあっさりと開いた。
錆びついた鉄扉が甲高い悲鳴を上げ、八月の湿った夜気が建物の内側へ流れ込む。懐中電灯の光が暗闇を舐めると、埃を被った受付カウンターと、割れたままの蛍光灯が浮かび上がった。床には何かの書類が散乱していて、紙が湿気を吸ってふやけ、踏めばぐちゃりと潰れそうだった。天井の隅には黒い染みが広がり、それが水漏れの痕なのか、もっと別の何かなのか、懐中電灯の光だけでは判別がつかなかった。
「おー、ガチじゃん」
先頭を歩く亮太が声を上げ、手にしたカメラを左右に振る。レンズの赤いランプが点灯しているのを確認して、柊真人は鉄扉をくぐった。背後から美咲と翔太が続く。四人分の足音が、がらんどうのロビーに不釣り合いなほど大きく響いた。まるで四人以上いるような残響で、自分たちの足音がどこまでが本物でどこからが反響なのか、一瞬わからなくなる。
県道から逸れた山道を四十分。地図アプリにも載っていない廃病院。亮太が配信のネタとして見つけてきた場所だった。閉鎖されたのは十五年以上前だという話で、建物の外壁には蔦が這い、駐車場だったらしいアスファルトは雑草に飲まれていた。ここに来るまでの山道で、街灯はひとつもなかった。スマートフォンの電波も、建物に近づくにつれて一本、また一本と消えていった。
「真人、ビビってんの?」
美咲がスマートフォンのライトをこちらに向けてくる。眩しさに目を細めながら、真人は首を振った。
「別に。ただの廃墟だろ」
嘘ではなかった。怖いものなんてない。幽霊も呪いも、信じたことはない。母が死んだのは真人が七つのときで、病室のベッドで動かなくなった母の顔を見ても、涙は出なかった。白い壁に囲まれた病室。消毒液の匂い。心電図のモニターがフラットになった瞬間の、あの電子音。父が泣き崩れるのを横で見ていたはずなのに、自分の目だけが乾いていた。人は死んだら終わりだ。それだけのことだと、あのとき決めた。だから怖いものなんてない。——そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥がほんの少しだけ軋むことには、気づかないふりをしていた。
亮太がカメラを構え直し、配信用のテンションで喋り始める。「はい、というわけで来ちゃいましたー。ガチの廃病院。チャンネル登録まだの人は——」
翔太が亮太の肩を叩いて笑う。「まだ一階じゃん。上行こうぜ、手術室あるらしいし」
「お前のテンションが一番怖いわ」真人がぼそりと言うと、美咲が小さく吹き出した。翔太はへらへらと笑いながら、「いや俺はただ効率の話してんだって」と両手を広げた。
四人は受付を過ぎ、薄暗い廊下へ足を踏み入れた。壁のペンキは剥がれ落ち、ところどころに車椅子の轍のような跡が残っている。真人は懐中電灯の輪を足元に落としながら歩いた。天井から水滴が垂れる音が、不規則に繰り返される。靴底が踏むたび、リノリウムの床がべたりと粘った。夏だというのに、建物の中は妙にひんやりとしていた。廊下の両側には診察室だったらしい部屋が並んでいて、開け放たれたドアの向こうに、倒れた椅子や散乱したカルテの残骸が見えた。壁に貼られたままの「禁煙」のポスターが半分剥がれ、黄ばんだ紙の端が風もないのにかすかに揺れていた。
——匂い。
真人の足が止まった。
鼻腔の奥を刺す、ツンとした刺激。アルコールとも違う。もっと甘く、もっと冷たい匂い。消毒液だ。閉鎖されて十五年以上経った建物で、なぜ消毒液の匂いがする。真人は無意識に息を止めた。だがすでに匂いは肺の奥まで染み込んでいて、それは紛れもなく——あの、母が死んだ病室と同じ匂いだった。
「なあ、匂わないか」
声が自分のものとは思えないほど平坦だった。亮太がカメラから目を離し、鼻をひくつかせる。
「え、何が? カビ臭いのはするけど」
「消毒液。病院のあの匂い」
美咲と翔太も立ち止まり、互いの顔を見合わせた。美咲が苦笑する。「それはさすがに気のせいでしょ。十五年だよ?」
気のせいだろうか。真人はもう一度、深く息を吸い込んだ。——ある。確かにある。消毒液の匂いが、廊下の奥から流れてきている。まるで、つい先ほどまで誰かがここで処置をしていたかのように。鼻だけではなかった。舌の上にも、金属を舐めたときのような微かな味が広がっている。この廊下の空気そのものが、十五年前のまま封じ込められていたかのような——ありえない。理屈では、ありえない。
「先行くぞー」と亮太が歩き出す。翔太が後を追い、美咲が真人の腕を軽く引いた。「ほら、置いてかれるよ」
真人は頷いて歩き出した。だが首筋にまとわりつく冷気が、一歩進むごとに確実に濃くなっていくのを感じていた。空調が動いているはずのない建物で、まるで冷蔵庫の扉を開けたときのような、湿り気を帯びた冷たさ。腕の産毛が逆立つのがわかった。Tシャツの下で鳥肌が広がり、背筋を何か細いものがするりと撫で下ろすような感覚があった。振り返っても、もちろん何もいない。
三階への階段は、建物の中央にあった。非常灯も当然消えていて、懐中電灯の光だけが頼りだ。亮太が先頭、翔太が二番目、真人と美咲が並んで最後尾。コンクリートの階段を一段上がるたび、足音が壁に反射して奇妙な残響を生む。手すりに触れると、金属の表面がぬるりと濡れていた。結露だろう、と思おうとした。だがその水分はどこか粘り気があって、指を離すと糸を引くように伸びた。真人は無言でジーンズの裾で指を拭った。
二階の踊り場を過ぎたあたりで、亮太が振り返った。
「なあ、これ聞こえる?」
亮太がカメラのモニターを見せてくる。外部マイクの音声レベルを示す波形が、規則的に振れていた。四人の足音とも、水滴の音とも違うリズム。等間隔で、弱く、しかし途切れることなく続いている。
ドク、ドク、ドク——。
心拍のようだった。あるいは点滴の雫が容器に落ちるような、何かの鼓動。真人は自分の胸に手を当てた。自分の心臓の鼓動と、マイクが拾っている音のリズムが、ほんの一瞬だけ重なった気がした。次の拍動で、またずれる。だがそのわずかな同期が、背筋に針を刺すような不快感をもたらした。
「マイクのノイズじゃね?」翔太がのぞき込む。
「いや、一階じゃ入ってなかった」亮太がモニターを指でなぞる。「上に行くほどデカくなってる」
四人は黙った。階段の踊り場に、懐中電灯の光が四つ、揺れている。誰かが何か言うべきだったが、誰も口を開かなかった。翔太がいつものように茶化すかと思ったが、彼の視線はモニターの波形に釘付けになっていた。真人は壁に手を当てた。コンクリートの壁面が、かすかに——本当にかすかに——振動しているのが指先に伝わった。建物が呼吸しているような、あるいは建物の中の何かが脈打っているような。振動は一定のリズムを刻んでいて、それがマイクの拾う音と完全に一致していた。
真人は手を離し、指先についた冷たい水滴を見つめた。壁が結露している。八月の、三十度を超える夜に。水滴は懐中電灯の光を受けて小さく光り、指の腹をゆっくりと伝い落ちた。冷たかった。氷水に触れたような冷たさが、指先から手首を伝って腕の内側を走った。
「……上、行くんだろ」
自分で言って、自分の声の乾き具合に気づいた。喉が渇いている。さっきまで平気だったのに、急に口の中がからからになっていた。唾を飲み込もうとしたが、喉が引き攣って上手く飲み込めなかった。
亮太がにやりと笑って階段を上り始める。だがその笑みの端が、かすかに引きつっていたことに真人は気づいていた。翔太が続く。美咲が真人の袖を掴んだ。その手が、わずかに震えていた。真人は何か言おうとして、やめた。大丈夫だよ、と言える根拠が何もなかった。
三階への最後の段を上りきると、長い廊下が闇の中に伸びていた。懐中電灯の光が届く範囲の先は、完全な暗黒だった。光が吸い込まれるような、厚みのある闇。廊下の突き当たりに、両開きの大きな扉が見える。その扉だけが、建物の他の部分と違って劣化の気配がなかった。塗装が剥がれているわけでも、蝶番が錆びているわけでもない。まるでつい最近まで使われていたかのように、そこだけが清潔だった。
旧手術室。
カメラのマイクが拾うリズムが、明らかに速くなっていた。ドク、ドク、ドク——間隔が縮まり、まるで何かが興奮しているかのように脈打っている。それは四人の足音に反応しているようにも聞こえた。近づけば近づくほど、鼓動が速くなる。獲物を待つ心臓。あるいは、長い眠りから目覚めようとしている何かの——。
真人の左手首が、不意に熱くなった。
まだ痛みではない。日差しに晒された金属に触れたときのような、じわりとした熱。気のせいだと思って手首を見たが、懐中電灯の白い光の下では何も見えなかった。だが熱は消えなかった。手首の内側、脈を測る場所のちょうど真上で、皮膚の下から何かが滲み出てくるような、じりじりとした灼熱が続いている。
「よし、開けるぞ」
亮太の手が、旧手術室の扉にかかった。
消毒液の匂いが、急に濃くなった。