第3話
第3話
廃スタンドの床で三時間だけ眠った。眠ったというより、意識を手放した。夢は見なかった。夢を見るほど人間的な睡眠は、とうの昔に失っている。
目を開けると、シャッターの隙間から差す光が白くなっていた。午前六時過ぎ。通勤の車が遠くで動き始めている音がする。グレイは壁から背中を剥がし、関節を鳴らした。首を回す。肩甲骨の可動域を確認する。問題ない。身体は動く。
四万二千円。SIMを抜いた端末。スコープ。ナイフ。それが全装備だ。
沙耶を見つける。それが最優先事項だった。ヘリオスが処分命令を出している以上、別の処理班がすでに動いている。猶予は長くない。
だが連絡手段がない。沙耶の携帯番号は覚えているが、電話をかければ双方の位置が割れる。メールも同じだ。通信という通信はヘリオスのフィルターを通る。
物理的に探すしかない。記者としての沙耶の行動パターンを読み、先回りする。
グレイは壁にもたれたまま、記憶を手繰り始めた。
沙耶と初めて会ったのは八ヶ月前だ。下北沢の古書店。グレイが——拓真が、偽装用の生活動線を作るために通い始めた店だった。翻訳家という設定に合わせて海外文学の棚を物色していると、同じ棚の反対側から手が伸びてきた。
「あ、すみません。その隣のグレアム・グリーン、取ってもらえますか」
取ってやった。彼女は「ありがとうございます」と笑って、そのまま隣のカフェに入っていった。グレイも入った。偶然を装って。本当に偶然だったのか、それとも無意識に後を追ったのか。今となってはわからない。
彼女はカフェの奥の席でノートパソコンを開き、何かを書いていた。グレイはカウンター席でコーヒーを飲みながら、鏡越しに彼女を観察した。職業的な癖だ。人間を観察し、情報を抽出する。それしか知らない。
二度目に会ったのは翌週、同じ古書店だった。三度目は彼女の方から声をかけてきた。「翻訳のお仕事って、どんな感じですか」。
会話が始まった。週に一度、カフェで顔を合わせるようになった。沙耶は自分の仕事について多くを語らなかった。「ライターみたいなことをしてる」とだけ言った。だが彼女のノートパソコンの画面に、一度だけ地図が映っているのを見た。東南アジアの港湾施設に赤いピンが打たれた地図。視界に入ったのは一秒にも満たなかったが、訓練された目は全てを拾った。
取材拠点。沙耶は自宅とは別に、取材用の場所を持っているはずだ。記者は情報を分散させる。自宅に全てを置くようなミスはしない。
カフェでの会話を一つずつ掘り起こす。
「最近、引っ越そうかなって思ってて」——三ヶ月前の発言。
「でも今の場所、仕事場に近いから便利なんだよね」——その翌週。
世田谷の自宅が仕事場に近い。つまり取材拠点は世田谷近辺にある。だが待て。沙耶が言う「仕事場」は取材拠点のことか、それとも別の意味か。
別の記憶。二ヶ月前、沙耶が遅刻してきた日のことだ。
「ごめん、経堂で打ち合わせが長引いて」
経堂。世田谷区内。自宅の最寄りは用賀だった。経堂で打ち合わせ。フリーランスの記者が定期的に使う打ち合わせ場所——事務所か、レンタルオフィスか、あるいは協力者の拠点か。
もう一つ。先月、カフェを出た後に沙耶が改札に向かった方向。いつもは南口だったが、あの日だけ北口へ歩いた。北口からは小田急線に乗れる。小田急線で二駅。経堂。
断片が繋がり始めている。だがまだ足りない。経堂のどこだ。
さらに記憶を漁る。ある日、沙耶のトートバッグからレシートがはみ出していた。グレイの目は無意識にそれを読んでいた。「キンコーズ経堂店」。印刷とコピーの店。記者が大量の資料を印刷する場所として不自然ではない。だが重要なのは店名ではなく、そのレシートの日付と時刻だ。平日の午後三時。沙耶はその時間帯に経堂にいた。
拠点は経堂にある。確信に近い推論だった。
グレイは廃スタンドを出た。
朝の光が目を刺す。工業地帯から住宅街へ移動するには、いくつかの幹線道路を越える必要がある。幹線道路には監視カメラがある。
交差点に差しかかった時、グレイの足が止まった。
信号機の支柱に取り付けられたカメラ。型番を確認する。見覚えがあった。ヘリオスが東南アジアの拠点で使っていたのと同じメーカーの高解像度カメラ。自治体が設置する防犯カメラとは明らかに規格が違う。レンズの口径が大きい。夜間撮影に対応した赤外線センサーが付いている。そして何より、筐体の隅に極小の通信アンテナが増設されている。リアルタイム映像転送用だ。
グレイは視線を動かさず、周囲を観察した。百メートル先の電柱にも同型のカメラ。その先の交差点にも。通常の防犯カメラ網とは密度が違う。これは監視網だ。特定のエリアを面で覆い、対象の移動経路を途切れなく追跡するための配置。ヘリオスが標的を追い詰める時に構築するネットワークと同じ構造だった。
街全体がヘリオスの目になっている。
いつからだ。昨夜の時点で既に稼働していたのか。だとすれば、埠頭からの離脱経路も撮影されている可能性がある。車は捨てて正解だった。だがグレイの顔は記録されたかもしれない。
キャップを深く被り直した。工業地帯で拾った作業用の帽子だ。顔の上半分を隠す。歩き方を変える。歩幅を狭め、やや猫背にする。人間の識別は顔だけではない。歩行パターン、体格比、腕の振り方。全てが個人を特定するデータになる。
カメラの死角を読みながら、裏路地を選んで移動する。幹線道路を避け、住宅街の細い道を縫っていく。時間がかかる。だが捕捉されるよりましだ。
経堂に着いたのは午前九時過ぎだった。三時間近くかけて、通常なら四十分の距離を歩いた。
駅前の商店街を避け、住宅街の裏手から沙耶のアパートの近辺を探る。世田谷の自宅は危険だが、経堂に拠点があるなら先にそちらを確認すべきだ。しかし正確な住所は知らない。
キンコーズ経堂店を起点に考える。記者が拠点にする物件。レンタルオフィスか、安いワンルームか。徒歩圏内。資料の持ち運びを考えれば、五分以内が妥当だ。
だが先に、世田谷の自宅を確認する必要があった。沙耶が戻っている可能性は低いが、ゼロではない。そして何より——彼女が何かを残している可能性がある。
用賀の沙耶のアパートに着いたのは十時前だった。築三十年の木造二階建て。二〇三号室。合鍵は持っていない。持つような関係ではなかった。
階段を上がる前に周囲を確認する。異常な車両、不審な人影。何も見当たらない。だがそれは安全を意味しない。ヘリオスの監視は見えない形で張られる。
二〇三号室のドア。鍵がかかっていない。
ノブに手をかけた瞬間、違和感を察知した。ドア枠に微かな傷。工具でこじ開けた痕だ。新しい傷。二十四時間以内。
ナイフを抜き、ドアを静かに押し開けた。
部屋は荒らされていた。本棚が倒れ、引き出しの中身が床に散乱している。クローゼットの扉が外れ、衣類が引きずり出されている。ノートパソコンはなかった。持ち去られたか、沙耶が持ち出したか。捜索は徹底的だが、雑だ。プロの仕事にしては痕跡を残しすぎている。急いでいたのか。あるいは——わざと荒らして見せているのか。脅迫の意図。ここに戻れば同じ目に遭うという警告。
グレイは靴底の感触に注意しながら、部屋の中を慎重に進んだ。キッチン。バスルーム。すべてひっくり返されている。
洗面台の鏡の前で足を止めた。
鏡の隅に小さな紙片が挟まっている。捜索した人間が見落とすほど小さい。鏡と壁の隙間、指の腹でなければ気づかない位置。グレイが気づいたのは訓練のおかげではなく、沙耶の癖を知っていたからだ。
彼女はメモを鏡に挟む癖があった。カフェで化粧直しをする時、ポーチの中から出したメモをコンパクトミラーのフレームに挟んでいるのを見たことがある。「忘れっぽいから、鏡を見るたびに思い出せるようにしてるの」。そう言って笑っていた。
紙片を抜き取る。小さな付箋。沙耶の筆跡。
だが書かれているのは意味をなさない数字とアルファベットの羅列だった。
「K7-N23-SW」
暗号。沙耶はグレイが——拓真がここに来ることを予測して、暗号メモを残した。他の誰にも読めない形で。
グレイは付箋をポケットに押し込み、部屋を出た。滞在時間は二分以内に抑えた。長居すれば監視網に引っかかる。
階段を降りながら、頭の中で暗号を回す。K、N、SW。地名か。座標か。沙耶と自分だけが共有する文脈がなければ解けない形式。逆に言えば、その文脈を持つ人間にしか意味が通じないよう設計されている。
沙耶は待っている。拓真が来ることを信じて、暗号を残した。自分を見つけてほしいと。
カメラの死角を縫いながら、グレイは経堂方面へ歩き始めた。ポケットの中の付箋が、四万二千円より重かった。