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グレイ・プロトコル

第2話 第2話

第2話

第2話

イヤピースを外した。

管制官の声が途切れた瞬間、世界が静まり返る。潮騒と、自分の呼吸音だけが残った。グレイはスコープを外し、ボルトを引き抜く。指が自動的に動いていた。銃床を分離し、バレルをケースに収める。四年間で千回以上繰り返した手順。だが今回は儀式の意味が違う。これは撤収ではない。離脱だ。

コンテナの上から身を起こす前に、もう一度だけ埠頭を肉眼で確認した。村瀬と沙耶の姿はすでにない。二人とも消えている。いつ離れた。会話に気を取られていた数十秒の間か。

沙耶がどこへ向かったのか、わからない。わからないという事実が、喉に小骨のように刺さる。

考えるな。今は動け。

ケースを背負い、コンテナの端から飛び降りた。着地の衝撃が膝に走る。身を低くしたまま、ナトリウム灯の死角を縫って埠頭の奥へ進む。正面ゲートは使えない。監視カメラが三台。うち二台はヘリオスが掌握済みだ。自分がそのカメラ映像を使って標的を追い詰めたことが、何度もある。

フェンスの切れ目を潜り、排水溝沿いに南へ百五十メートル。資材置き場の裏手に停めた車に辿り着いた。レンタカー。偽名で借りた一台。まだ使えるはずだ——少なくとも数時間は。

エンジンをかける前に、携帯端末を開いた。

画面が凍りついた。

口座残高。ゼロ。三つの口座すべてが同時に凍結されている。四年分の報酬、二千三百万。一円残らず消えていた。凍結ではない。没収だ。

次にパスポートの電子認証を確認した。無効。顔写真の横に赤い文字で「REVOKED」と表示されている。発行国のデータベースから抹消されたのではない。ヘリオスが各国の入管システムに食い込んでいるパイプを使い、パスポート自体を無効化した。出国は不可能になった。

さらに運転免許。健康保険証。すべて無効化済み。「拓真・神崎」という人間の社会的存在が、デジタルの海から一斉に消されている。作るのに二年かかった偽の経歴が、五分で灰になった。

管制官との通信を切ってから、まだ七分しか経っていない。

七分。その間にこれだけの処理が完了しているということは、命令違反に対する報復ではない。命令を出す前から、切り捨ての準備は済んでいたのだ。沙耶の処分命令は最初から罠だった。従えば共犯者として口を塞げる。逆らえば裏切り者として処分できる。どちらに転んでもグレイは消える。最初から、そういう設計だった。

奥歯を噛んだ。怒りではない。自分の愚かさに対する、乾いた認識だった。飼い犬が用済みになった。それだけの話だ。

車を発進させた。ヘッドライトは点けない。月明かりだけを頼りに、埠頭の裏道を北へ向かう。首都高に乗れば追跡される。下道を使う。ナビは切った。GPS信号を拾われる。ここからは記憶だけが地図だ。

最初の十五分で三回、ルートを変えた。尾行確認。基本中の基本だが、追手がプロなら三回では足りない。バックミラーに映るヘッドライトの数と間隔を数えながら、頭の別の領域で状況を整理する。

沙耶は村瀬と接触していた。村瀬はヘリオスの経理幹部で、三日前に離脱した。沙耶はフリーの調査記者で、ヘリオスの東南アジア事業を追っていた。二人が繋がるのは不自然ではない。内部告発者と記者。古典的な構図だ。

だが沙耶は今、処分対象になった。ヘリオスが彼女の身元を把握している以上、すでに別の処理班が動いている可能性がある。グレイが断った仕事は、別の誰かに回される。それがヘリオスのシステムだ。

沙耶の携帯に電話をかけようとして、やめた。通信は傍受される。位置情報を渡すだけだ。

村瀬も別行動で逃げている。沙耶と村瀬が一緒にいないということは、埠頭で別れたということだ。USBメモリを受け取った後、それぞれ別のルートで姿を消した。賢い判断だ。追手が来た場合、二手に分かれれば片方は逃げ切れる。

だがそれは同時に、沙耶の現在地を知る手段がないことを意味していた。

彼女の自宅は知っている。世田谷のワンルーム。だがそこには戻らないだろう。ヘリオスが最初に押さえる場所だ。沙耶が取材で使っている拠点があるはずだが、グレイはそれを知らない。「拓真」は彼女の仕事に深入りしなかった。深入りすれば、自分の嘘が綻ぶからだ。

皮肉だった。彼女を守るために距離を置いた。その距離が、今は彼女を見つけられない理由になっている。

信号のない交差点を右折し、工業地帯の暗い道に入った。ここなら監視カメラは少ない。車を路肩に寄せ、エンジンを切る。

ケースを開いた。狙撃銃の部品が整然と並んでいる。SV-98。ロシア製のボルトアクション。ヘリオスから支給された武器だ。シリアルナンバーは削られているが、弾道照合データベースにはグレイが撃った全弾の情報が登録されている。この銃を持っている限り、十九件の殺人がグレイに紐づく。

逆に言えば、この銃はグレイの唯一の切り札でもあった。ヘリオスが使っていた弾薬、支給ルート、指示系統——すべてがこの銃を起点に辿れる。証拠品だ。

分解した部品を一つずつ布で拭き、グリスの匂いを嗅いだ。四年間の相棒。手に馴染む重さ。だがこの銃はもう撃てない。撃った瞬間、位置が割れる。これからの戦い方を変える必要があった。

スコープだけを外してジャケットの内ポケットに入れた。残りの部品はケースごと車のトランクに戻す。車は捨てる。だが銃は別の場所に隠す。いずれ必要になる。

車を降り、夜の工業地帯を歩き始めた。所持品を確認する。財布——中身は現金四万二千円と無効化されたカード類。携帯端末——電源を切り、SIMを抜いた。スコープ。折りたたみナイフ。それだけだ。

四万二千円。それが「拓真」の全財産になった。

コンビニのATMで下ろそうとしても無駄だ。口座はもう存在しない。クレジットカードも同様。ネットカフェの会員証すら、身分証と紐づいていれば足がつく。社会インフラのすべてが敵側のセンサーになった。

歩きながら、次の行動を組み立てる。

優先順位。一、安全な退避場所の確保。二、沙耶の所在の特定。三、ヘリオスの追跡網の把握。

一と三は自力で対処できる。問題は二だ。沙耶の行動パターンを知るには、「拓真」として過ごした時間の記憶を掘り起こすしかない。彼女が取材で使っていた場所。口にした地名。何気ない会話の断片に、手がかりがあるはずだ。

工業地帯の外れに、廃業したガソリンスタンドがあった。シャッターの錆びた隙間から中に入る。油の匂いが染みついたコンクリートの床。ここで夜を明かす。

壁にもたれ、目を閉じた。閉じた瞼の裏に、スコープ越しの沙耶の横顔が焼きついている。

彼女は今、どこにいる。

ポケットの中で、抜いたSIMカードの角が指先に触れた。この薄い基板一枚を戻せば、沙耶に連絡できる。だがその瞬間、二人の位置がヘリオスに渡る。

指先がSIMの縁をなぞり——離した。

連絡はできない。だが手段はある。沙耶の行動を読む。記者としての彼女の思考を辿る。ヘリオスを追っていた彼女が次に何をするか、どこへ向かうか。それを推理する。

暗闇の中で、グレイは記憶を巻き戻し始めた。カフェで沙耶が何気なく言った言葉。取材ノートを広げていた時の、あの真剣な目。「拓真」として聞き流していた会話の断片が、今は一つ一つ意味を持ち始めている。

だが思い出す前に、別の事実が頭を過ぎった。

村瀬がいない。

埠頭で沙耶と別れた後、村瀬はどこへ消えた。ヘリオスの経理幹部。資金洗浄ルートの全貌を知る男。あの男が持っている情報は、沙耶が追っていた真実の核心に直結している。

ヘリオスも村瀬を追っている。グレイも追えなかった標的を、組織は別の手駒で始末しにくるだろう。村瀬が殺されれば、証拠は永遠に消える。

沙耶を見つけるか、村瀬を見つけるか。どちらが先になるかで、すべてが変わる。

廃スタンドの天井の隙間から、薄い光が差し込んでいた。夜明けが近い。

グレイは目を開けた。四万二千円と壊れた名前を持つ男が、錆びた壁の中で最初の朝を迎えようとしていた。

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