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グレイ・プロトコル

第1話 第1話

第1話

第1話

潮の匂いが、死の合図だった。

深夜二時十三分。横浜港の第七埠頭。コンテナの上に伏せたグレイは、スコープ越しに百二十メートル先の男を捉えていた。風速二メートル、南南東。湿度が高い。弾道は僅かに右に流れる。修正値を頭の中で弾き、呼吸を整える。

海面が黒い油のようにうねり、埠頭の杭にぶつかるたびに低い音を立てている。遠くでコンテナ船の汽笛が鳴った。ナトリウム灯のオレンジ色が水面に散り、ゆらゆらと揺れている。その光が届かない暗がりに、グレイは溶け込んでいた。

標的——ヘリオス経理部門の中堅幹部、村瀬誠一郎。四十七歳。組織の資金洗浄ルートを管理していた男が、三日前に無断で持ち場を離れた。裏切りか、逃亡か。理由はどうでもいい。グレイに渡された情報は顔写真と現在地、それだけだ。

いつもそうだ。標的が何を考え、何に怯え、何を守ろうとしているのか。そんなものは一グラムたりとも必要ない。必要なのは距離と風向と湿度、それから引き金を引く指の安定だけだ。人間を人間として見た瞬間、弾は逸れる。

コンテナの鉄板が夜気で冷え切っている。腹這いの姿勢で体温を奪われながら、グレイは心拍を六十以下に落とした。狙撃の基本。感情を消し、機械になる。軍にいた頃、教官がそう叩き込んだ。横隔膜の動きを意識し、四秒吸って七秒吐く。鉄板の冷たさが肋骨を通じて内臓にまで染み込んでくるが、それすらも意識の外へ追いやる。痛みも寒さも、引き金を引くまでの雑音に過ぎない。

除隊してから四年。民間軍事企業ヘリオスの「処理班」として、十九人を消した。報酬を受け取り、安モーテルで眠り、次の指示を待つ。それだけの人生だった。名前すら捨てた。コードネーム「グレイ」。灰色。白でも黒でもない、何者でもない色。

最初の一人を撃った夜のことは覚えている。シンガポールの雑居ビルの屋上で、三十分間嘔吐した。二人目は吐かなかったが、三日間眠れなかった。五人目あたりから何も感じなくなった。感情が摩耗したのか、それとも最初から壊れていたものが表に出ただけなのか。どちらでもいい。結果は同じだ。

村瀬が埠頭の端で立ち止まった。落ち着かない様子で周囲を見回している。誰かを待っているのか。グレイはスコープの倍率を上げた。

村瀬の顔が鮮明になる。頬がこけ、目の下に濃い隈が刻まれている。三日間ろくに眠っていない顔だ。コートの襟を立て、両手をポケットに突っ込んでいるが、右手が小刻みに震えている。逃亡者の顔。追われる側に回った人間に特有の、どこを見ても出口が見つからない目をしていた。

——指が凍った。

村瀬の三メートル後方。倉庫の陰から歩み出てきた人影。黒いコートに肩までの髪。暗がりの中でも見間違えるはずがなかった。

沙耶。

スコープの十字線が微かに震える。グレイは奥歯を噛んだ。ありえない。なぜここにいる。任務と沙耶の世界は完全に切り離してきた。彼女はグレイが何をしている人間か知らない。知らないはずだ。

彼女の前では「拓真」だった。小さな翻訳会社で働いている、退屈だが無害な男。週に一度、下北沢の古いカフェで会い、互いの仕事の愚痴を言い合う。それだけの関係のはずだった。それだけの関係にしておかなければならなかった。彼女を守るために。彼女をこちら側の世界に触れさせないために。

沙耶が村瀬に近づき、何かを話しかけている。村瀬の表情が変わった。警戒から、わずかな安堵へ。知り合いなのか。いや——待ち合わせていたのか。

グレイの脳が高速で状況を処理する。沙耶と標的が接触している。偶然か。偶然であってくれ。

だが祈りは思考を鈍らせるだけだ。偶然である確率を冷静に計算する。深夜二時の第七埠頭。一般人が来る場所ではない。村瀬が誰かを待っていた。沙耶が現れた。これは事前に組まれた接触だ。認めたくなくても、事実は事実として処理しなければならない。

スコープ越しに沙耶の唇の動きを読む。断片的にしか拾えない。「データ」「口座」「証拠」。取材。彼女は村瀬に取材をしている。

フリーランスの調査記者。それが沙耶の仕事だった。危険な取材に首を突っ込むなと、何度か遠回しに言ったことがある。彼女はそのたびに笑って「危ないことなんてしてないよ」とコーヒーカップの縁に唇を当てた。嘘だった。彼女は最初から嘘をついていた。そしてグレイも——拓真も、最初から嘘をついていた。嘘と嘘で繋がれた関係が、今、最悪の形で真実に晒されようとしている。

心臓が跳ねた。感情を消せ。機械になれ。だが四年間で初めて、その回路が機能しなかった。

十九人を撃った指が、今は石のように動かない。スコープの向こうの沙耶が髪を耳にかけた。何でもない仕草だ。カフェで原稿を書いている時にも、よくやる癖だった。その動作一つに、グレイが捨てたはずのすべてが凝縮されている。名前。温度。日常。人間であるということ。

沙耶は知らない。百二十メートル先のコンテナの上に、自分が「拓真」と呼ぶ男が伏せていることを。その男の指が、今まさに引き金にかかっていることを。

——引けない。

指が動かない。一ミリも。グレイは舌打ちした。プロとして致命的な逡巡だった。任務を遂行するなら、沙耶ごと村瀬を撃つ必要はない。村瀬だけを仕留めればいい。沙耶が離れる瞬間を待ち、一発で終わらせる。それだけのことだ。

だが沙耶は村瀬の隣から離れない。何かを受け取ろうとしている。村瀬がコートの内ポケットに手を入れた。小さな黒い物体。USBメモリか。

村瀬の手が震えている。小さな黒い箱を沙耶に差し出すその指先は、自分の死刑執行書にサインする囚人のようだった。村瀬もわかっているのだ。このデータを渡した瞬間、自分の命の値段がゼロになることを。それでも渡そうとしている。四十七年間で初めて、正しいことをしようとしているのかもしれなかった。

イヤピースが鳴った。

「グレイ、状況を報告しろ」

管制官の声。低く、事務的な響き。ヘリオス本部との直通回線だ。

「標的を捕捉。射線上に民間人。クリアショットを待機中」

嘘だ。民間人ではない。だが沙耶の名前を出すわけにはいかない。名前を出した瞬間、彼女は「民間人」から「関係者」に変わる。関係者は処理対象になりうる。その一線を、自分の口から越えさせるわけにはいかなかった。

「民間人の特徴は」

「女性。三十代前半。黒いコート。標的と接触中」

声は平坦に保った。心拍が八十を超えている自覚はあったが、声だけは制御できた。四年間で身につけた、唯一まともな技術だった。

沈黙が三秒続いた。管制官が誰かと話している気配。別の声が混じる。聞き取れない。

グレイの背筋に冷たいものが走った。嫌な間だ。この三秒に、何かが決まろうとしている。

管制官が戻ってきた。声のトーンが変わっていた。事務的な冷たさの奥に、薄い愉悦が混じっている。

「標的と接触した協力者について、身元が判明した」

知っている。最初から知っていた。グレイの胃が絞られる。

「沙耶・神崎。フリーランスの調査記者。ヘリオスの東南アジア事業について不正な取材活動を継続していた。本部より追加指令が出ている」

スコープの向こうで、沙耶が村瀬から何かを受け取った。彼女の横顔が埠頭のナトリウム灯にわずかに照らされる。真剣な目。真実を追う者の目だ。グレイは——拓真は、その目を知っている。安いカフェでコーヒーを飲みながら、仕事の愚痴を聞いてくれた時の目とは違う。だが同じ芯の強さが宿っていた。

あの目で「拓真くんは優しいね」と言われたことがある。優しい。十九人を殺した手で彼女のコーヒーカップを持ち上げてやった日の、何気ない一言だった。その言葉が今、焼けた弾丸のように胸の内側に食い込んでいる。

管制官の声が、宣告のように響く。

「沙耶・神崎。処分対象に追加。即時執行」

夜風が止んだ。潮の匂いが消えた。世界から音が抜け落ちる。

グレイの指が引き金から離れた。静かに、しかし決定的に。

四年間、一度も逆らわなかった。命令は命令だ。疑問を挟む余地はなく、挟む理由もなかった。標的は標的であり、人間ではなかった。だが今、スコープの向こうにいるのは標的ではない。沙耶だ。そして沙耶を撃てない自分は、もうグレイではなかった。

「聞こえているか、グレイ。命令を復唱しろ」

答えない。スコープから目を離し、暗い空を見上げた。星はなかった。横浜の夜空は街の光に汚されて、のっぺりとした灰色に塗りつぶされている。灰色。自分のコードネームと同じ色。だが今、その色が初めて窮屈に感じた。錆びたコンテナの上で、灰色の男が初めて色を選ぼうとしていた。

管制官の声が続いている。苛立ちを隠さなくなっている。「応答しろ」「命令違反は即時処分対象だ」。脅しではない。事実だ。ヘリオスを裏切った者がどうなるか、グレイ自身が十九回証明してきた。今度は自分がその標的になる。

だがもう、聞く必要はなかった。

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