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鏡守の亡霊

第3話 第3話「処分対象002の再執行」

第3話

第3話「処分対象002の再執行」

再執行承認。二週間前。

蓮はモニターの青白い光に照らされたまま、その文字列を凝視した。指先が冷たい。事務所の空気が急速に温度を失ったように感じる。

『処分対象002・影宮蓮 状態:未完了 再執行承認:済』

三年間、殺されなかったのは見逃されていたからではない。単に処理が完了していなかっただけだ。そして二週間前、誰かがもう一度ゴーサインを出した。蓮を殺せ、と。

ソファの上の女を見た。右脇腹の出血は止まっている。呼吸は浅いが安定してきた。この女がUSBを持ってここに現れたタイミング。再執行承認の二週間後。偶然ではありえない。誰かが蓮より先に動いた。蓮が殺される前にこのファイルを届けるために、この女は刺されながらも走った。

考えるのは後だ。まずファイルを読む。

蓮は次のファイルを開いた。事後報告書。オペレーション・ミラージュの最終報告。

表紙に目を通す。作成者は桐島班長。日付は作戦終了の十日後。蓮が裏切り者として処理された、その根拠となった文書のはずだ。三年間、蓮はこの報告書の存在だけを知っていた。中身を見るのは初めてだった。

スクロールする。作戦経過の記述。安全保障局地下施設への潜入。待ち伏せの発生。交戦状況。班員の死亡。蓮の記憶と一致する内容が淡々と綴られている。だが第四章「情報漏洩経路の分析」に入った瞬間、蓮の目が止まった。

『潜入三日前、対象002(影宮蓮)が単独行動中に外部通信を実施した形跡を確認。通信先は未特定だが、タイムスタンプと位置情報から、作戦情報の漏洩元と断定する』

蓮は歯を食いしばった。

単独行動中の外部通信。確かにあの日、蓮は単独で現地の協力者と接触していた。だがそれは桐島班長の指示だ。正規の任務行動であり、通信内容は作戦と無関係の事前調整だった。報告書ではその文脈が完全に削除されている。桐島の指示という記述がない。蓮の単独判断による不正通信として記載されている。

改竄だ。

蓮はファイルのプロパティを開いた。メタデータを確認する。作成日時と最終更新日時が異なっている。作成日は作戦終了の十日後。だが最終更新は、その三日後。公式に提出された後に、誰かが書き換えた。更新者のアカウント識別子は——桐島のものではない。先ほどの添付資料Cと同じ、内閣官房直轄の識別コードだった。

桐島が書いたオリジナルの報告書を、上位の誰かが改竄した。蓮を裏切り者に仕立てるために。

もう一つのファイルを開いた。班員の死亡記録。公式の検死報告と状況報告が並んでいる。

最初に確認したのは水瀬拓真の記録だった。

『水瀬拓真 死亡日時:20XX年7月15日 02:34 死因:銃創による失血死 場所:安全保障局地下施設B2F通路』

蓮の記憶ではその時刻、自分はまだ地下施設内にいた。B2F通路で拓真が被弾したのを見た。だが拓真が倒れたのは蓮の記憶では02時10分前後だ。蓮が排水管から地上に脱出したのが02時28分。拓真は蓮が脱出する前に倒れた。02時34分に失血死したとすれば、拓真は被弾後二十分以上生きていたことになる。

次のファイルを開く。施設の監視カメラ記録の断片。映像は破損しているが、タイムスタンプ付きのログが残っていた。

02:11——B2F通路、銃声検知。 02:14——B2F通路、動体検知消失。 02:47——B2F通路、動体検知。 02:51——B2F通路、動体検知消失。

蓮の目が鋭くなった。02時14分に動体検知が消失。これは拓真が倒れた時刻と整合する。だが02時47分に再び動体検知。蓮が脱出した後だ。B2F通路で何かが動いた。あるいは、誰かが。

死亡記録には02時34分に失血死とある。だが監視カメラは02時47分に動体を検知している。死体は動かない。

矛盾。

公式記録が正しければ、02時47分に動いたのは拓真ではない別の誰かだ。だが作戦後の報告では、地下施設内の生存者は蓮一人とされている。02時47分に通路にいた「何者か」は、公式には存在しない。

あるいは——拓真の死亡時刻が偽装されている。拓真は02時34分には死んでいなかった。

蓮は椅子の背に身体を預けた。思考を整理する。

報告書の改竄。死亡記録の矛盾。添付資料Cに記された事前の処分計画。すべてが一つの絵を描いている。オペレーション・ミラージュは作戦ではなく処刑だった。そして処刑の記録すら、誰かの都合で書き換えられている。

蓮は残りのファイルを片端から開いた。通信傍受記録、内部メモ、資金移動の伝票。断片的な情報が積み重なっていく。頭の中で組織図を再構築する。三年間空白だったジグソーパズルに、次々とピースが嵌まっていく。

十七個目のファイルを開いたとき、蓮の手が完全に止まった。

通信ログの束。特務班内部の暗号通信の傍受記録だった。通常、班内通信は最高レベルの暗号化が施されている。それを傍受できるということは、このファイルの出所は特務班と同等以上の技術を持つ組織だ。

ログの中に、識別コードが並んでいる。送信者と受信者を示すコードだ。蓮は自分のコードを知っている。桐島のコードも覚えている。一つ一つ確認しながらスクロールしていく。

通信日時の列に目が走った。三年前の記録に混じって、新しい日付のログがある。一年前。半年前。そして——

二ヶ月前。

蓮の視線が釘付けになった。

送信者の識別コードは見覚えのないものだった。だが受信者のコード。

KZ-7714。

蓮は瞬きを忘れた。

KZ-7714。神崎沙耶の識別コード。入隊時に付与された個人コード。蓮が何百回と通信画面で見た、見間違えるはずのない六文字。

二ヶ月前のタイムスタンプ。沙耶の識別コードが、生きた通信回線上で稼働している。

蓮は画面に顔を近づけた。通信内容は暗号化されたまま復号されていない。だがログの存在自体が示している。二ヶ月前の時点で、KZ-7714は有効なコードとして通信インフラ上に存在していた。

識別コードは所有者の死亡と同時に無効化される。これが鉄則だ。コードが生きているということは、組織のシステム上、沙耶は死亡扱いになっていない。

添付資料Cの記述が脳裏に蘇る。

『対象003:神崎沙耶(回収・再配置)』

排除ではなく、回収。再配置。

蓮はゆっくりと椅子から立ち上がった。

沙耶は生きている。

三年前に消えた恋人。痕跡の一切が抹消され、この世に存在しなかったかのように処理された女。蓮が三年間探し続け、見つけられなかった女。生きていた。二ヶ月前の時点で、組織の通信インフラを使って誰かと連絡を取っていた。

窓の外で救急車のサイレンが遠く鳴った。蛍光灯が明滅し、モニターの光が蓮の顔に青白い影を落としている。ソファの上の女は変わらず浅い呼吸を繰り返している。

沙耶。

蓮は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みが思考を繋ぎ止める。感情を殺せ。まだ結論を出すな。沙耶が生きていることと、沙耶が味方であることはイコールではない。回収・再配置。組織に回収された沙耶は、今どちら側にいる。

だが確かなことが一つある。

三年間、蓮の怒りには標的がなかった。復讐を誓いながら、誰を憎めばいいのかさえわからなかった。今は違う。ファイルの改竄。仲間の死の偽装。蓮を裏切り者に仕立てた人間。内閣官房直轄の識別コードを持つ、まだ顔の見えない存在。

蓮はモニターを閉じた。残りのファイルは五つ。暗号化の深い層がかかっている。今の環境では解析できない。

ソファの女を見た。この女は答えを知っている。目が覚めたら聞くことが山ほどある。

蓮は銃を手に取り、窓際に立った。新宿の夜が、雨に煙っている。

沙耶は生きている。

その事実が、蓮の胸の中で静かに燃えた。希望ではない。これは導火線だ。火がついた。もう消せない。三年間凍りついていた感情の全てが、一本の導火線に集約されて、暗い夜の底を走り始めている。

そして蓮の耳が捉えた。微かだが、聞き間違えようのない音。

ビルの一階。エントランスのガラス扉が開く音。続いて、複数の靴音。統制された足取り。等間隔。四人以上。

蓮の全身の毛が逆立った。

来た。

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