第1話
第1話「廃倉庫の投光器」
歓声が腹の底を揺らす。
神崎蓮は拳を構えたまま、対戦相手の呼吸を数えていた。百二十キロはある大男。首が太い。レスラー崩れか。リングを囲む金網の向こうで、酒と煙草の匂いに塗れた観客が札束を振っている。廃倉庫の天井から吊るされた投光器が、コンクリートの床に白い円を描いていた。
大男の肩が微かに沈んだ。重心が前に移る。踏み込みの予兆。呼吸が一拍浅くなった——来る。
大男が踏み込む。右のフック。遅い。
振り抜かれた拳が空気を裂く音だけが耳を掠めた。神崎は半歩だけ左に滑り、顎の下に右ストレートを突き上げた。衝撃が拳から肘、肩まで抜ける。骨同士がぶつかる鈍い感触。相手の歯が噛み合う嫌な音が響いた。大男の膝が折れた。倒れかけた体を引き寄せ、首に腕を回す。裸絞め。相手の首筋に浮いた血管の脈動が、腕の内側にはっきりと伝わる。三秒で意識が落ちた。
大男の体が完全に脱力し、百二十キロの重量がそのまま腕にかかった。静かに床へ横たえる。
レフェリーが試合を止める。三十秒もかかっていない。
歓声と怒号が入り混じる。賭けの配当が荒れたらしい。金網越しに見える男の一人が、握り潰した紙コップを投げつけてきた。ビールの飛沫が金網に弾ける。神崎には関係ない。金網の扉をくぐり、薄暗い通路を控室へ向かう。コンクリートの壁に染みついた汗と錆の匂いが鼻腔を満たした。右手のテーピングを歯で剥がしながら、鉄扉を押し開けた。
錆びたパイプ椅子。ひび割れた鏡。壁際に置かれた折りたたみテーブルの上に、封筒が一つ。
——置いた覚えはない。
神崎の足が止まった。試合前、このテーブルには何も載っていなかった。それは確信がある。入室時に視界の隅まで確認する癖は、六年経っても抜けていない。暗がりの奥、壁にもたれて立っている人影がある。四十代半ば。灰色のジャケット。眼鏡の奥の目が、神崎をまっすぐ見ていた。
身長は百七十前後。体重は七十に届かない。だが姿勢に無駄がない。背中を壁に預けていながら、いつでも動き出せる重心の置き方をしている。
「神崎二等陸曹」
その呼称で、全身の筋肉が固まった。除隊してから六年。その階級で呼ばれる場所は、この世界のどこにもないはずだった。
背中を冷たいものが走る。鏡に映った自分の目が、一瞬で別の色に変わっているのが見えた。地下格闘場のファイターの目ではない。もっと暗く、もっと鋭い——六年前に捨てたはずの目だ。
「——いや、元・陸曹殿、ですか」
男は壁から背を離し、一歩近づいた。足運びに隙がない。素人ではないが、現役の戦闘員でもない。情報畑の人間だ、と神崎の経験が判断した。
「誰だ」
「名前は重要じゃない。あなたが関わった"燐光作戦"の記録が全部消されたの、知ってますか」
燐光作戦。
その四文字が鼓膜を叩いた瞬間、視界の端が白く滲んだ。密林の湿気。腐葉土の匂い。引き金にかかる指の重さ——断片が閃光のように明滅して、すぐに消える。
六年前。東南アジアの密林の奥で実行された極秘任務。帰還後、部隊は即日解散。隊員は散り散りになった。公式には存在しなかった作戦。神崎自身にも、最終日の記憶に大きな空白がある。思い出そうとすると、霧の中に手を突っ込むような感覚だけが残る。
「記録なんて最初からない。極秘任務だ」
「ありましたよ。内部の機密データベースに、作戦報告書が保管されていた。部隊編成、任務内容、参加者名簿。それが先月、丸ごと消去された」
男は眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目に、焦りがあった。唇が乾いている。この男は怯えている、と神崎は読んだ。情報を握っていながら、それでも怖くて仕方がない人間の顔だ。
「消去と同時に、元隊員が死に始めた」
男がテーブルの封筒を指で叩いた。
「開けてください」
神崎は封筒を手に取った。糊付けされていない。中から三枚の紙片が出てきた。新聞記事のコピー。
一枚目。交通事故。名前を見た瞬間、胃が絞られた。松永大輔。燐光作戦で突入班の先頭を走っていた男だ。あの太い背中が、いつも神崎の二メートル前にあった。
二枚目。転落死。野口修一。通信担当。作戦中、何度も背中を預けた。無線越しの低い声が、今も耳の奥に残っている。
三枚目。火災による死亡。中島亮太。爆発物処理。酒癖は悪かったが、腕は確かだった。
三人とも事故死。三人とも、この二ヶ月以内。
偶然で片付けるには、あまりにも——。
「あんた、どこの所属だ」
「元防衛省情報本部。今は——」
男の声が途切れた。
倉庫の外壁を、乾いた音が叩いた。一発。二発。銃声だ。抑制された発砲音。サプレッサー付き。
窓ガラスが砕けた。破片が投光器の光を受けて一瞬きらめき、コンクリートの床に散った。
男の体が揺れる。胸の中央に赤い染みが広がっていく。男は一瞬、驚いたように目を見開き、そのまま膝から崩れ落ちた。倒れる男の手が、テーブルの縁を掴もうとして滑り、何も掴めないまま垂れ下がった。
神崎は反射で床に伏せていた。思考より先に体が動く。六年のブランクなど存在しないかのように、戦闘時の神経回路が起動する。冷たいコンクリートの感触が腹に伝わる。火薬の匂いが微かに漂っていた。
照明の位置。窓の角度。弾道から逆算する。射手は北西、倉庫の外。距離はおよそ八十メートル。
鉄扉の向こうから、足音。
三方向。北の通路、東の搬入口、南の非常階段。等間隔で接近してくる。連携が取れている。
——軍の制圧パターンだ。
素人じゃない。民間の殺し屋でもない。この足音のリズムは、神崎自身が叩き込まれたものと同じだった。
男の体に手を伸ばす。頸動脈に触れた。拍動なし。即死。男を助ける手段はもうない。
封筒。テーブルの上から落ちた紙片を掻き集め、ジャケットの内側に押し込む。
足音が近づく。残り十秒もない。
非常口。控室の奥にある錆びた鉄扉。神崎はそこに向かって走った。ドアを蹴り開ける。夜気が頬を打つ。四月の夜風がまだ冷たい。汗が一気に冷えて肌が粟立った。裏路地。左右を確認する。右は行き止まり。左は二十メートル先で大通りに出る。
左へ走った。
背後で、くぐもった爆発音。振り返る余裕はない。だが熱気が背中を押した。焦げた空気が喉の奥を灼く。倉庫が炎に包まれている。控室も、男の遺体も、格闘場にいた人間も——すべてごと焼かれる。
証拠の隠滅。徹底している。
路地を抜け、大通りに出た。深夜の繁華街。酔客の群れに紛れ込む。走るのをやめ、歩調を落とす。目立たない速度で、人混みの中を進む。居酒屋の看板の明かりが歩道を赤く染めている。どこかの店からカラオケの低音が漏れ出していた。平和な夜だ。つい五分前まで自分がいた場所が燃えていることなど、この街は知らない。
心臓が暴れている。だが手は震えていない。
ジャケットの内側に手を入れ、封筒の紙片が残っていることを確認した。三枚の死亡記事。松永、野口、中島。全員、燐光作戦のメンバー。
そして今、あの男も殺された。
脳裏に、断片的な映像がちらつく。密林の中の建物。炎。仲間の叫び声。そして——自分の指が引き金にかかっている感触。
記憶の空白。六年間、触れないようにしてきた闇。
燐光作戦の関係者が、組織的に消されている。次は自分だ。
繁華街の雑踏を抜け、駅前のロータリーに出た。タクシー乗り場。始発までまだ時間がある。
封筒の中に、死亡記事以外のものがないか確かめる。紙片の間に、小さなメモ用紙が一枚挟まっていた。走っている間に封筒から剥がれかけていたらしい。手書きの文字。住所と、名前。
土屋誠。
燐光作戦の生存者。神崎が知る限り、あの作戦から生きて戻った人間は——自分と、この男だけだ。
選択肢は二つ。このまま身を消して逃げ続けるか。土屋に会いに行くか。
逃げれば、生き延びるかもしれない。だがあの三人と同じように、いつか「事故死」として処理される。
それ以上に、知らなければいけないことがある。作戦最終日に何があったのか。あの記憶の空白に、何が埋まっているのか。
自分が引き金を引いたのは——何に対してだったのか。
神崎はメモの住所を頭に刻み、紙を飲み込んだ。
タクシーに乗り込む。行き先を告げた。逃走ではない。前進だ。
バックミラー越しに、繁華街の灯りが遠ざかる。その光の中に、倉庫の炎の残像が重なって見えた。
追手はすぐに来る。それはわかっている。
だが神崎蓮は、もう止まらない。