第3話
第3話「転落現場の四階の床」
朝七時。灰島は雅彦のマンションに戻った。
今度は階段ではない。転落現場そのものを見る。四階の廊下、雅彦が倒れていた地点。昨日撮った写真と報告書の図面を照合しながら、コンクリートの床に膝をついた。膝頭に冷たい感触が伝わる。四月の朝とはいえ、日の当たらない廊下の床はまだ冬の名残を含んでいた。
あった。
廊下の壁面、高さ約九十センチの位置に、薄い擦過痕。塗装が線状に剥げている。報告書には記載がない。長さは十五センチほど。何かが壁に叩きつけられた——あるいは、誰かが壁に叩きつけ「られた」痕だ。
灰島はスマートフォンで撮影した。角度を変えて四枚。それから踊り場に戻り、手すりの内側を調べた。鉄製の手すりの下面に、布の繊維が一本引っかかっている。黒い繊維。報告書では雅彦の服装は「紺のスーツ」とある。黒ではない。
第三者がいた物証。
灰島は繊維をビニール袋に採取した。探偵の装備としては貧弱だが、証拠保全の基本は押さえている。これで状況証拠が三つ揃った。滑りにくい床面、不自然な落下距離、第三者の痕跡。単体では弱いが、三つ合わされば事故死の偽装を疑うには十分だ。
マンションを出ると、四月の陽光が目に刺さった。久しぶりに手応えのある仕事をしている。胸の奥で、錆びついた何かが軋みながら回り始めている感覚があった。同時に、その歯車が回る先にあるものの重さも感じていた。芳江の依頼は浮気調査ではない。人の死の真相だ。間違えれば、取り返しがつかない。
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事務所に着いたのは午前十一時過ぎだった。
階段を上る。三階、四階。息が切れる。いつものことだ。四階の廊下に出て、事務所のドアの前で足が止まった。
ドアが半開きになっている。
磨りガラスの向こうに光が見える。灰島は今朝、事務所を出る時に確かに鍵をかけた。鍵は二つ。シリンダー錠とチェーンロック。その両方が外れている。
背筋に冷たいものが走った。灰島は一歩下がり、廊下の壁に背をつけた。息を殺す。耳を澄ませる。事務所の中から物音はない。空調の唸りだけ。廊下には古いビルに特有の、埃とワックスが混じった匂いが淀んでいる。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
三十秒待った。動きなし。
灰島はゆっくりとドアを押した。蝶番が軋む。事務所の中が見えた。
芳江が椅子に座っていた。
最初の一秒、灰島は「待っていてくれたのか」と思った。芳江は約束なしに来ることもあった。お茶と茶菓子を持って。
だが、次の一秒で全身が凍った。
姿勢がおかしい。芳江は背もたれに深く沈み込み、首が右に傾いている。眼鏡がずれ落ちかけている。両手は膝の上に置かれているが、力が抜けている。指先が白い。
「芳江さん」
声が掠れた。灰島は三歩で机を回り込み、芳江の肩に触れた。冷たい。体温ではない冷たさ。生きている人間の肌にはない、物質としての冷たさだった。灰島の指が震えた。
首筋に目がいった。右の頸動脈の上に、直径一ミリほどの赤い点。注射痕だ。周囲にごく薄い内出血がある。素人には見えない。だが灰島の目は見逃さなかった。
テーブルの上に、折りたたまれた紙が一枚。灰島は芳江から目を離さないまま、指先で紙を開いた。
無地の便箋。プリンターで印刷された文字。
「これ以上嗅ぎ回るな」
一行。それだけだ。
灰島の脳が高速で回転し始めた。鍵が二つとも開けられている。ピッキングの痕跡——ドアノブを確認する。シリンダーの周囲に微かな擦り傷。プロの仕事だ。素人のピッキングなら傷はもっと荒い。侵入、殺害、メモの設置、退出。すべてが手際よく、痕跡を最小限に抑えて実行されている。
芳江はおそらく事務所に来て灰島を待っていた。そこを襲われた。注射による薬物投与。頸動脈への注射は即効性が高い。抵抗する間もなかっただろう。
灰島は携帯を取り出した。指が震えて、三度目でようやく一一〇番を押せた。
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警察は二十分で来た。制服二名、私服一名。灰島は廊下で事情を聴かれた。
「発見時の状況は」
「ドアが半開きでした。中に入ったら久条さんが椅子に——」
「久条芳江さん。七十二歳。持病は」
「高血圧の薬を飲んでいると聞いています。しかし首筋に注射痕が——」
「確認します」
私服の刑事は事務所に入り、五分で戻ってきた。表情に変化はない。手帳を片手にペンを回している。職業的な無関心。灰島が嫌いな種類の顔だった。
「注射痕は確認できませんでした。高齢者の皮膚にはよくある斑点があります」
灰島の頭が真っ白になった。
「斑点じゃない。直径一ミリの穿刺痕です。周囲に内出血もある。よく見てください」
「見ました。救急と検視官の判断を待ちますが、現時点では外傷性の死因を示す所見はありません。テーブルのメモというのは?」
灰島は事務所に戻った。テーブルの上——メモがない。紙が消えている。灰島が通報している間に、誰かが回収した。あるいは最初から、回収される前提で置かれていた。灰島への警告。それ自体が目的であり、証拠として残す意図はない。
「メモはありました。『これ以上嗅ぎ回るな』と——」
「現在、テーブルの上にメモはありませんね」
刑事の目が冷たくなった。灰島を値踏みする目だ。零細探偵が妄想を語っている、という目。灰島は何度もこの目を見てきた。元妻の弁護士、銀行の融資担当、前の事務所の大家。信用されない人間の顔を、灰島はよく知っている。
三時間後、検視官が「急性心不全の疑い」と所見を出した。高血圧の持病、七十二歳の高齢、外傷なし。搬送先の病院で死亡確認。警察の処理は「持病による急死」。
芳江の遺体が運び出されるのを、灰島は廊下の壁にもたれて見ていた。ストレッチャーの白いシーツの下に、あの小さな体がある。昨日茶菓子を持ってきた手。灰島を信じると言った声。
「灰島さん」
刑事が声をかけた。
「本日のところはこれで。何かあれば連絡を」
何かあれば。何もかもがあった。注射痕。消えたメモ。プロのピッキング。だが証拠は灰島の目の中にしかない。
事務所に戻る。芳江が座っていた椅子がある。まだ僅かに、あの人の匂いがする気がした。白粉と、かすかな樟脳の残り香。テーブルの上に茶菓子の包みが置いてある。芳江が持ってきたものだ。桜餅。二つ入り。一つは灰島の分。
灰島は椅子に座った。膝に力が入らない。
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警察は動かない。証拠は消えた。灰島だけが真実を知っている。
あの注射痕は本物だ。灰島の目が見間違えるはずがない。穿刺の角度、内出血の範囲。医療従事者か、それに準じる訓練を受けた人間の仕業だ。しかも事務所に侵入して待ち伏せし、灰島が不在の数時間で殺害と証拠隠滅を完了している。
個人の犯行ではない。組織だ。
雅彦を殺し、事故死に偽装した。芳江を殺し、病死に偽装した。どちらも警察の目を完璧にすり抜けている。灰島がどれだけ訴えても、物的証拠がなければ誰も耳を貸さない。メモを置いたのはそういう意味だ。お前には何もできない。わかっているだろう、と。
灰島は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みがあることで、まだ自分が動ける側にいることを確かめた。
芳江さん。あんたは俺を信じて、ここに来た。待っていてくれた。そして——俺がいない間に殺された。
芳江を殺したのは、灰島が調査を始めたからだ。灰島が動いたことを、誰かが見ていた。そして口封じに来た。だが殺したのは芳江であって灰島ではない。標的を間違えている。灰島を脅すつもりなら、それは逆効果だ。脅されて引く人間なら、とうに探偵を廃業している。
灰島の目が、テーブルの茶菓子の包みに落ちた。
この桜餅を買って、ここまで来て、椅子に座って、俺を待っていた——その時間に、殺された。
プロの殺し方だった。灰島にはわかる。だが灰島は探偵であって、刑事ではない。証拠を集め、事実を積み上げることしかできない。
ならばそれをやる。
灰島は鞄から今朝採取した繊維のビニール袋を取り出した。雅彦の現場の証拠。これはまだ手元にある。そして芳江が最後に残した写真。港湾倉庫の男たち。
殺された二人が灰島に託したものは、まだ消えていない。
窓の外で、夕陽が港湾地区のクレーンを赤く染めていた。灰島は事務所の鍵を新しく付け替えることを決めた。そして明日から、本格的にあの倉庫を調べる。
警察が病死と言うなら、そうさせておけばいい。灰島は別の道から真実に辿り着く。探偵のやり方で。
芳江が座っていた椅子を、灰島はしばらく動かせなかった。