第2話
第2話「紙を読めの鉄則」
翌朝、灰島は臨海第四埠頭には向かわなかった。
まだ早い。正体不明の倉庫に素人が突っ込めば、何が起きるかわからない。探偵の鉄則——まず紙を読め。現場は最後だ。
事務所の机に報告書のコピーを広げ、芳江から受け取った資料を時系列で並べた。雅彦の勤務先は「湾港エステート経理事務所」。港湾地区の荷受け会社や倉庫業者の経理を受託する小さな事務所だ。従業員は八名。雅彦は経理担当として六年間勤めていた。
灰島はまず雅彦のマンションに向かった。
京浜急行の各停で二十分。築三十年のRC造、七階建て。エレベーターはあるが、階段も外廊下に面して設置されている。雅彦の部屋は五階。転落現場は四階と五階の間の踊り場だった。
階段に立つ。手すりは腰の高さ。しっかりした鉄製で、錆びてはいるが歪みはない。踊り場の幅は一・五メートルほど。床面はコンクリートにノンスリップのゴムシートが貼られている。
灰島はしゃがみ込んだ。ゴムシートの端を指でなぞる。剥がれや浮きはない。雨の日でも滑りにくい仕様だ。警察報告書には「足を滑らせた」とある。この床面で? 靴下やスリッパならまだしも、深夜の帰宅時なら靴を履いている。
矛盾、一つ。
灰島はスマートフォンで踊り場を撮影した。手すり、床面、壁面。角度を変えて十二枚。それから四階まで降り、転落後に雅彦が倒れていた位置を確認する。報告書の図面と照合した。
「落下地点が遠い」
呟きが口をついた。五階の踊り場から足を滑らせて四階の階段に転落した場合、体は踊り場の直下かその付近に落ちるはずだ。だが報告書の図面では、雅彦の体は四階の廊下側——踊り場から約三メートル離れた位置に倒れていた。
足を滑らせた人間が、横方向に三メートルも飛ぶか?
矛盾、二つ。
灰島の頭の中で像が結ばれていく。突き落としたのではない。踊り場で暴行を受け、もみ合いの末に転落した。あるいは、既に意識を失った状態で投げ落とされた。どちらにしても事故ではない。
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午後一時。灰島は湾港エステート経理事務所の入るビルの前に立った。
港湾地区の外れ、倉庫街に挟まれた五階建てのオフィスビル。一階がコインランドリー、二階が空きテナント、三階に事務所の看板がある。灰島は事務所には入らなかった。いきなり訪ねれば警戒される。まずは周辺から固める。
ビルの向かいにある定食屋に入った。
昼時を過ぎて客はまばらだった。カウンターに座り、日替わり定食を頼む。六百八十円。今の灰島には贅沢だが、聞き込みには場所代がいる。
店主は六十代の男。禿頭に白いタオルを巻いている。灰島が向かいのビルの話を振ると、愛想よく応じた。
「ああ、三階の。経理の事務所でしょ。真面目な人が多いよ、うちにも昼に来てくれてたね」
「久条さんって方、知ってますか」
「雅彦さん? 知ってるも何も常連だったよ。いつも焼き魚定食。気の毒にねえ、階段で転んで……」
店主の声が少し沈む。灰島は間を置かず訊いた。
「亡くなる前、何か変わった様子はありませんでしたか」
「探偵さん?」
灰島の名刺を見て、店主は目を細めた。
「ご家族からの依頼です」
「……そうだな。最後の一ヶ月くらいかな、昼に来なくなったんだよ。それまで週四で通ってくれてたのに、ぱったり。一度だけ来た時があったけど、ほとんど食べなかった。顔色も悪くてさ」
「何か言ってませんでしたか」
「飯食いながらずっとスマホ見てた。あれは——そうだ、窓の外をやたら気にしてたな。誰かに見られてるんじゃないかって感じで」
怯えていた。芳江の証言と一致する。
灰島は礼を言って定食屋を出た。ビルの裏手に回り、非常階段と駐車場の配置を確認する。それから近隣の倉庫の警備員、コインランドリーの利用者、二人の通行人に声をかけた。雅彦を知っている者はいなかった。
四時過ぎ。ビルのエントランスに人影が現れた。事務所の従業員が退勤し始める時間だ。灰島は五十メートル離れた自販機の前に立ち、缶コーヒーを買うふりをしながら観察する。
三人目に出てきた男が目に留まった。二十代後半。やせ型。スーツの肩が合っていない。歩き方にどこか落ち着きがない。周囲をちらちらと確認しながら歩いている。雅彦と同じだ。何かに怯えている人間の歩き方。
灰島は距離を保って後をつけた。男は駅に向かわず、倉庫街の裏通りに入った。自販機の前で立ち止まり、煙草に火をつける。灰島は自然な足取りで近づいた。
「すいません、火を借りてもいいですか」
灰島は煙草を吸わない。だが聞き込みの入り口として、これに勝る口実はない。ポケットに入れっぱなしの、三年前に情報屋からもらった煙草の箱を取り出す。
男は黙ってライターを差し出した。灰島は火をつけ、煙を吸い込まないように吐いた。
「あのビルの方ですよね。湾港エステートさん」
男の目が警戒で細くなった。
「……誰ですか」
「探偵です。久条雅彦さんの件で」
名前を出した瞬間、男の顔が変わった。顔面から血の気が引く。唇が薄く開いたまま閉じない。恐怖だ。灰島の目はそれを正確に読み取った。
「知らない。何も知らない」
「まだ何も訊いてません」
男は煙草を地面に落とした。火がついたまま転がる。
「関わりたくないんだ。俺は何も——」
「怖いんですね」
灰島は静かに言った。声を低くも高くもせず、ただ事実を述べるように。
「久条さんも怖がっていた。亡くなる前の一ヶ月、飯も食えないくらいに」
男が灰島を見た。その目に、恐怖とは別の感情が混じった。罪悪感だ。灰島はそれを見逃さない。
「あんた——あの人の何なんだ」
「依頼を受けた探偵です。真相を知りたい人がいる」
沈黙。倉庫街の裏通りに潮の匂いが流れた。遠くでフォークリフトの警告音が鳴っている。男は新しい煙草を取り出したが、火をつける手が震えてうまくいかない。灰島はライターを差し出した。
男はようやく煙を吸い、吐いた。白い煙が薄暗い路地に溶ける。
「……久条さんは、辞める直前だった」
声が小さい。灰島は一歩も動かず、耳だけを男に集中させた。
「経理データの整理をしてた時に、何か見つけたんだと思う。それから様子がおかしくなった。上にも報告せず、一人で抱え込んでた」
「何を見つけた?」
「わからない。でも——」
男は煙草を深く吸った。
「辞める前の週に、久条さんが残業してるのを見た。USBを持ってた。会社のデータを外部メディアにコピーするのは禁止されてる。俺が声をかけたら、すごい顔で振り返って——」
男は目を伏せた。
「『見なかったことにしてくれ』って言った。あの人、データを持ち出そうとしてたんだ。それから一週間で——死んだ」
灰島の脳裏に、像がまた一つ組み上がった。雅彦は経理データの中に何かを見つけた。それを証拠として持ち出そうとした。そして殺された。
「その話、警察には?」
「してない。する気もない」
男の目が灰島を射た。怯えと、懇願。
「頼むから俺の名前は出さないでくれ。俺には家族がいる。久条さんみたいになりたくない」
灰島は頷いた。名刺は渡さなかった。この男を巻き込むわけにはいかない。
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帰りの電車の中で、灰島は窓に映る自分の顔を見つめた。
二つの矛盾。一人の証言。点と点が線になり始めている。
雅彦は港湾関連の経理データの中から「見てはいけないもの」を見つけた。それを持ち出そうとして、殺された。事故死に偽装された。倉庫の名義人が消されたデータベース。写真に写る正体不明の男たち。すべてが同じ方向を指している。
ポケットの中の写真を取り出した。港湾倉庫。五人の男。端に切れかけた黒いコートの人影。
この写真が鍵だ。雅彦は何を見つけ、何を伝えようとしていたのか。
電車が駅に滑り込む。灰島は立ち上がり、ドアの前で足を止めた。
ガラスに映る風景の中に——一瞬、視線を感じた。振り返る。車内にはまばらな乗客。誰も灰島を見ていない。
気のせいだ。
そう思い込もうとして、灰島は自分の直感を否定できなかった。五年間、人の視線を読み続けてきた目が、今、確かに警告を発している。
事務所に戻ると、灰島は報告書と写真と今日の聞き込みメモを並べた。壁に地図を貼り、マンション、事務所、倉庫の位置をマークする。赤いペンで線を引く。三角形が浮かぶ。その中心に、臨海第四埠頭の倉庫がある。
缶コーヒーを開けた。残り一本。
雅彦が持ち出そうとしたデータ。あれが見つかれば、すべてが動く。だが、そのデータはどこにある? 警察が押収した遺品の中か。それとも——雅彦はどこかに隠したのか。
灰島は写真の裏をもう一度見た。何も書かれていない。だが芳江はこの写真を「雅彦が死の直前に渡してきた」と言った。息子が母親に、一枚の写真だけを託す。データ本体は別の場所にあるはずだ。
その場所を知っている人間が、まだどこかにいる。