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灰島探偵、修羅に堕つ

第1話 第1話「張り込みの三時間」

第1話

第1話「張り込みの三時間」

雨が降っている。

三時間、ずっと降っている。灰島玲司は軽バンの運転席で体を縮め、ぬるくなった缶コーヒーを啜った。フロントガラスを伝う水滴の向こうに、ラブホテルの駐車場が見える。ターゲットの白いセダンは二時間前から動いていない。

張り込み。私立探偵の仕事の大半はこれだ。

ダッシュボードに放り出した依頼書をちらりと見る。「夫の浮気の証拠を押さえてほしい」。報酬八万円。成功報酬込みで十二万。家賃三ヶ月分の滞納が四十二万。焼け石に水とはこのことだ。

エンジンは切ってある。ガソリン代も惜しい。四月の夜雨は存外に冷える。灰島は首をすくめ、革ジャンの襟を立てた。革ジャンといっても合皮で、あちこちの縫い目がほつれている。探偵らしい格好をしようとした五年前の自分を殴りたい。

ホテルの裏口が開いた。

灰島は反射的にカメラを構える。男女が出てくる。傘を一本、男が差している。女が男の腕にしがみつき、笑っている。灰島はシャッターを切った。連写。顔、手の位置、距離感。七枚。証拠として十分だ。

白いセダンが動き出す。灰島はエンジンをかけず、テールランプが角を曲がるのを見送った。尾行の必要はない。ナンバーは控えてある。ホテル名、入室時刻、退室時刻、同伴者の容姿。探偵の仕事は記録することだ。殴ることでも、追いかけることでもない。

缶コーヒーの最後の一口を飲み干す。冷たくて苦い。灰島の日常の味だった。

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事務所は雑居ビルの四階にある。エレベーターは半年前から故障中で、階段を上るたびに膝が軋む。三十四歳。体力の衰えを感じるには早い年齢のはずだが、灰島の体は実年齢より十は老けている。まともに食っていないせいだ。

ドアの磨りガラスに「灰島探偵事務所」の文字。金文字は剥げかけて「灰 探 事務」になっている。中に入ると、六畳のスペースに机とパイプ椅子と小型冷蔵庫。壁に探偵業届出証明書。それだけだ。

パソコンを開く。メールの受信トレイ。迷惑メールが十七件。依頼はゼロ。

灰島は机に突っ伏した。

この業界で五年やってきた。開業当初は意気込んでいた。真実を暴く。正義を貫く。そんな青臭い理想は半年で消えた。残ったのは浮気調査と猫探しと、たまに来る身元調査。同業者の集まりに顔を出せば「ああ、灰島さん?まだやってたの」と笑われる。腕っぷしがないから荒事は受けられない。コネがないから企業案件は回ってこない。警察OBでもなければ元自衛官でもない。ただの、何の取り柄もない男が探偵を名乗っている。

唯一の取り柄があるとすれば——目だ。

人の嘘を見抜く。微かな表情の変化、視線の動き、手の位置。会話の中の不自然な間。灰島はそれを無意識に拾う。この能力だけで五年間食いつないできた。ぎりぎり、だが。

携帯が鳴った。

画面を見る。「久条芳江」。灰島は少しだけ背筋を伸ばしてから応答した。

「灰島さん、夜分にごめんなさいね」

穏やかな声。七十二歳。夫を十年前に亡くし、一人暮らし。灰島の数少ない——正確に言えば唯一の——常連依頼人だ。猫の捜索を二回、近隣トラブルの事実確認を一回。どれも大した案件ではなかったが、芳江はいつも丁寧に礼を言い、報酬とは別に茶菓子を持ってきてくれた。

「構いません。何かありましたか」

「お願いしたいことがあるの。明日、事務所に伺ってもいいかしら」

声のトーンがいつもと違う。灰島の耳がそれを捉えた。芳江の声には常に柔らかい丸みがある。今夜はその丸みが削れている。硬い芯のようなものが、言葉の底に見える。

「もちろんです。何時でも」

「……ありがとう。灰島さんにしか頼めないことなの」

通話が切れた。灰島は携帯を机に置いた。

芳江にしか頼めないこと。逆だ。芳江「が」灰島にしか頼めないこと。つまり、他の探偵には断られた。あるいは、他の探偵に頼む金がない。あるいは——他の誰にも信用されていない内容だ。

どれにしても、嫌な予感がする。

灰島は冷蔵庫を開けた。缶コーヒーの買い置きが二本。今夜はもう飲む気になれなかった。

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翌日の午後二時。芳江はきっちり約束の時間に現れた。

紺色のカーディガンに白いブラウス。小柄な体。銀縁の眼鏡の奥の目は穏やかだが、その奥に灰島は鋭いものを見た。覚悟を決めた人間の目だ。

「お茶、淹れますね」

「いいのよ、座っていて」

芳江はパイプ椅子に腰かけ、鞄から茶色い封筒を取り出した。テーブルの上に置く。その手が、ほんの僅かに震えていた。

「息子のことなの」

灰島は黙って聞いた。

久条雅彦。四十五歳。港湾関連の経理会社に勤めていた。三ヶ月前、自宅マンションの階段から転落し、死亡。警察の発表は「深夜の帰宅時に足を滑らせた事故死」。

「雅彦はお酒を飲まない子なの」

芳江の声は静かだった。

「あの子は潔癖症に近いくらい几帳面で、階段では必ず手すりを持つ。マンションの階段は何百回と上り下りしている。それが深夜に足を滑らせた?」

灰島は封筒を開けた。中には警察の事故報告書のコピー、雅彦の勤務先の情報、そして——一枚の写真。港湾倉庫の前に数人の男が立っている。灰島はまず報告書に目を通した。

「この報告書、他の探偵にも見せましたか」

「二人に断られたわ。一人は『警察が事故死と言っている以上、覆すのは難しい』と。もう一人は書類を見た途端に顔色を変えて、理由も言わずに帰った」

二人目が引っかかった。書類を見て顔色を変えた。つまり、何かを知っている人間が見れば、触れてはいけない領域だとわかる案件だ。

まともな探偵なら断る仕事。灰島はまともな探偵ではない。まともな仕事が来ない探偵だ。

「報酬は——」

「十五万しか出せないの。ごめんなさい」

十五万。浮気調査より高い。だが、人の死の真相を追う対価としては安い。そんなことは芳江もわかっている。わかっていて、それでも頼みに来た。他に行く場所がないから。

灰島は芳江の目を見た。

嘘はない。誇張もない。息子を失った母親の、静かな、けれど折れない確信がそこにあった。灰島にはそれが見えた。

「引き受けます」

芳江の目が潤んだ。しかし泣かなかった。この人は泣かない人だ、と灰島は思った。

「灰島さん。あんたは目がいい。だから信じてる」

その言葉が胸に刺さった。理由は自分でもわからない。ただ、この仕事だけは投げ出せない。そう感じた。

芳江が帰った後、灰島は写真を改めて見た。港湾倉庫。五人の男。スーツ姿が三人、作業着が二人。顔は鮮明だが、灰島の知らない人間ばかりだ。写真の裏を返す。

何も書かれていない。だが写真の端に、指で擦ったような跡があった。誰かがこの写真を何度も手に取り、繰り返し見ていた。

雅彦が死の直前に撮ったもの——芳江はそう言った。

灰島は写真をデスクライトの下に置いた。倉庫の壁面に、かすれた文字が見える。管理番号だろう。これを手がかりに場所を特定できる。

缶コーヒーを開けた。今度は少しだけ、苦さが気にならなかった。

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その夜、灰島は事務所の椅子に座ったまま、報告書を三度読み返した。

事故死。足を滑らせた。深夜零時十五分。発見者は隣人。通報は零時二十八分。

十三分の空白。誰かが現場を整えるには十分な時間だ。

灰島は写真の倉庫を拡大して見た。男たちの背後の影に、もう一人いる。フレームの端、ほとんど切れかかった位置に、黒いコートの人影。顔は見えない。

——この写真を撮った雅彦は、殺された。

——この写真を灰島に託した芳江は、何かを知っている。

携帯を取り出し、港湾局の公開データベースにアクセスする。倉庫の管理番号を入力。ヒットした。所在地は臨海第四埠頭。登録名義は——

灰島の指が止まった。

名義人の欄が空白だった。公開データベースで名義人が空白。あり得ない。誰かが意図的に消している。

背筋に冷たいものが走った。これは浮気調査でも猫探しでもない。灰島がこれまで触れたことのない、本物の闇の匂いがする。

写真の中の男たちの目が、灰島を見ている気がした。

——引き返すなら今だ。

灰島は写真を裏返した。芳江の指紋が、薄く光っていた。この写真を何度も握りしめた、あの小さな手を思い出す。

「……やるしかないだろ」

誰もいない事務所で、灰島は呟いた。

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