第3話
第3話
足跡は、朝になると消えていた。
昨夜あれほどはっきり見えた素足の跡が、廊下の埃ごときれいに拭い取られたように、何の痕跡も残っていない。私の足跡だけが薄く残っている。まるで、見たことのほうが間違いだったと言われているようだった。
朝食の席で、義父はいつもと変わらない顔をしていた。味噌汁を啜り、漬物を齧り、母に「今日は天気がいいね」と言う。母が「洗濯物がよく乾きそう」と返す。二人の間で交わされる穏やかなやり取りを聞きながら、私は茶碗のご飯を口に運んだ。白米の甘さが、今朝はやけに遠い味がした。
昨夜のことを話すべきだろうか。足跡のこと。白い影のこと。けれど証拠は消えている。水の音と同じだ。遺影と同じだ。この家の異変は、必ず朝になると自分で自分を消す。私の言葉だけが宙に浮いて、気のせいだと処理される。
月曜日が来た。
学校は山を降りたバス停から二十分。町立の中学校は全校で百二十人ほどの小さな学校だった。四月の転入生は珍しいらしく、教室に入った瞬間、三十の目が一斉にこちらを向いた。
「東京から来た柊つむぎです。よろしくお願いします」
声が教室の空気に吸い込まれて消えた。拍手はまばらだった。担任が「鷹森さんのところにお世話になっている子です」と付け加えると、教室の温度が変わった。何人かが目を見合わせ、ひそひそと言葉を交わしている。その表情は好奇心というより、警戒に近かった。
席についてからも、誰も話しかけてこなかった。隣の女子が消しゴムを落としたので拾って差し出すと、「あ、ありがとう」と小さく言って、すぐに前を向いた。それきりだった。
昼休み、教室の隅で文庫本を開いていると、後ろの席の男子二人の会話が聞こえた。
「鷹森の家って、あれだろ。出るって噂の」
「おばあちゃんが言ってた。あの家の人、みんな変な死に方するって」
声を潜めているつもりなのだろうが、静かな教室ではよく通った。二人は私が聞いていることに気づいているのかいないのか、そのまま話を続けた。
「転校生、大丈夫かな」
「さあ。俺は関わりたくねえけど」
文庫本の文字が滲んだ。活字を目で追っているふりをしながら、指先が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。ただ、ここでも私は一人なのだと思った。前の学校でもそうだった。父が死んでから、私はうまく人と話せなくなった。誰の言葉も薄い膜一枚を隔てた向こう側にあるようで、手を伸ばしても届かない。
放課後、バスを降りて坂道を上っているとき、垣根の向こうから声をかけられた。
「あんた、鷹森の新しい子だね」
隣家の庭先に、腰の曲がった老婆が立っていた。白髪を後ろで束ね、割烹着を着た小柄な体。目だけが妙に鋭かった。
「はい。柊つむぎです」
「ミツだよ。ここに六十年住んどる」
老婆はじっと私の顔を見つめた。品定めするような、あるいは何かを確かめるような目だった。やがて低い声で言った。
「あの家には、長く住まんほうがいい」
「——え?」
「聞こえたろう。長く住まんほうがいい。誠一郎さんには悪いけどね、あの家はそういう家だ」
私が何か言い返す前に、ミツは垣根の向こうに引っ込んでしまった。引き戸が閉まる音がして、それきり人の気配が消えた。
坂道の残りを歩きながら、心臓がどくどくと鳴っていた。学校での噂と、ミツの忠告。鷹森邸の評判は、この土地ではとうに確立されているらしかった。出る家、人が死ぬ家。義父はそれを知った上で、ここに住み続けている。
鷹森邸に戻ると、義父は居間で新聞を読んでいた。私は靴を脱ぎながら、一階の廊下に置かれた柱時計に目をやった。古い振り子式の柱時計。濃い飴色の木枠に、真鍮の振り子がゆっくりと揺れている。文字盤のローマ数字がかすかに擦れていて、長い年月を物語っていた。
あの時計が、毎晩同じ時刻に止まる。
気づいたのは三日目の夜だった。眠れずに布団の中で目を開けていると、こつ、こつ、と響いていた振り子の音が、ふっと途絶える。時計を見に行くと、針は午前二時十七分を指して止まっていた。翌朝には何事もなかったように動いている。その翌日も、そのまた翌日も。午前二時十七分。同じ時刻。四日連続で、柱時計は同じ場所で針を止めた。
機械の故障なら、止まる時刻は毎回違うはずだ。電池式ではなくぜんまい仕掛けだから、タイマーが仕込まれているわけでもない。
今日こそ聞いてみようと思った。
夕食後、食器を片付けている義父の背中に声をかけた。
「鷹森さん、柱時計のことなんですけど」
「うん?」
「毎晩、二時十七分に止まりませんか」
義父の手が止まった。食器棚に皿を戻そうとした手が、棚の前で凍りついた。背中越しに、首筋の筋肉が強張るのが見えた。ゆっくりと振り返った義父の顔から、穏やかさが剥がれ落ちていた。
「なぜ、それを知っている」
声が低かった。怒りではない。もっと深い何か——恐怖に似た感情が滲んでいた。
「毎晩、目が覚めるんです。それで——」
「気にするな」
遮るように言った。いつもの柔らかい口調ではなかった。硬く、短く、有無を言わせない声だった。
「あの時計は古いんだ。調子が悪いこともある。夜中に起きて確かめたりするな。いいね」
義父の目が、初めて私をまっすぐに見据えていた。これまでの——距離を測りながら、壁越しに微笑む目ではなかった。何かを必死に押し込めている目。堤防の裂け目を両手で塞ぐような、切迫した目だった。
「……はい」
私が頷くと、義父は目を閉じた。数秒。長い数秒だった。やがて目を開いたとき、もういつもの穏やかな顔に戻っていた。
「すまない。少しきつい言い方をしたね。心配することはないよ」
義父は皿を棚に収め、静かに台所を出ていった。
残された私は流し台の縁を握ったまま、しばらく動けなかった。義父が怯えている。あの人は知っているのだ。この家で何が起きているか。柱時計が二時十七分に止まる理由を。そして、それを私に知られることを恐れている。
隠すことで守ろうとしているのか。それとも、知った者に何かが起きることを知っているのか。
午前二時十七分。今夜もまた、その時刻はやってくる。
風呂に入り、歯を磨き、布団に入った。母は隣の部屋ですでに寝息を立てている。屋敷は深い静寂に沈み、柱時計だけが律儀に時を刻んでいた。
こつ、こつ、こつ——。
その音を聞きながら、私は目を開けたまま天井を見つめていた。木目の模様が暗がりの中でうねっている。三日前、ミツが言った言葉が頭の中で繰り返される。あの家には、長く住まんほうがいい。学校の男子たちの声。あの家の人、みんな変な死に方するって。義父の硬直した背中。気にするな。
二時を過ぎた。空気が変わる。説明のしようがないのだが、深夜二時を回ると、屋敷の空気が一段重くなるのだ。湿度が上がったわけでも気温が下がったわけでもない。ただ、何かの密度が増す。
こつ、こつ、こつ——。
柱時計の音を数えていた。秒針の音。規則正しく、正確に。
こつ、こつ——。
止まった。
音が消えると、静寂が耳を圧した。鼓膜の内側で血流の音だけが聞こえる。私は布団の中で息を殺した。
二時十七分。今夜も。
そして——来た。
ぴちゃん。
水の音。引越し初日から聞こえていた、あの音。今夜もまた。ぴちゃん、ぴちゃん。規則的で、ゆっくりと。柱時計が止まるのを待っていたかのように始まる。
けれど今夜は、違った。
音が——震えていた。これまでの均一な滴りではなく、わずかに間隔が乱れている。ぴちゃん、ぴちゃん……ぴちゃ……ぴちゃん。途切れかけ、かすれ、また戻る。まるで——。
喉の奥が冷たくなった。
泣いている。
水の音ではなかった。最初から、これは水の音ではなかったのだ。誰かが、泣いている。声にならない声で、息を詰めて、喉の奥を震わせて——泣いている。
嗚咽だった。暗い場所で、誰にも気づかれないように必死に押し殺した嗚咽。水が滴り落ちるように聞こえていたのは、涙が——あるいは涙に似た何かが、繰り返し、繰り返し、落ちる音だった。
布団を握る指が白くなるほど力がこもった。怖い。怖いのに、胸の奥が別の感情で軋んでいた。この声を、私は知っている。声の形を。息の殺し方を。誰にも聞かれたくなくて、でも誰かに気づいてほしくて、暗闇の中でひとり喉を鳴らす——その震え方を。
父の葬式の夜、母が寝た後の布団の中で、私はまったく同じように泣いた。
音はやがて薄れていった。遠ざかるのではなく、力尽きるようにして消えた。最後のひと雫が落ちて、もう次が続かないような終わり方だった。
柱時計がいつ動き出したのか、わからない。気がつくと、こつ、こつ、と振り子の音が戻っていた。二時十七分から、何分間の沈黙だったのか。五分か、十分か。体感では永遠に近かった。
誰かが、この家で泣いている。毎晩、毎晩。百年かもっと前から、ずっと。