第2話
第2話
遺影のことが、頭から離れなかった。
朝食の片付けを手伝いながら、何度も仏間のほうを振り返りそうになる自分がいた。額縁が動いていた。あれは事実だ。けれどそれを誰かに言ったところで、「地震で揺れたんだろう」「気のせいだよ」と返されるのが目に見えている。昨夜の水音と同じだ。この家の異変は、私だけが気づいて、私だけが抱え込むことになる。
午前中は荷解きをして過ごした。段ボール五つぶんの荷物はすぐに片付いた。教科書、数冊の文庫本、最低限の衣類。前の家を出るとき、母が「新しい生活だから」と繰り返した顔を思い出す。新しい生活。その言葉の裏側にあるのは、古い生活を——父のいた日々を——なかったことにしたいという祈りだ。私はその祈りに逆らう気力を持てなかった。
午後になって、母が買い出しに行った。義父は書斎にこもっている。私は一人で屋敷に残された。
昨日の案内では一階の主要な部屋しか見ていない。二階には私の部屋のほかにも、襖で仕切られた部屋がいくつも続いているはずだった。引越しの荷物を運ぶときにちらりと見えた廊下の奥が、ずっと気になっていた。
靴下のまま廊下に出る。板張りの床は昼間でもひんやりとしていて、歩くたびに微かに軋んだ。私の部屋から東に向かって、襖が四枚並んでいる。ひとつ目を開けた。六畳の空き部屋。畳が日に焼けて茶色くなっていて、天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。長い間、誰も使っていない部屋の匂い——埃と、乾いた木と、かすかな黴。
二つ目も似たようなものだった。古い箪笥がひとつ置かれているだけの部屋。箪笥の取っ手に触れると、金具が冷たかった。引き出しを開ける勇気はなかった。
三つ目の部屋で、私は足を止めた。
畳が新しい。
他の部屋の畳は十年、二十年と使い込まれた色をしていたのに、この部屋だけい草の青さが残っている。私の部屋と同じか、それ以上に新しい。六畳間。壁も塗り直されたようで、他の部屋より明らかに白い。まるでこの部屋だけ、何かを消すようにして作り変えたみたいだった。
部屋の隅に、小さな染みがあった。畳と壁の境目、巾木のあたり。新しい畳の縁から数センチのところに、茶色い点が三つ。塗り残しか、それとも——。指先で触れようとして、やめた。触れてはいけないものに思えた。
廊下に戻り、さらに奥へ進む。突き当たりを右に折れると、使われていない階段があった。幅の狭い、急な段。降りた先は裏庭に面した廊下のようだったが、今は板で塞がれている。その手前に、もうひとつ部屋があった。
襖ではなく、引き戸だった。木の枠に曇りガラスがはめ込まれた、洋風の引き戸。他の部屋と雰囲気が違う。取っ手に手をかけて引くと、重い音を立てて開いた。
四畳半ほどの小さな部屋。窓がひとつあり、その窓が——釘で打ちつけられていた。
窓枠に沿って、五寸釘が等間隔に打ち込まれている。六本。錆びてはいるが、木にしっかり食い込んでいて、とても素手では抜けそうにない。窓の向こうは裏山の斜面で、蔦が絡みついて外からの光をほとんど遮っていた。
なぜ、釘を打つ必要があるのだろう。
防犯のためなら鍵をかければいい。風で開くのを防ぎたいなら留め金で十分だ。釘で打ちつけるというのは、もっと切実な——何かを中に入れないか、あるいは中の何かを外に出さないための処置に見えた。
部屋の中には何もなかった。畳もなく、板張りの床がむき出しになっている。隅に、壁を引っ掻いたような細い傷が何本か走っていた。
指の跡だ、と思った。根拠はない。けれどその傷の幅も間隔も深さも、人の指がつけたものとしか思えなかった。誰かがこの部屋で、壁を掻いた。何度も、何度も。
急に空気が冷たくなった気がして、私は部屋を出た。引き戸を閉めると、曇りガラスの向こうが暗く沈んでいるのが見えた。息を整える。心臓が早い。
一階に降りて、居間で母の帰りを待った。テレビをつけたが、音が耳に入ってこなかった。あの部屋のことを考えていた。新しい畳の部屋と、釘で封じられた窓の部屋。この屋敷は見かけよりずっと多くのものを抱えている。
「ただいま。つむぎ、夕食の支度手伝って」
母が帰ってきて、私は台所に立った。義父も書斎から出てきて、三人で夕食の準備をした。母はこの家の台所にまだ慣れておらず、調味料の場所を義父に聞きながら煮物を作っていた。その後ろ姿が、少しだけ楽しそうに見えた。
夕食は昨日と同じ座敷で、三人向かい合って座った。鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁。母の料理は素朴だが温かい味がする。義父は箸をつけて「美味しいね」と言った。母が嬉しそうに目を細めた。
「つむぎちゃんは、前の学校ではどんなことをしていたの」
義父が話を向けてきた。ちゃん付け。距離を縮めようとしているのだろう。悪い人ではないのだと思う。でもその丁寧さが、逆に壁になる。
「……特に何も。本を読むのが好きなくらいです」
「そうか。この家には本がたくさんあるよ。書斎に父の代から集めたものが残っている。好きに読んでくれていい」
「ありがとうございます」
沈黙。箸の音。味噌汁を啜る音。母が間を持たせるように「つむぎは国語がいちばん得意で」と言い始めて、私は小さく首を振った。得意なのではなく、本を読んでいれば一人でいても不自然ではなかっただけだ。でもそれを説明するのは面倒で、面倒だと感じる自分がまた嫌で、結局何も言わなかった。
義父は穏やかに笑っている。笑っているのに、目の奥に疲労の影がある。この人もまた、場の空気を読んで、自分を調整している。母と同じだ。三人がそれぞれ、本音を隠して食卓を囲んでいる。誰も笑っていない食卓だった。表情は笑顔なのに。
「この家の二階って、部屋がたくさんありますね」
何気なく言ったつもりだった。義父の箸が、一瞬止まった。
「ああ、昔は親族が集まることもあったからね。今はほとんど使っていないけれど」
「奥のほうに、窓に釘が打ってある部屋がありました」
今度は、はっきりと空気が変わった。義父が顔を上げ、私を見た。穏やかさの裏に、何か硬いものが走った。
「あの部屋には近づかないほうがいい」
声の調子は穏やかなままだった。けれどそこに含まれていたのは助言ではなく、制止だった。
「古い部屋で、床が傷んでいるんだ。危ないからね」
床は傷んでいなかった。板張りの床はしっかりしていた。義父が嘘をついている。そう気づいたとき、背中にぞわりと冷たいものが這った。この人が隠しているのは、部屋の危険ではない。部屋にまつわる何かだ。
「はい、わかりました」
私はそう答えて、味噌汁に口をつけた。追及する度胸はなかった。ただ、義父の目がわずかに安堵したのを、見逃さなかった。
食後、母が「お風呂先にどうぞ」と義父に勧め、義父が席を立った。母と二人で食器を洗いながら、私は黙っていた。母も黙っていた。水の音だけが台所に響いている。蛇口から流れる水を見つめていると、昨夜のあの音が耳の奥で蘇った。ぴちゃん、ぴちゃん——。
「お母さん」
「ん?」
「この家、どう思う?」
母は皿を拭く手を止めなかった。
「いいところじゃない。静かで、空気がきれいで」
その声はまた、あの明るすぎる声だった。私が聞きたかったのはそういうことではなかったけれど、母にこれ以上を求めても仕方がないとわかっていた。母は母なりに必死なのだ。この再婚を、この生活を、うまくいかせようと。
洗い物を終えて二階に上がった。自分の部屋に向かう廊下を歩いていたとき、ふと足が止まった。
廊下の奥——さっき探索した突き当たりの角を曲がったあたり。暗がりの中に、白いものが見えた。
人の形をしていた。
一瞬だった。瞬きをするより短い時間。白い影が、廊下の闇の中を横切って消えた。着物の裾のような、あるいは髪のような、白くて薄いものがふわりとなびいて——消えた。
息が止まった。廊下の壁に背中をつけて、しばらく動けなかった。心臓が喉の奥で暴れている。見間違いだ。カーテンか何かが風で動いたのだ。——この家にカーテンはない。障子と襖だけだ。
震える足で、奥に進んだ。角を曲がる。暗い廊下には何もなかった。白い影も、人の気配も。
ただ——足元に目を落としたとき、呼吸が止まった。
廊下の板の上に、うっすらと埃が積もっている。昼間歩いたとき、私の足跡がついていた。靴下の跡が、まだ残っている。
その隣に、もうひとつの足跡があった。
私のものより小さい。素足の、指の跡までくっきりと残った足跡が、廊下の奥から私の部屋のほうに向かって、五つ、六つと続いていた。
昼間はなかった。あの探索のとき、確かにこの廊下には私の足跡しかなかった。
誰かが、歩いた。私がいない間に——いや、たった今、この廊下を。