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鷹森邸の声なき者たち

第1話 第1話

第1話

第1話

その家は、息をしていた。

車の窓から見上げた瞬間、私はそう感じた。山あいの細い道を三十分も揺られた先に、鷹森邸はあった。築百年は超えているだろう。黒ずんだ木の柱、苔の浮いた石垣、覆いかぶさるように枝を伸ばした樫の木。敷地だけで私が通っていた中学校の校庭より広い。こんな場所に、これから住む。

「つむぎ、降りなさい」

母の声に促されて車を降りると、四月なのに空気がひんやりと重かった。標高のせいだけではない。屋敷の玄関に立つと、土と黴と、それからもうひとつ——何か甘い腐敗のような匂いが、かすかに鼻の奥をくすぐった。

「よく来たね」

義父の鷹森誠一郎が、玄関の奥から現れた。五十代半ば、背筋の伸びた穏やかそうな人。母と再婚してまだ三ヶ月。私はこの人のことを何と呼べばいいのか、まだ決められていない。

「鷹森さん」と私は言った。義父はわずかに目を伏せたが、何も言わなかった。

母がその沈黙を埋めるように「お世話になります」と頭を下げる。明るい声。少し、明るすぎる声。父が死んでから二年、母はこういう声を出すようになった。場の空気を読んで、自分の感情を消して、隙間を埋めていく声。

私は靴を脱いで上がった。廊下の板がひやりと足裏に触れた。四月の陽射しが差し込んでいるはずなのに、屋敷の中は薄暗い。天井が高く、柱が太く、人間が二年ぶんの生活を持ち込んだところで、この家はびくともしないだろうと思った。

あてがわれた部屋は二階の東側、八畳の和室だった。畳は張り替えてあるらしく、い草の青い匂いがした。窓を開けると山の斜面が目の前に迫っていて、緑の壁のようだった。空が狭い。

段ボール箱を五つ運び入れて、私の引越しは終わった。荷物が少ないのは、前の家で処分したからだ。父の書斎にあった本も、父と一緒に撮った写真も、母が「新しい生活だから」と言って捨てた。私は何も言わなかった。言ったところで母は泣くだけだし、泣かれると私のほうが悪いような気持ちになる。だから黙っていた。黙ることに、もうずいぶん慣れていた。

夕食は三人で囲んだ。義父が用意してくれた煮物と焼き魚。味は悪くなかったが、箸を動かすたびに、自分の咀嚼音が耳についた。広い座敷に三人分の食器の音だけが響く。煮物の里芋は丁寧に面取りされていて、出汁の色が均一に染みている。この人はきっと何年も一人で食事を作り、一人で食べてきたのだろう。丁寧なのに、どこか寂しい味がした。

「学校は来週の月曜からだったね」

義父がそう切り出した。

「はい」

「担任の先生にはもう連絡してある。いい先生だよ」

「ありがとうございます」

会話が続かない。母が「つむぎは人見知りだけど、慣れたら大丈夫ですから」とフォローを入れる。私は人見知りなのではなく、何を話せばいいかわからないだけだ。この人は母の新しい夫で、私の父ではなく、私がこの家にいるのは母の選択の結果であって、私自身が望んだことではない。そういうことを、もちろん口にはしない。

食後、義父が屋敷を案内してくれた。一階だけで部屋が八つある。客間、仏間、書斎、台所、居間。使っていない部屋がいくつもあり、襖を開けるたびに埃とも湿気ともつかない空気が頬を撫でた。

「この家は私の祖父が建てたものでね」と義父は言った。「古いけれど、柱はしっかりしている。手入れは欠かさないようにしてきた」

確かに、荒れている様子はなかった。廊下は磨かれ、障子は張り替えられ、庭木も刈り込まれている。なのに——どう言えばいいのだろう。空気が、重い。人がきちんと暮らしている家の空気ではなかった。神社の本殿の奥、あるいは閉ざされた蔵の中。何かが溜まっている。何かが、澱んでいる。

「あの、この家には——」

私が何を聞こうとしたのか、自分でもはっきりしない。義父は立ち止まって振り返った。廊下の奥、仏間の前。薄闇の中で、義父の顔は穏やかなままだった。

「何かな」

「……いえ、何でもないです」

仏間の障子越しに、かすかに線香の残り香がした。この家で亡くなった人たちのための仏壇があるのだろう。義父はそれ以上何も言わず、案内を続けた。

夜。布団に入っても、なかなか眠れなかった。

静かすぎるのだ。前に住んでいた団地では、隣の部屋のテレビの音や、上の階の足音や、外の車の音がいつも聞こえていた。それがここでは何もない。山の中の静寂は、耳の奥が痛くなるほど深かった。

柱時計が、遠くで時を刻んでいる。こつ、こつ、こつ。その音だけが暗闇に浮かんでいた。

——ぴちゃん。

目を開けた。

——ぴちゃん。

水の音。どこか近くで、水が滴り落ちている。蛇口の締め忘れだろうか。台所は一階だ。ここは二階の端。こんなにはっきり聞こえるはずがない。

——ぴちゃん、ぴちゃん。

規則的に、ゆっくりと。まるで誰かが一定の間隔で、指先から雫を落としているような音。私は布団の中で身を固くした。心臓がうるさいほど鳴っている。指先が冷たい。起きて確かめるべきだ。そう思うのに、体が動かない。暗い廊下に出て行く自分を想像するだけで、胸の奥が冷たく縮んだ。

音は続いていた。ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん——。

そのうち、私は音を数えていた。二十三、二十四、二十五——。数えているうちに、音の出どころが少しずつ変わっている気がした。最初は廊下の向こう側だったのが、だんだんと近づいてくるような。襖一枚を隔てた向こう側まで来ているような気配に、喉の奥がきゅっと詰まった。

布団を頭まで引き上げた。こんなことをしても何の意味もないとわかっていた。けれど、見たくなかった。何が近づいてきているのか。

やがて、音は止んだ。

いつ止んだのかわからないまま、私はいつのまにか眠っていた。

翌朝、目が覚めたのは六時過ぎだった。障子の隙間から朝の光が差し込んでいて、昨夜の恐怖が嘘のように空気が白かった。

私は廊下に出て、昨夜音が聞こえた方角を確かめた。二階の廊下、突き当たりの壁、その先の空き部屋。床を触ってみたが、乾いていた。天井にも壁にも、水の染みひとつない。

一階に降りて台所を確認した。蛇口はしっかり閉まっている。洗面所も浴室も異常なし。

「おはよう、つむぎ。よく眠れた?」

台所に立つ母に聞かれて、「うん」と答えた。眠れなかったと言えば心配するだろう。心配されても、母にはどうしようもない。

朝食の席で義父に聞いてみた。

「昨夜、水の音がしたんですけど」

義父は味噌汁の椀を置いて、少し考えるような顔をした。その一瞬、義父の目がわずかに揺れたように見えた。気のせいかもしれない。けれどそのわずかな間が、私の胸に小さな棘のように刺さった。

「古い家はそういうものだよ。木が湿気を吸って鳴ることもあるし、配管が古いから音が響くこともある。気にしなくて大丈夫」

そう言って、義父は穏やかに笑った。母も「慣れない場所で緊張してるのよ」と付け加えた。

気のせいだと言われれば、そうかもしれないと思う。けれど私の耳には、あの音がまだ残っていた。ぴちゃん、ぴちゃん——。水が落ちる音。規則的で、意志があるかのような間隔。あれは配管の音なんかじゃない。

食後、母に頼まれて仏間に線香を上げに行った。義父の両親と、さらにその上の代の人々だろうか。古い遺影が五つ、仏壇の上に並んでいる。白黒の写真の中の人たちは、誰もがどこか険しい顔をしていた。

線香を上げて手を合わせる。目を開けたとき、ふと違和感を覚えた。

遺影だ。

昨日、義父に案内されたとき、仏間の遺影を見ている。五つの額縁がまっすぐに並んでいた。それは覚えている。けれど今、右から二番目の遺影が——ほんのわずかに、こちらを向いている。

昨日は正面を向いていたはずの写真の中の人物が、数ミリだけ、角度を変えている。まるで、仏間に入ってきた私のほうを見ようとしたかのように。

背筋を、冷たいものが走った。

思わず一歩下がる。もう一度よく見る。気のせいだと思いたかった。でも、違う。写真の角度が変わったのではない。額縁ごと、わずかに回転している。誰かが——あるいは何かが、昨夜のうちに動かした。

水の音がして、遺影が動く。

この家は、私に何かを伝えようとしている。

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