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鉄槌の雨、父の渇望

第2話 第2話

第2話

第2話

左手が脈打つように痛む。自販機の光が傷口に巻いた布を赤く染めている。雨粒が布の端から滲み、薄い血の筋が手首を伝って落ちた。

蓮は痛みを頭の隅に押しやり、思考を回した。さっきの包囲は手際が良すぎた。セダンとワゴン、二台が無灯火で同時に路地を塞いだ。囮の男を配置し、獲物が食いつくのを待ち構えていた。素人の警戒網じゃない。訓練された連中だ。

だが、穴がある。

蓮は自販機の影からわずかに身を乗り出し、二本先の通りを確認した。追手は分散して蓮を探しているはずだ。全員が降車して追いかけてきたなら、車両は路地に置き去りになっている。

賭けだ。だが、このまま逃げるだけでは何も掴めない。

蓮は裏通りを引き返した。痛む左手を庇いながら、記憶の中の地図を辿る。さっきの路地まで三ブロック。追手がまだ周辺を捜索しているなら、車に近づくのは自殺行為だ。だが全員が蓮の逃走方向——幹線道路側——に展開しているなら、路地の反対側はがら空きになる。

三分後、蓮は路地の南端に立っていた。雨が視界を曇らせる。だが暗がりの中に、白いワゴンの輪郭が見えた。エンジンは切れている。運転席は空。蓮は身を低くして車体に近づいた。アスファルトの水たまりが膝を濡らし、冷たさが骨まで沁みた。

ドアは開いていた。キーが刺さったままだ。急いで降りた証拠。ダッシュボードに携帯電話のホルダー。空。グローブボックスを開ける。車検証。レンタカーだ。名義を確認する——法人契約。「東和興業」。聞いたことのない名前だが、蓮はそれを頭に刻んだ。

助手席の足元にタバコの吸い殻が三本。同じ銘柄。長時間ここで待機していた。最初からこの場所で張っていたのだ。蓮が廃ビルを監視する前から。

狩っていたつもりが、狩られていた。

蓮はワゴンのエンジンをかけた。セルが一度空転し、二度目で点火する。排気の震えがシートを通じて背骨に伝わった。ヘッドライトは点けない。ギアをドライブに入れ、路地をゆっくりと抜け出した。

幹線道路に合流する。深夜の車列に紛れ、速度を周囲に合わせた。バックミラーに目をやる。追尾はない。蓮は車検証に記された法人住所を頭の中で反芻した。港湾区第二埠頭、東和興業ロジスティクスセンター。倉庫だ。

この車を使えば足がつく。長くは乗れない。だが、いま手元にあるのはこの車と車検証の住所だけだ。行くなら今しかない。

蓮はハンドルを切り、港湾区へ向かう湾岸道路の分岐に入った。

深夜三時。湾岸道路はほぼ無人だった。街灯がオレンジの光を等間隔に落とし、濡れた路面が鏡のように反射する。蓮は速度を八十キロに保ちながら、左手の感覚を確認した。指は動く。握力は落ちているが、ハンドルは握れる。

港湾区の入口が見えてきた。倉庫群のシルエットが闇の中に浮かぶ。潮と錆の混じった重い空気がエアコンの吹き出し口から忍び込んできた。蓮は速度を落とし、ナビなしで記憶の地図を頼りに第二埠頭方面へ進路を取った。

異変に気づいたのは、埠頭まであと二キロの直線道路に入った時だった。

バックミラーに光。ヘッドライトが二つ、急速に距離を詰めてくる。蓮はミラーから目を離さず、アクセルを踏み込んだ。速度が百に上がる。だが後続車も加速した。一台じゃない。二台目のライトがその背後に現れる。

前方にも。

交差点の右側から黒いセダンが飛び出してきた。さっきと同じ型。蓮はハンドルを左に切り、対向車線に逃れた。セダンのボンネットがワゴンの右後部をかすめ、金属が擦れる甲高い音が雨の中を切り裂いた。

「——早い」

蓮は舌打ちした。ワゴンを奪ったことを、もう把握している。GPSか、あるいは車両自体に発信機が仕込まれていたか。どちらにせよ、罠の上に罠を重ねる連中だ。最初から逃走用の車を餌として残していた可能性すらある。

バックミラーの二台が車間を詰めてくる。前方のセダンがUターンして追走態勢に入った。三台。蓮を中心に、三方向から包囲網が狭まる。

銃声。

乾いた破裂音が夜気を引き裂いた。リアガラスが一瞬で白い蜘蛛の巣になり、次の瞬間、粉々に砕け散った。ガラス片が首筋を掠める。蓮は頭を下げ、ハンドルだけを頼りに車線を維持した。

二発目。左のサイドミラーが吹き飛んだ。

撃ってきている。威嚇じゃない。当てにきている。蓮はバックミラーの断片に映る追手を確認した。助手席の窓から身を乗り出した男が、拳銃を構えている。距離は約三十メートル。この速度で動く標的に当てる腕。やはり素人じゃない。

蓮はワゴンを左右に振り、射線を乱した。だが直線道路では限界がある。前方に分岐。左は埠頭の奥、行き止まり。右は倉庫街を抜けて市街地へ戻るルート。

右に切る。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく傾いた。遠心力で助手席のグローブボックスが開き、中身が散乱する。蓮は体幹で姿勢を保ちながらカウンターステアを当て、スライドを制御した。

倉庫街に入る。コンテナが壁のように両側に積み上がった狭い通路。追手の三台がすべて追従してくる。だがこの狭さなら、横に並ばれる心配はない。一列だ。蓮は減速と加速を繰り返し、追手との距離を一定に保った。コンテナの角を利用して射線を切る。銃声が続くが、金属の壁に弾かれて火花が散るだけだ。

問題は燃料だ。メーターに目をやる。四分の一以下。長くは走れない。

前方にT字路。左右どちらに行っても倉庫街の中だ。蓮は右を選んだ。コンテナの隙間から海が見える。風が強まっている。潮の匂い。

T字路を曲がった瞬間、目の前に四台目が待っていた。

大型のSUVが通路を完全に塞いでいる。ヘッドライトが全開でワゴンのフロントガラスを白く焼いた。蓮は目を細め、ブレーキを踏んだ。タイヤがロックし、水膜の上を滑る。ABSが間に合わない。ワゴンはSUVの手前五メートルで横向きに停止した。

エンジンが咳き込んで止まった。

蓮はドアを蹴り開けて転がり出た。コンクリートの地面に肩から着地し、すぐにコンテナの陰に身を寄せる。背後から三台の追手が迫る。前方にSUV。左は海。右はコンテナの壁。

包囲完成。

SUVのドアが開き、男が三人降りてきた。いずれも黒い防弾ベスト。手にはサブマシンガン。蓮が持っているのは、ジャケットの裏に忍ばせた九ミリ拳銃一丁。装弾数十三発。対して相手は最低でも十人、自動火器装備。

計算するまでもない。正面からやれば三秒で蜂の巣だ。

蓮はコンテナの陰で呼吸を整えた。吸って四秒。止めて四秒。吐いて四秒。心臓が肋骨を叩く。雨が顔を打つ。左手の傷が脈動する。だが震えはない。三年前から、もう震えなくなった。震える理由になるものを、すべて奪われた日から。

視線を巡らせる。コンテナの並びに不自然な隙間がある。積み荷の搬入口だろう。幅は人一人がやっと通れる程度。その奥は闇だ。どこに繋がっているか分からない。だが他に選択肢はない。

SUVの男が拡声器を手にした。

「神崎蓮。お前の身辺は全て把握している。逃げ場はない」

名前を知っている。蓮は目を閉じた。一秒だけ。凛の写真がポケットの中で体温を吸っている。娘が最後に見せた笑顔が、瞼の裏にちらついて消えた。

「——知ってるよ」

蓮は呟き、コンテナの隙間に体をねじ込んだ。闇が蓮を飲み込む。背後で怒号と足音が重なった。サブマシンガンの連射音がコンテナの壁を叩き、金属の悲鳴が夜の港湾区に響き渡る。

蓮は走った。暗闇の中を、傷だらけの手で壁を伝いながら。コンテナの迷路の奥へ。

追手の声が反響する。だがその中に、一つだけ異質な音が混じっていた。無線の電子音。そして蓮の耳が拾った断片的な通話。

「——対象、コンテナD区画に侵入。桐生管理官に報告を——」

蓮の足が止まった。

桐生。三年前、妻子の死を「事故」と断定した捜査責任者の名前だ。なぜその名前が、武装した追手の無線から聞こえる。

蓮は暗闘の中で拳を握った。左手の傷口が裂け、温かい血が指の間を伝った。痛みはもう感じなかった。それよりも深い場所で、三年間押し殺してきた何かが、音もなく目を開けた。

答えは一つしかない。だがその答えは、蓮が追っていた真実の輪郭を、根本から塗り替えるものだった。

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