第1話
第1話
雨が、腐った街を洗い流そうとしている。
だが街は流れない。汚れた水が排水溝に渦を巻くだけで、染みついた臭いも、壁に浮いた黒ずみも、何一つ変わらない。ただ雨音だけが、この街の沈黙を塗り潰している。
深夜二時。神崎蓮は廃ビルの向かい、解体予定のマンションの三階に身を潜めていた。窓枠のコンクリートが崩れかけた隙間から、双眼鏡のレンズが雨粒を弾く。冷えた風が吹き込むたびに、濡れたジャケットの裾が肌に張りつく。足元には錆びた鉄筋が転がり、動くたびに微かな金属音を立てそうになる。息を殺す。視界の先——廃ビル四階の窓に、三十分前から断続的に灯りが揺れている。
人がいる。
蓮は双眼鏡を下ろし、左手でジャケットの内ポケットに触れた。写真が一枚。ラミネートなどしていない。娘の小さな指が触れた紙の感触を、そのまま残しておきたかった。角がすり減って柔らかくなった紙。この一週間、何度ポケットに手を入れたか分からない。そのたびに指先が感じる凹凸が、蓮をこの場所に立たせている理由そのものだった。
三年前の四月。妻の彩香と娘の凛が死んだ。交差点での多重衝突事故。トレーラーのブレーキ故障が原因と断定され、運転手は禁錮三年の判決を受けた。蓮はそれを疑わなかった。疑う余裕がなかった。葬儀の記憶すらまともにない。白い菊の匂いと、読経の低い振動と、誰かに支えられなければ立っていられなかった自分の膝の震え。それだけが断片的に残っている。
軍を辞めた。飲んだ。朝から飲んだ。昼も飲んだ。夜は記憶がなくなるまで飲んで、気がつくとアパートの床で目を覚ました。家族の写真は全部伏せた。見れば壊れると分かっていた。壊れるというより、もうとっくに壊れていて、写真を見ればその破片が臓腑を突き破って外に出てくる——そんな予感があった。
一年、二年。三年目に入った先週のことだ。
凛の遺品を整理していた。ずっと手をつけられなかった段ボール箱。小さなリュック、折れたクレヨン、動物の絵が描かれた自由帳。クレヨンの匂いを嗅いだ瞬間、涙腺が決壊しかけた。凛はいつも右手を虹色に汚して、得意げに絵を見せてくれた。「パパ見て」。あの声が耳の奥で響く。蓮は奥歯を噛み締め、自由帳のページをめくった。クレヨンで描かれた太陽、家族三人の棒人間、庭に咲いた花——どのページにも、凛が見ていた世界の温度が残っていた。その自由帳に挟まっていた一枚の写真。使い捨てカメラで凛が撮ったものだ。ぶれている。構図もめちゃくちゃだ。だが背景に、はっきりと男が写っていた。
事故現場の交差点。事故の約十分前に撮られた写真。そこにいるはずのない男。スーツ姿。周囲を確認するように首を巡らせている。その視線の先には、数分後に彩香と凛が横断するはずの歩道があった。
偶然じゃない。
蓮の頭の中で、三年間止まっていた歯車が軋みながら回り始めた。酒を断った。初日は手が震えた。二日目は吐いた。三日目に震えが止まり、四日目から頭が回り始めた。翌日から動いた。写真の男の顔をデータベースに照合する手段はもうない。軍のコネクションはほぼ切れている。だが蓮には、戦場で叩き込まれた追跡技術があった。
写真の背景に映り込んだ車のナンバー。防犯カメラの死角と生存域。事故報告書の不自然な空白。一週間で点と点を繋ぎ、この廃ビルに辿り着いた。
「——来い」
呟く。声は雨にかき消された。
双眼鏡を再び構える。廃ビル四階。灯りが消えた。代わりに三階の非常階段に人影。降りてくる。一人。フードを被っている。だが歩き方に特徴がある。右足をわずかに引きずる癖。写真の男と一致する身体的特徴を、蓮は一週間かけて三つ割り出していた。そのうちの一つ。
心拍が上がる。蓮はそれを意識的に抑えた。戦場の呼吸に切り替える。吸って四秒。止めて四秒。吐いて四秒。体が覚えている。三年のブランクなど、体は忘れてくれなかった。むしろ厄介なほど正確に、殺すための手順を覚えていた。
男がビルの裏口から出てきた。路地を北に向かう。蓮は双眼鏡をバッグに収め、階段を降り始めた。足音を殺す。壁沿いに影を縫う。距離は五十メートル。これ以上近づけば気づかれる。これ以上離れれば、この雨の中では見失う。
雨脚が強まる。視界が白く霞み、アスファルトを叩く音が周囲の物音を吸い込んでいく。蓮は目を細め、男の背中だけを視界の中心に据え続けた。
男の足が止まった。
蓮も止まる。電柱の影に体を滑り込ませた。背中にコンクリートの冷たさが染みる。男が振り返る。フードの下の顔は見えない。五秒。十秒。雨粒が蓮の額を伝い、まつ毛の先から落ちる。瞬きを堪える。男は再び歩き出した。
蓮が追尾を再開した直後、背後でエンジン音がした。振り返る。路地の入口に黒いセダンが停まっていた。ヘッドライトは消えている。運転席に人影。
前方を見る。男がセダンに向かって歩いてくる。蓮の横を通過する軌道だ。
違和感が首筋を刺した。
男の歩調が変わっていた。右足を引きずっていない。さっきまで確かにあった癖が消えている。演技だったのか。それとも——
セダンの後部座席のドアが開いた。室内灯は点かない。だが一瞬、ダッシュボードの微かな光が車内を照らした。後部座席にもう一人いる。そしてその手に握られている形状を、蓮の目は見逃さなかった。
銃。
全身の毛が逆立つ。罠だ。悟った瞬間、蓮は路地の右側、錆びたシャッターの陰に身を投げた。肩からコンクリートの壁に叩きつけられる。痛みが走るが、構っている暇はない。
同時に、背後からもう一台のエンジン音。路地の反対側から白いワゴンが無灯火で滑り込んでくる。挟まれた。前にセダン。後ろにワゴン。男はもう走っていない。振り返って蓮のいる方を見ている。やはり囮だった。
蓮は壁に背をつけ、状況を整理した。二秒で終わらせる。
退路は二つ。右手のシャッターを破って建物内に入るか、左手の塀を越えて隣の敷地に出るか。セダンとワゴンの間は約四十メートル。この距離なら狙撃は難しいが、降車して包囲されれば終わる。
決断。塀だ。
蓮は体を低くしたまま塀に駆け寄り、一息で乗り越えた。着地の衝撃が膝から腰に突き上げる。三年前なら感じなかった重さだ。だが足は止まらない。着地と同時に走る。隣は月極駐車場。車が六台。その奥にフェンスがあり、フェンスの向こうは幹線道路だ。
背後で怒号。足音が複数。追ってくる。
蓮はフェンスに飛びつき、有刺鉄線を避けて支柱の上端を掴んだ。左手の掌が切れる。構わず体を引き上げ、反対側に落ちた。
幹線道路。深夜でも断続的に車が走っている。蓮は中央分離帯を越え、反対車線に停まっていたタクシーの横を抜け、二本先の路地に消えた。
五分後。蓮は裏通りの自販機の影で呼吸を整えていた。追手の気配は断ち切った。だが掌の傷から血が滴り、雨と混じってアスファルトに赤い水たまりを作っている。自販機の明かりが傷口を照らす。深い。肉が見えている。蓮は右手でジャケットの袖を引きちぎり、左手に巻きつけた。歯で結び目を締める。戦場での応急処置と同じだ。体が勝手に動く。
蓮はジャケットの内ポケットに手を入れた。写真は無事だ。血で汚れてはいけない。右手で慎重に抜き取り、自販機の光にかざした。凛が撮った写真。ぶれた交差点。そこに立つ男。
あの男たちは、蓮が来ることを知っていた。写真の男は囮。つまり、写真の存在を——あるいは蓮の動きそのものを——誰かが把握している。一週間の追跡は、最初から監視されていた可能性がある。
ならば相手は素人じゃない。組織だ。
蓮は写真を見つめた。雨に濡れ、端が少しふやけている。凛の最後の写真。三歳の指で押したシャッターが、父親をもう一度戦場に引き戻した。
だが今度の戦場には、帰りを待つ者がいない。失うものがない人間は強いのだと、誰かが言っていた。嘘だ。失うものがない人間は、ただ止まり方を忘れただけだ。
蓮は写真をポケットに戻した。立ち上がる。左手が熱を持ち始めている。感染する前に処置が必要だが、今夜やるべきことがまだある。
廃ビルに人影が動く。
蓮は双眼鏡を握り直した。