第2話
第2話
小屋が見えた。
斜面を登りきった柏木の視界に、丸太と波板で組んだ粗末な建物が映る。異常はない——ように見えた。だが玄関口の地面が乱れている。足跡。沢で見たものと同じトレッドパターン。軍用ブーツの主は、確かにここに来た。
猟銃を肩付けしたまま、柏木は小屋の側面に回り込んだ。背中を壁に預け、呼吸を殺す。耳を澄ませる。風の音。木々のざわめき。その下に、微かな——呼吸音。浅く、速い。苦痛に耐える人間の呼吸だ。
柏木は角を回り、玄関に銃口を向けた。
扉が半開きになっている。押し開けられたまま、閉める力もなかったのだろう。土間に倒れ込んだ人影。うつ伏せ。右手が前方に伸び、何かを握りしめている。オリーブドラブのフィールドジャケットは泥と血で黒く染まり、左の脇腹から腰にかけて布地が裂けていた。裂け目から覗く肉が、暗い赤を見せている。鉄錆に似た血の臭いが、湿った土間の空気に重く淀んでいた。
柏木は銃を下ろさなかった。
「動くな」
声をかける。返答はない。呼吸だけが続いている。柏木は一歩踏み込み、倒れた人間の顔を確認した。
泥と血が貼りついた横顔。だが骨格は見間違えない。高い頬骨、薄い唇、耳の後ろにある三日月形の古い傷跡。
三島——三島拓海。
銃口が揺れた。照準を保つために鍛え上げた両腕が、意志とは無関係に震えていた。五年ぶりに見る後輩の顔だった。いや、五年前とは別人のように痩せている。頬は削げ、眼窩が深く落ち込んでいた。だが三日月の傷は間違えようがない。訓練中の事故で、柏木が縫った傷だ。
「三島」
猟銃を壁に立てかけ、膝をついた。三島の首筋に指を当てる。脈はある。速く、弱い。体温が低い。低体温と出血性ショックの初期段階。柏木は三島を仰向けにした。
三島の目が薄く開いた。焦点が合わない。瞳孔が開き気味だ。視線が柏木の顔の上を彷徨い、やがて一点に定まった。
「——柏木、さん」
声は掠れていた。唇の端から血が伝い、顎を伝って土間の板に落ちた。
「喋るな。傷を見る」
ジャケットを開いた。脇腹の裂傷は深い。刃物ではない。弾丸の掠過痕。皮膚と筋膜を抉るように抜けている。出血は続いているが、動脈には達していない。致命傷ではない——ただし処置しなければ、失血で死ぬ。柏木は棚から救急箱を引き出した。消毒液、ガーゼ、圧迫包帯。猟師の応急処置キット。獣を手当てするために揃えた道具で、人間を救うことになるとは思わなかった。
「いつやられた」
「——昨夜。峠の手前で」
峠。ここから南に十五キロ。負傷した状態で夜の山を十五キロ歩いた。正気の沙汰ではない。だが三島の目には、狂気ではなく、明確な意志があった。ここに辿り着くために、すべてを振り絞ったのだ。
柏木は圧迫包帯を巻きながら、三島の全身を確認した。脇腹の他に、左太腿に打撲痕。右の手首が不自然な角度で腫れている。骨折か、重度の捻挫。だが最も深刻なのは体温の低下だった。唇が紫色に変色し始めている。
毛布を引き寄せ、三島の身体を包んだ。薪ストーブに火を入れる。乾いた杉の端材が炎を上げ、小屋の中に橙色の光が広がった。炎の熱が頬に触れ、それで初めて柏木は自分の手が震えていることに気づいた。
「柏木さん」
三島の右手が持ち上がった。握りしめていたものを、柏木に向かって差し出す。小さな金属片。USBメモリだ。黒い樹脂の筐体に、血が滲んでいた。
「受け取って、ください」
「何だ、これは」
「証拠です」
三島の目が柏木を捉えた。今度は焦点が合っている。瞳の奥に、怒りと、悔恨と、切迫した何かが燃えていた。
「影灯——俺たちの部隊が、まだ人を殺してる」
影灯。その名前を聞いた瞬間、柏木の手が止まった。消毒液を含ませたガーゼが、宙で静止する。五年前に封じたはずの記憶が、臓腑の底から一気にせり上がってきた。
「解散したはずだ」
「してない。名前を変えて、今も動いてる。東南アジアで——武器を流してる。民間人が死んでる。子供も」
三島の声が震えた。怒りではない。嗚咽を堪えている。
「俺は——知らなかった。途中まで、普通の任務だと思ってた。でも現地で見たんです。倉庫に積まれた——小さな——」
言葉が途切れた。三島は目を閉じ、歯を食いしばった。涙が泥の上に筋を作る。
「証拠を集めた。内部のファイル、輸送ルート、承認者の名前。全部入ってる。だけど気づかれて——追われて」
三島の手が柏木の腕を掴んだ。握力は弱い。だが指先が食い込むように震えていた。
「柏木さんしか、いなかった。まだ——生きてるのは」
その言葉の意味を、柏木は理解した。影灯を知り、戦闘能力を持ち、組織の外にいる人間。条件を満たすのは柏木だけということだ。
「他の隊員は」
「死んだ。辞めた奴も——消された。佐久間さんも、去年」
佐久間。柏木と同期だった男。除隊後は北海道で農業をやっていると聞いた。消された——その単語が脳の中で反響する。年賀状のやり取りが途絶えたのは、いつからだったか。
「三島。お前は——」
「もう、駄目です」
三島は微かに笑った。血の滲んだ唇が歪む。
「ここまで来れただけで——上出来ですよ」
脈が弱まっている。柏木の指がそれを捉えた。三島の握力が急速に失われていく。手が滑り落ちそうになるのを、柏木は両手で包み込んだ。冷たい。戦場で何度も触れた、命が抜けていく人間の温度だった。
「喋るな。止血する。まだ——」
「聞いて、ください」
三島の目が見開かれた。最後の力を振り絞るように、声が鮮明になった。
「内部に——味方がいます。誰かは教えてもらえなかった。でも、確かにいる。USBの中に——連絡方法が」
咳き込む。血が混じった。柏木は三島の頭を支えた。後頭部の体温が急速に失われていくのが、掌に伝わった。
「三島」
「すみません——こんな形で」
三島の視線が柏木の顔から外れ、天井を向いた。小屋の梁に揺れるランプの炎を見ているのか、それとももう何も見えていないのか。
「隊長に——あなたに、会えて」
呼吸が止まった。
柏木は動かなかった。三島の手を握ったまま、冷えていく指先の温度を感じていた。薪ストーブの炎が爆ぜる音だけが、小屋に残った。
時間が経った。どれだけかは分からない。柏木はゆっくりと三島の手を胸の上に置き、目を閉じさせた。泥と血にまみれた後輩の顔は、眠っているように見えた。二十代の頃とは別人のように削げた頬。この五年間、三島が何を見て、何を背負ってきたのか。柏木には想像することしかできない。だが最期にこの小屋を目指した——その事実だけが、二人の間に残された唯一の信頼の証だった。
USBメモリは土間に落ちていた。柏木はそれを拾い上げ、手の中で転がした。小さい。親指の先ほどの大きさ。だがこの中に、三島が命と引き換えに守り抜いたものが入っている。
開くべきだ。今すぐに。三島の死を無駄にしないために。
柏木が立ち上がりかけた、その時。
窓の外に目をやった。無意識だった。索敵の本能が、視線を外に向けさせた。
山の稜線。南東の尾根筋。薄明の空を背景に、稜線が黒いシルエットを描いている。その線上に——光。
小さな光点が二つ。等間隔。
双眼鏡のレンズ反射だ。
柏木の血が凍った。朝日の角度と反射の位置から逆算する。距離は八百メートルから一キロ。稜線上に二人。こちらを監視している。三島を追ってきた連中だ。昨夜の銃撃で仕留め損ね、血痕を辿ってここまで来た。三島が死ぬのを待っていたのか、あるいは——接触する相手を確認するために、泳がせていたのか。
どちらにしても、もう猶予はない。
柏木はUSBメモリをジャケットの内ポケットに押し込み、猟銃を手に取った。窓から身体を離し、壁際に背中を預ける。
光点は動かない。まだ監視フェーズ。だが三島の呼吸が止まったことを確認すれば、次のフェーズに移行する。突入か、狙撃か。稜線の位置からして、この小屋は射線が通る。
三島の亡骸を見下ろした。まだ温もりが残っている。
「——分かった」
声は低かった。誰に向けたのかは、柏木自身にも分からなかった。
猟銃の薬室を確認する。装弾数五発。相手は二人。武装は不明だが、影灯の現役なら自動小銃は持っている。猟銃で自動小銃に挑む。馬鹿げている。だが地の利はこちらにある。この山で五年暮らした。すべての獣道を、すべての地形を、身体が覚えている。
柏木は裏口に向かった。小屋を出る前に一度だけ振り返り、三島を見た。
待っていろ。中身は必ず確認する。
裏口の戸を音もなく開け、夜明けの冷気の中に身を滑らせた。