第1話
第1話
右膝が軋む。
夜明け前の山は暗い。ヘッドランプの光が獣道を白く切り取り、落ち葉の湿った匂いが鼻腔を満たす。腐葉土の甘さに混じって、どこか遠くで獣が通った後の青臭い体臭が微かに漂っていた。柏木隼人は呼吸を整え、猟銃を肩に食い込ませたまま斜面を登った。銃床が防寒着越しに鎖骨を圧迫する。もう慣れた重さだ。六・八キロ。人を殺すための道具より、ずっと軽い。
気温は三度。吐く息が白い。
足元の土は昨夜の雨で緩んでいる。登山靴の底が泥を噛むたびに、くちゃりと湿った音がする。鹿の蹄跡が点々と続き、途中で急角度に折れていた。蹄が土をえぐった深さからして、かなりの速度で方向転換している。何かに驚いて逃げた痕跡。猪か、あるいは熊か。この時期の熊は目覚めたばかりで気が立っている。柏木はヘッドランプの光を周囲に走らせた。木の幹に爪痕はない。熊棚も見当たらない。猪だろう、と判断して先へ進む。
膝が再び痛む。五年前の古傷だ。右膝の内側靱帯。手術はした。だが完全には戻らなかった。冷える朝は特にひどい。関節の中で錆びた蝶番がきしむような、鈍く重い痛み。急斜面を登るたびに、あの夜が蘇る。
——爆発。瓦礫。仲間の叫び声。
熱風が頬を焼いた感触。コンクリートの粉塵で灰色に染まった視界。耳鳴りの向こうで、誰かが自分の名前を呼んでいた。柏木、柏木、応答しろ——
柏木は歯を噛んだ。考えるな。ここは戦場じゃない。奥歯が擦れる音が頭蓋に響く。冷たい空気を深く吸い込み、肺の奥まで山の匂いで満たした。土と苔と針葉樹の樹脂。この匂いが現実だ。
標高八百メートル。集落から四キロ。人口十一人の過疎の村で、柏木は五年間、猟師として暮らしてきた。電波は届かない。テレビもない。あるのは猟銃と、山と、静寂だけだ。村の老人たちは柏木を「よそから来た若いの」としか呼ばない。名前を聞かれたことはある。答えた。だがそれ以上は誰も踏み込まない。山の暮らしとはそういうものだ。過去は問わない。理由も聞かない。そこにいる、それだけで十分だった。
それでいい。それだけでいい。
尾根に出ると、東の空が薄く白み始めていた。谷を覆う霧の層が、朝日を待って微かに揺れている。山肌に張りついた杉の梢が霧の上から覗き、まるで水面に浮かぶ島のように見えた。柏木は立ち止まり、風の向きを確かめた。頬に触れる空気の流れ。草の穂が傾く方角。北西。獲物がいるなら、風下から近づく。基本中の基本だ。戦場でも、山でも変わらない。
変わらないものが、柏木を苛立たせる。
猟銃を構えるたびに、指が覚えている。照準の合わせ方。呼吸の止め方。引き金にかける圧力の加減。肩と頬と銃床の三点が吸いつくように嵌まる感覚。身体が勝手に最適な射撃姿勢を取る。五年経っても身体が忘れない。忘れたいのに、忘れさせてくれない。この手はもう獣しか撃たない。そう自分に言い聞かせるたびに、指先がかすかに震える。本当にそうか、と問い返す自分がいる。
鹿は見つからなかった。蹄跡は沢の方へ下りている。柏木は追わず、代わりに前日仕掛けた罠の確認に向かうことにした。沢沿いに三つ。括り罠を使っている。弾の節約と、何より銃声を減らすためだ。銃声は山に長く残る。谷に反響して、いつまでも消えない。あの音が嫌いだった。獣を仕留めるために必要だと分かっていても、引き金を引くたびに胃の底が冷える。
山を歩くとき、柏木は無意識に周囲を警戒する。視界の端で動く影を捉え、音を拾い、足元の変化を読む。枯れ枝が折れる音の方角を即座に特定し、鳥の羽ばたきか獣の踏み込みかを聞き分ける。索敵行動。元特殊部隊員の習性は、猟師の生活に溶け込んでいた。いや、猟師という仮面の下に、兵士がまだ息をしている。
沢までの道を下る。傾斜がきつくなり、膝への負荷が増した。一歩ごとに体重が右膝の内側に集中する。靱帯が引き伸ばされるような鋭い痛みが走り、つい右足を庇い、左足に体重が偏る。バランスが崩れる。足元の石が転がり、斜面を跳ねながら落ちていった。乾いた音が連続して鳴り、やがて沢の水音に呑まれた。こんな身体で、かつてのように動けるはずがない。動く必要もない。もう終わったのだ。
「終わったんだ」
声に出した。自分の声が妙に細く聞こえた。山に吸い込まれ、何も返ってこない。木々の間を抜けた風だけが、返事の代わりに首筋を撫でた。それが柏木には心地よかった。誰の命令も聞かなくていい。誰かを殺さなくていい。誰かに殺されなくていい。ここには自分と山しかいない。命令系統も、作戦目標も、帰還期限もない。ただ生きて、獣を獲って、眠る。それだけの日々が、柏木にとっての恩赦だった。
沢の音が近づいてくる。最初は低い唸りのように聞こえていたそれが、次第に輪郭を持ち、水が岩を叩く鋭い破裂音になった。雪解け水を集めた流れは速く、岩を叩く音が谷に響いている。水飛沫が霧のように立ち込め、近づくだけで顔が濡れた。最初の罠は空だった。ワイヤーが緩んでいる。獣が触れたが、締まりきらなかったらしい。踏み板の周囲に蹄の跡がある。鹿だ。脚を通したが、ワイヤーの輪が十分に収縮する前に引き抜かれたのだろう。柏木は膝をついて罠を調整し直した。冷たい泥が膝を濡らし、古傷の痛みが鈍く脈打つ。ワイヤーのテンションを指先で確かめ、踏み板の位置を三センチほどずらした。
二つ目も空。こちらは触れた形跡すらない。落ち葉が踏み板の上に積もり、罠を覆い隠している。これでは獣が踏んでも作動しない。設置場所を変えるべきか。獣道の位置がずれている可能性がある。季節の変わり目にはよくあることだ。雪が消え、新芽が出始めると、鹿は餌場を移す。それに合わせて罠も動かさなければならない。柏木は周囲を見渡し、二十メートルほど上流に新しい蹄跡の集中する地点を見つけた。明日、ここに移設しよう。
三つ目の罠に向かう途中だった。
柏木の足が止まった。
沢を渡る浅瀬。水に洗われた砂地に、足跡が残っていた。
人間の足跡。
それだけなら珍しくない。この山にも稀に登山者が入る。だが柏木の目は、足跡の形状に釘付けになった。
トレッドパターン。深く刻まれたラグソール。均一な摩耗。つま先寄りに体重がかかった沈み方。
軍用ブーツだ。
柏木の呼吸が浅くなる。心拍が跳ね上がるのを感じた。こめかみの血管が脈打ち、視界が一段階鮮明になる。戦場で何度も経験した覚醒状態。アドレナリンが脊髄を駆け上がる感覚。猟銃のセーフティに指が伸びる。無意識の動作。五年間眠っていたはずの回路が、瞬時に立ち上がった。
足跡は一人分。歩幅は狭い。だが足の運びは訓練を受けた人間のものだ。かかとの着地が浅く、つま先で地面を掴むように歩いている。音を殺す歩行。柏木自身が叩き込まれた、あの歩き方だ。足跡の深さにばらつきがある。右足が深い。左足を庇っている——負傷しているか、極度の疲労か。
柏木は沢の周囲を見渡した。水音以外に異質な音はない。鳥の声もない。沢沿いの鳥が黙っているということは、何かがこの近くを通過したということだ。対岸の砂地にも足跡が続いている。水に浸かった足跡の縁はまだ鮮明で、崩れきっていない。数時間以内のものだ。昨夜か、今朝か。
足跡の主は沢を渡り、そのまま北に向かっている。
北。
柏木の喉が鳴った。北は——山の上だ。集落の方角。そして、柏木の小屋がある方角。
猟銃を構え直す。安全装置を外す。金属のカチリという小さな音が、沢の音を縫って耳に届いた。薬室に弾が入っていることを指先で確認する。この五年間、獣以外に銃を向けたことはなかった。向ける日が来るとも思っていなかった。
だが身体は覚えている。
柏木は足跡を追い始めた。沢を渡り、対岸の斜面を登る。水の冷たさが靴の中に染みた。構わない。感覚が研ぎ澄まされていく。足跡は獣道を避け、藪の中を直線的に進んでいた。途中、踏み倒された下草の茎がまだ完全には起き上がっていない。最短距離。目的地を知っている人間の歩き方だ。迷いがない。地図を持っているか、あるいはこの山を知っている。
途中、灌木の枝に布の繊維が引っかかっていた。暗い色。オリーブドラブに近い。軍用か、それに準じる衣服。枝の高さからして、身長は百七十前後。柏木は繊維に触れずに観察した。合成繊維。安物ではない。引き裂き強度の高い織り方。やはり軍用、あるいは民間軍事企業のフィールドウェアだ。
柏木は足を速めた。膝の痛みを無視した。痛みは後でいい。今は——
足跡は確かに、山の上へ続いている。
柏木の小屋へ向かって、一直線に。
誰かが来る。あるいは、もう来ている。
猟銃を握る手に力がこもった。引退した兵士の目が消え、索敵する兵士の目が戻っていた。五年かけて埋めた本能が、足跡ひとつで掘り起こされる。
静寂が変質していた。もう心地よくはない。この山のどこかに、柏木の過去が潜んでいる。