第3話
第3話「階段を昇る四つの足音」
声が近づいてくる。
一階から這い上がる複数の呻きは、もはや反響の産物ではなかった。足音がある。引きずるような、不規則な足音が、コンクリートの階段を一段ずつ昇ってきている。湿った衣擦れの音が混じっていた。一体ではない。少なくとも三つ、いや四つの足音が、わずかにずれたリズムで重なり合っている。
「戻るぞ」
陣内が鉄パイプを構えたまま、階段室のドアに向かった。私も従った。振り返る余裕はなかった。壁に刻まれた「ミルナ」の二文字が、まだ網膜にこびりついていた。
ドアを閉め、廊下に出た。陣内が取っ手を押さえたまま耳を澄ませている。階段室の向こう側で、足音が踊り場に到達する音がした。バリケードを片付けてしまった。あの群れを遮るものは、もうこのドアだけだ。
「ロックは」
「ない。押さえていても長くは持たない」
陣内が手を離した。ドアが内側に数センチ押し込まれ、すぐに自重で閉まった。向こう側にいるものたちは、まだドアの開け方を思い出していないらしい。だがそれがいつまで続くか分からなかった。園田は——園田だったものは、私の名前を呼んだ。記憶の断片が残っているなら、ドアノブを回すという動作も、いずれ。
「離れよう。西端は使えない。別のルートを探す」
陣内が頷いた。二人で廊下を東へ引き返す。さっき通り過ぎた七一二号室の前を再び通るとき、あの咀嚼音はまだ続いていた。
私は立ち止まった。
「こっち」
陣内が怪訝そうに振り返った。私が指差したのは、七一二号室の向かいにある配膳室の扉だった。
「配膳室から隣の処置室に繋がってる。処置室を抜ければ、東側のナースステーションの裏口に出る。あいつらは廊下しか使わない——たぶん。部屋から部屋への動線は知らないはず」
三年間の夜勤で体に染みついた動線だった。深夜の巡回で、靴音を立てずに患者の様子を確認して回るとき、私はよくこの裏ルートを使っていた。廊下を端から端まで歩くより速いし、何より静かだった。
陣内が私の顔を一瞬見つめ、それから何も言わず配膳室のドアを開けた。
中は想像通り、がらんとしていた。配膳カートが一台、壁際に寄せられている。流し台の蛇口から水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音だけが、小さく響いていた。水はまだ通じている。非常灯の赤い光は届かず、代わりに配膳室の天井についた古い蛍光灯が、チカチカと不安定に明滅していた。接触不良だろう。棟の電力がどういう状態なのか、私にも把握できていなかった。
配膳室と処置室を繋ぐ引き戸は、看護師しか知らない動線だ。入院患者や見舞い客が通ることは想定されていない。引き戸を開けると、消毒液の匂いがむっと押し寄せた。処置室の匂いだ。ここだけは三年前と変わらなかった。処置台、ステンレスのトレイ、壁に固定されたシャーカステン。すべてが埃を被っているが、配置は記憶のままだった。
「お前がルートを選べ。戦闘になったら俺が出る」
陣内が言った。役割分担の提案だった。理にかなっている。この棟の構造を知っているのは私だ。どの部屋がどこに繋がっているか、どの廊下が行き止まりか。三年前の記憶が、暗闇の中の地図になる。一方で、あの灰色のものたちと対峙する力は私にはない。それは陣内の領分だ。
「分かった」
短く答え、処置室の奥の扉を開けた。ナースステーションの裏口——リネン庫を兼ねた小さなスペースに出る。棚にはシーツやタオルが畳まれたまま残っていた。埃が厚く積もっている。三年分の静寂が、繊維の一本一本に染み込んでいるようだった。
リネン庫からナースステーションに入った。東側のステーション。B棟二階には東西に一つずつステーションがある。先ほど目覚めた直後に入ったのは東側だったが、あのときは勤務表を確認しただけですぐに出た。今度はもう少し丁寧に調べる余裕がある。
陣内がステーションの入口に立ち、廊下を監視していた。鉄パイプを片手にぶら下げたまま、微動だにしない。見張りとしては申し分なかった。
デスクの引き出しを順に開けた。ボールペン、クリップ、付箋。勤務シフトの控え。処方箋の控えの束。いずれも三年前のものだ。埃を払いながら一枚ずつ確認するが、特に目を引くものはなかった。
三段目の引き出しが開かなかった。施錠されている。看護師なら分かる——この引き出しは管理薬や重要書類を保管するためのものだ。鍵はステーションの鍵ボックスにあるはずだった。
鍵ボックスを見つけた。壁に固定されたそれも施錠されていたが、金具が腐食して脆くなっていた。配膳室で見かけたスプーンの柄を隙間にねじ込み、てこの要領で力をかけると、あっけなく金具が外れた。中から鍵束がじゃらりと落ちてきた。三本目の鍵で、引き出しが開いた。
中にあったのは、見慣れないカルテだった。
B棟の通常カルテは表紙が薄い青色だ。患者ごとにファイリングされ、棟名と病室番号が印字されている。だがこのカルテの表紙は白かった。棟名の欄には「B棟」とあるが、その下に見たことのない表記があった。
「B棟地下実験区画」
声に出していた。自分の声が、静まり返ったステーションに小さく響いた。
地下。B棟に地下などない——少なくとも、三年間ここで働いていた私は、そんな区画の存在を知らなかった。建物の構造図は見たことがある。一階と二階。それだけのはずだ。
カルテを開いた。中身は通常のカルテとは違っていた。患者の基本情報——氏名、年齢、入院日——は記載されているが、傷病名の欄が空欄だった。代わりに「投与プロトコル」という見出しの下に、薬剤名と投与量が時系列で並んでいる。薬剤名は略号ばかりで、正規の医薬品コードではなかった。NR-04。NR-07。そして——NR-09。
ページをめくる手が止まった。
「被験者同意書」と書かれた紙が挟まっていた。だがその署名欄は空白だった。同意していない。同意のないまま、何かが投与されていた。
指先が冷たくなっていくのが分かった。看護師として何百枚と扱ってきたカルテの、その紙の手触りだけが妙に鮮明だった。同意書の用紙は通常のものより厚手で、透かしのような模様が入っている。院内の書式ではない。外部の、どこかの機関が用意したものだ。
「何を見つけた」
陣内が、廊下から視線を外さずに訊いた。
「……カルテ。この棟の地下に実験区画があるらしい。知ってた?」
「知らん」
嘘か本当か、判断がつかなかった。陣内の声は最初から同じ温度で、感情の振れ幅が読み取れない。
カルテの最後のページに、手書きのメモが貼り付けてあった。ボールペンの走り書き。字は乱れているが、読めた。
『地下区画へのアクセスは西棟1F配管室より。暗証番号は月ごとに変更——』
そこで文字が途切れていた。まるで書いている途中で何かに中断されたように、最後の一画がページの端まで長く引き伸ばされていた。
私はカルテを閉じ、胸元に抱えた。手が震えていた。恐怖とは少し違う。三年間、投薬ミスの汚名を着せられてこの場所を追われた。あの夜、宮瀬さんに投与された薬が正規品ではなかったとしたら——あの死は事故ではなく。
喉の奥が詰まった。怒りなのか悔しさなのか、自分でも名前をつけられない感情が胸の底からせり上がってきた。宮瀬さんの顔を思い出す。六十七歳、穏やかな笑顔で「いつもありがとう」と言ってくれた人だ。あの人の死が、誰かの実験の結果だったとしたら。
「降りるわよ。地下に」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
陣内が初めて廊下から視線を外し、こちらを見た。非常灯の赤い光が、その目の中に小さく映っていた。何かを言いかけ、飲み込んだような沈黙があった。
「——いいだろう。だが、まずは一階に降りる手段を確保してからだ」
そのとき、ステーションのデスクの上に置かれていた院内PHSが、微かに光った。着信ではない。画面に一行のテキストが表示されていた。
『B棟地下 換気停止 残り11時間』
送信元の表示はなかった。誰が、どこから送ったのか。そして——十一時間後に何が起きるのか。
カルテを握る手に、力が入った。