第3話
第3話
黒のセダンから視線を外さず、神崎は階段を下りた。
一階のエントランスを抜け、植え込みの裏に回る。セダンとの距離は約二十メートル。運転席の人影は動かない。ナンバーを読む。品川ナンバー。レンタカーの連番ではない。自家用か、組織の持ち車か。
裏口から駐車場の反対側に出た。路地を一本挟んだコインパーキングに回り込み、セダンの背後に出る。車種はクラウン。現行型。窓のスモークが濃い。運転席の男は四十代、短髪、グレーのジャケット。助手席は空。一人での監視。プロなら二人一組が基本だ。つまり本職ではないか、人手が足りないか。
神崎は携帯でナンバーを撮影し、その場を離れた。今ここで接触する意味はない。泳がせるほうが情報が取れる。
美月の車に戻り、裏口から出るよう指示した。セダンの死角を縫って住宅街に入り、二度ほど曲がって尾行がないことを確認する。
「あのセダン、兄貴の部屋を見張ってた。お前の兄貴が戻ってくるのを待ってるか、あるいは——部屋に来る人間を確認してる」
美月のハンドルが一瞬ぶれた。すぐに立て直す。だが指先が白くなるほどステアリングを握り締めていた。
「私たち、見られましたか」
「マンションに入るところは見られてる。だが顔まで取れたかはわからない。四階の窓からの角度だと、車からは死角が多い」
断言はしない。だが楽観もしない。見られた前提で動く。それが生き残るやり方だ。
「新宿に行け。歌舞伎町の端、区役所通り沿いの雑居ビルだ」
美月が頷く。行き先は聞かない。昨夜より呑み込みが早くなっている。
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雑居ビルの地下一階。看板のない扉。表向きは古書店ということになっているが、本を買いに来る客はいない。
神崎がインターホンを押すと、しばらくしてロックが外れる音がした。湿った空気と古い紙の匂いが階段を這い上がってきた。
薄暗い店内に足を踏み入れる。壁一面の本棚に並ぶのは法律書、財務諸表の解説書、企業年鑑のバックナンバー。奥のカウンターの向こうに、痩せた男が座っていた。銀縁の眼鏡。白髪交じりの長い髪を後ろで束ねている。年齢不詳。四十にも六十にも見える。
通称ドクター。本名は誰も知らない。元は銀行の審査部にいたという噂もあるが、確かめた人間はいない。金の流れを追わせたら、この街で右に出る者はいない。神崎が三年間、情報料を払い続けてきた相手だ。
「珍しいな、直接来るなんて」
ドクターはカウンターに肘をつき、眼鏡の奥の目を細めた。手元には分厚いファイルが開いていた。
「電話で話せる内容じゃない」
神崎はカウンターの前に立ち、コートの内ポケットから瀬川隼人のメモのコピーを出した。昨夜のうちにコンビニで複写しておいた原本は別の場所に隠してある。
「港南開発公社。ここの金の流れを洗ってくれ」
ドクターがメモを手に取り、眼鏡を持ち上げて目を近づけた。数秒で表情が変わった。眉間の皺が深くなり、唇が薄く引き結ばれた。
「——お前、これどこで手に入れた」
「出所は言えない。中身に心当たりがあるのか」
ドクターがメモをカウンターに置いた。指先でトントンと叩く。癖だ。頭の中で計算しているときの。
「港南開発公社の噂は前から聞いてた。再開発予算の規模に対して、実体のない委託先が多すぎる。だが誰も触らない。触った人間が消えるからだ」
「知ってて黙ってたのか」
「お前が訊かなかったからな。それに——」ドクターが眼鏡越しに神崎を見た。「これは金の問題じゃない。もっとまずいものが絡んでる」
ドクターが奥の棚からファイルを一冊引き抜いた。テーブルに広げる。企業の登記簿謄本、決算公告の切り抜き、不動産登記の写し。何年分もの資料が付箋で色分けされていた。
「港南開発公社から金が流れる先は三系統ある」
ドクターの指が、紙の上を滑る。
「一つ目。東和コンサルタントから明和建設工業を経由して東洋興産へ。東洋興産は清龍会のフロント。これはお前のメモの通りだ。再開発利権の上前を暴力団が吸い上げる、古典的な構図」
「二つ目は」
「港南開発公社の関連財団から、複数の政治団体への寄付。迂回が巧妙だが、最終的に行き着く先は都議会と国会の複数の議員事務所だ。つまり政治献金のロンダリング」
ドクターの指が三本目のルートを示した。声が一段低くなる。
「三つ目。これが一番厄介だ。港南開発公社の監査を担当する部署——警視庁組織犯罪対策部の特定の幹部に、定期的に金が動いている痕跡がある。直接じゃない。不動産の贈与、家族名義の口座、海外のペーパーカンパニー。だが追えば追えるレベルで隠してある」
「追えるレベルで?」
「隠す気がないんじゃない。追える人間が限られてるから、雑でも問題ないんだ。追った人間は消せばいい。それがこの構造の本質だ」
神崎の背筋が冷えた。
三角形だ。
暴力団が利権を吸い上げ、政治家が制度を整え、警察が蓋をする。三者が互いを必要とし、互いを守る。完璧な癒着構造。どこか一辺を切っても、残り二辺が修復する。
宮藤はこの三角形に触れた。だから消された。瀬川隼人も同じ場所に辿り着いて消えた。触れた人間を排除し続けることで、この構造は十年以上維持されてきた。
「お前の昔の相棒もこれを追ってたんだろう」
ドクターの声に、初めて感情が混じった。同情ではない。警告だ。
「三年前にも同じことを訊かれたよ。宮藤って刑事に。あのときは俺も全体像が見えてなくて、断片しか渡せなかった。それが——」
「それが宮藤を殺したと?」
「断片だけ掴んで突っ込んだ。全体像が見えていれば、もう少し慎重にやれたかもしれない。俺にも責任はある」
神崎は何も言わなかった。ドクターを責める気はない。宮藤を殺したのは、この三角形を作った人間だ。責任の所在は明確だ。
「メモにあった"T"——警察内部のキーマン。心当たりは」
ドクターが首を振った。
「金の流れからは特定できない。不動産の名義も偽装が深い。ただ——」
「ただ?」
「組対の幹部クラスで、港南エリアの捜査に影響力を持ち、なおかつ十年以上この構造を維持できる人間。そんな人間は、そう多くない」
神崎の頭の中で、顔が浮かんでは消えた。かつての上司。同僚。警視庁の人間関係図。十年以上のキャリアで知り得たすべての顔。だがどれも確信には至らない。Tが誰であるかは、まだ闇の中だ。
ドクターがファイルを閉じた。
「忠告しておく。この三角形を壊そうとするなら、三辺同時に切れ。一辺だけ切っても、残りが塞ぐ。そして——お前が切ろうとしていることは、向こうも想定している。三年前と同じ手は通用しない」
神崎はファイルの束を受け取り、コートの内側にしまった。
「いくらだ」
「今回はいい。宮藤の貸しがまだ残ってる」
宮藤の名前が出るたびに、胸の奥で何かが軋む。だが今は感傷に浸っている場合じゃない。
地下の扉を出て、階段を上がる。四月の風が頬を叩いた。歌舞伎町の雑踏が視界に流れ込む。昼間の歓楽街は化粧を落とした顔をしている。路上の看板、客引きの声、工事中のビルの足場。すべてが日常の皮を被っている。この街の地下に、千二百億の闇が流れている。誰もそれを知らない。知ろうともしない。
美月が待つ車に戻った。助手席に座り、ファイルを膝の上に広げる。
「三角形だ」
「三角形?」
「警察。開発公社。暴力団。三つが組んで港南再開発の金を回してる。お前の兄貴はこの構造を追って消えた。俺の相棒は三年前に同じものに触れて殺された」
美月の顔から血の気が引いた。だが目は逸らさない。唇が微かに震えていたが、声は震えなかった。
「兄を——取り戻せますか」
「まだわからない。だが、この三角形を崩せば、隠されてるものが全部出てくる。お前の兄貴の居場所も含めて」
エンジンをかけろ、と言いかけて、神崎は動きを止めた。
バックミラーに映る景色。二台後ろに、黒のクラウン。品川ナンバー。
板橋で見た車と同じだ。
回り込まれている。尾行ではない。先回りだ。神崎がドクターのところに来ることを、知っていた人間がいる。
神崎の手が、無意識にコートの下のリボルバーに触れた。冷たい金属の感触が、指先から現実を引き戻す。