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灰の刑事、三年目の線

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、神崎は二日酔いの頭を抱えたまま美月の車に乗り込んだ。

睡眠は二時間。あの後、美月が持ち込んだ資料を一枚ずつ撮影し、壁に追加した。港南再開発に関する新聞の切り抜き、議事録のコピー、手書きのメモ。どれも断片的で、それ単体では意味をなさない。だが三年間壁を睨み続けた人間には、匂いがわかる。瀬川隼人は確実に何かを掴みかけていた。

「兄の部屋、鍵は」

「合鍵があります」

美月のハンドルを握る手は安定していた。昨夜の震えは消えている。一晩で覚悟を決めたか、あるいは泣ける場所で泣き尽くしたか。どちらでもいい。使える人間であればそれでいい。

窓の外を団地群が流れていく。四月の朝の陽射しが、灰色の壁面をやけに白く照らしている。瀬川隼人の自宅は板橋区の築三十年のマンション。公安の刑事が住む場所としては地味だが、それが正解だ。目立たないことが公安の流儀。

マンションの駐車場に車を入れる。四階建て、エレベーターなし。外壁のタイルが数枚剥がれている。植え込みのツツジが手入れもされず伸び放題になっていた。郵便受けの並ぶエントランスで、神崎は足を止めた。

「403号室だな」

美月が頷く。郵便受けを覗く。チラシと封書がぎっしり詰まっていた。三週間分。神崎は手を突っ込み、まとめて引き抜いた。公共料金の通知、ダイレクトメール、信用金庫からの封書。私信はない。

「行くぞ」

階段を上がる。コンクリートの踊り場に、雨で流れた泥の跡が乾いてこびりついている。四階の廊下は静かだった。平日の午前、住人のほとんどは出払っている。403号室の前に立ち、美月が鍵を差し込む。シリンダーが回る音。ドアが開いた。

室内に踏み込んだ瞬間、神崎の鼻が反応した。

空気が淀んでいる。三週間閉め切られた部屋の匂い。埃と、かすかな湿気と、生活の残り滓が混ざった、人が不在であることを告げる空気。だがそれだけじゃない。微かに——煙草の残り香。銘柄はメンソール系。神崎が吸うバーボン臭い煙草とは違う。

「お前の兄貴、煙草は」

「吸いません」

神崎の目が細くなった。

玄関から居間へ。1DKの狭い部屋。ベッドは整えられているが、デスクの上にマグカップが置きっぱなしだ。中身は干からびたコーヒーの跡。出かける準備をする間もなく、あるいは出かけるつもりがないまま、この部屋を離れている。

「触るな。見るだけだ」

美月に指示を出しながら、神崎は部屋を歩く。キッチン。冷蔵庫の中身は期限切れの牛乳とコンビニの総菜。ゴミ箱にはカップ麺の容器が三つ。偏った食事。張り込みか、追い詰められた人間の生活パターンだ。

本棚。法律書、捜査実務のテキスト、歴史小説が数冊。背表紙に不自然な隙間がある。何冊か抜かれている。誰かが持ち出したか、隼人自身が移したか。

浴室。洗面台の鏡を開ける。常備薬。頭痛薬と胃薬。ストレスを抱えていた証拠。鏡を閉じかけて、神崎は手を止めた。鏡の縁に小さな擦り傷。工具で抉った跡。

「ドライバーを持ってるか」

「車に工具箱が——」

「取ってこい」

美月が駆け出す間に、神崎はデスクに戻った。引き出しを一つずつ開ける。文房具、名刺入れ、ICレコーダー。レコーダーのバッテリーは切れている。ポケットに入れた。引き出しの二重底は美月が既に見つけている。中身は空。写真と資料は昨夜受け取った分で全部だろう。

だが公安の刑事が隠し場所を一つしか作らないはずがない。

美月がドライバーを持って戻った。息が少し上がっている。四階分の階段を往復した額に薄く汗が滲んでいた。神崎は浴室に入り、鏡の枠にドライバーの先端を差し込んだ。力を込める。枠が浮き、鏡ごと外れた。裏側の壁にガムテープで小さなジップロックが貼り付けてあった。

「あった」

中身はメモ用紙の束。小さな字でびっしりと書き込まれている。日付、場所、人名、金額。捜査メモだ。

神崎はメモをテーブルに広げた。美月が横から覗き込む。

最初のページ。日付は二ヶ月前。

『港南開発公社——理事長・黒瀬隆之。再開発予算1200億のうち、推定80〜120億が不明瞭な支出。委託先の実体なし。ペーパーカンパニー3社を経由して資金が消えている』

二ページ目。

『資金の流れ:港南開発公社→東和コンサルタント→明和建設工業→東洋興産。東洋興産は指定暴力団・清龍会のフロント企業。最終的に清龍会を通じて還流か。清龍会若頭・片桐の名前が内部資料に複数回登場』

三ページ目。人名リストと矢印。組織図だ。

黒瀬隆之——港南開発公社理事長。 片桐雄三——清龍会若頭。 そしてもう一人。矢印の先に書かれた名前の上に、二重線が引かれている。何度も書いては消した跡。ボールペンの跡が紙の裏側まで凹んでいた。ためらいと確信の間で、瀬川隼人がどれほど逡巡したかが紙面に刻まれている。最終的に残されたのはイニシャルだけだった。

『T——警察内部。階級は高い。黒瀬と片桐を繋ぐキーマン。この人物が全体の設計者か?』

神崎の呼吸が止まった。

港南開発公社。東洋興産。清龍会。警察内部の人間。

これは——宮藤が追っていた構図そのものだ。

三年前、宮藤は断片しか掴めなかった。いや、掴んだから殺された。そして今、瀬川隼人が同じ構造の、より深い層に到達していた。宮藤の死から三年。別の刑事が別のルートから同じ闇に辿り着き——同じように消えた。

メモの最後のページ。日付は三週間前。隼人が消える直前の記述。

『確証に近い。あと一手で裏帳簿の現物に届く。Tの正体を特定できれば、すべてが繋がる。だが尾行がついている。公安内部に漏れている可能性——』

そこで記述は途切れていた。文末のダッシュが、紙の端まで走っている。書いている途中で手を止めたのか、あるいは止めざるを得なかったのか。

神崎はメモをテーブルに置き、煙草に火をつけた。指先は震えていない。むしろ冷たいほど落ち着いていた。三年間の空白が、ようやく意味を持ち始めている。

「兄は——生きてますか」

美月の声は平坦だった。感情を殺している。だがその目だけが揺れていた。答えを聞く覚悟と、聞きたくない恐怖が、瞳の奥でぶつかっている。

「わからない」

嘘はつかない。だが殺す理由があるなら、もう殺している。三週間も放置する意味がない。つまり——

「生きてる可能性は高い。消したいだけなら、もっと簡単にやれる。三週間経ってまだ見つかっていないなら、隠れているか、隠されているかのどちらかだ」

美月が唇を結んだ。拳が白くなるほど握りしめられている。だが崩れない。この女は使える。

神崎はメモの人名リストに目を戻した。港南開発公社。黒瀬。片桐。そしてT。

「港南開発公社」

その名前を声に出した瞬間、腹の底で何かが噛み合った。歯車が三年ぶりに回る感触。宮藤の死と、隼人の失踪。二つの線が交差する地点に、同じ組織がある。

「ここだ」

神崎はメモの組織図を指で叩いた。

「お前の兄貴が追ってたものと、俺の相棒が殺された理由。同じ根っこだ。三年前に宮藤がこの構造に触れて消された。今、お前の兄貴が同じ場所まで来て消えた。偶然じゃない」

美月が息を呑む。

「つまり——兄を消した相手と、宮藤さんを殺した相手は」

「同じだ。少なくとも、同じ組織の人間だ」

煙草の煙が天井に昇る。閉め切った部屋の中で、煙がゆっくりと渦を巻いた。

三年間繋がらなかった点が、線になりつつある。だがまだ足りない。メモだけでは裏が取れない。港南開発公社の金の流れを、別のルートから確認する必要がある。

神崎は携帯を取り出した。登録名「D」。裏社会の情報屋、通称ドクター。三年間、毎月金だけ吸い取られてきた相手だが、今回は具体的なネタがある。

発信ボタンを押す前に、神崎は窓の外を見た。マンションの駐車場。自分たちの車の他に、見慣れない黒のセダンが一台停まっている。来たときにはなかった。

「美月。ここに来るとき、尾けられた覚えは」

「ありません」

「車の中にいろ。俺が戻るまで出るな」

メモをジップロックに戻し、コートの内ポケットに押し込む。神崎は玄関に向かいながら、もう一度窓の外を確認した。

黒のセダン。エンジンはかかっていない。だが運転席に人影がある。

誰かが、この部屋を見張っている。

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