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灰の刑事、三年目の線

第1話 第1話

第1話

第1話

三年経っても、死者は黙らない。

壁一面に貼られた写真と新聞記事が、蛍光灯の青白い光に浮かんでいる。押しピンで留めた捜査メモ。マーカーで引かれた人名。赤い糸で結ばれた相関図。その中心にあるのは、一枚の写真だ。路地裏に倒れた男——元刑事の相棒、宮藤誠一。胸部に二発。即死だった。

神崎燐太郎はデスクに足を投げ出し、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。安物のバーボンが食道を灼く。胃の底に溜まる熱は、三年前から変わらない空洞を一瞬だけ埋めて、すぐに消える。時計は午前二時を回っている。歓楽街のネオンが窓の隙間から差し込み、壁の写真に赤と青の明滅を落としていた。階下のスナックから低い笑い声が漏れてくる。他人の幸福が、壁越しにくぐもって届く。

三年だ。

警視庁を追われてから三年。証拠を捏造され、懲戒免職。宮藤を殺した人間は野放しで、神崎だけが泥を被った。検察も警務部も、誰一人として味方にならなかった。当然だ。組織を守るほうが個人を守るより合理的だから。

探偵事務所「神崎リサーチ」。看板はそう出している。だが浮気調査も身辺調査もほとんど受けない。金になる仕事を選ぶ余裕がないくせに、宮藤の件に繋がらない依頼には興味が湧かなかった。事務所の家賃は三ヶ月滞納。情報屋への支払いだけは欠かさない。優先順位が壊れている自覚はある。

灰皿に煙草を押し潰す。七本目。肺が重い。

携帯が震えた。情報屋の一人、通称サブからのメッセージだ。

『例の件、新しいネタなし。しばらく寝かせたほうがいい』

毎月同じ文面。毎月同じ結果。三年分の情報料は、すべてこの壁に貼られた断片に化けた。点はある。だが線にならない。相棒が何を掴んで殺されたのか、核心だけがいつも欠落している。

神崎はグラスを置き、壁に近づいた。右端に貼られた一枚の写真。宮藤の遺体が発見された現場の全景。鑑識が撮影したものを、退職前に持ち出した。写真の隅——規制線の向こうに、スーツ姿の男が映っている。顔は横向きで半分しか見えない。この男が誰なのか、三年間特定できていない。

「誰だ、お前は」

何百回と繰り返した問い。写真は答えない。

グラスに残ったバーボンを一息で干した。瓶はもう空だ。買い出しに行く気力もない。椅子に深く沈み込み、目を閉じる。まぶたの裏に宮藤の顔が浮かぶ。いつも通りの人懐っこい笑み。あの日の朝、「先に行ってる」と言って出ていった背中。それが最後だった。

眠りに落ちかけたとき、ドアがノックされた。

午前二時半。まともな客が来る時間じゃない。神崎はデスクの引き出しに手を伸ばした。リボルバーの冷たい感触を確かめ、引き出しを半開きにしたまま声を出す。

「閉まってる」

「神崎燐太郎さんですか」

女の声だった。若い。わずかに震えている。

「明日の営業時間に来い」

「明日じゃ——間に合わないんです」

沈黙が数秒。神崎は舌打ちして立ち上がり、ドアチェーンをかけたまま薄く開けた。

廊下に立っていたのは、二十代半ばの女だった。黒いコートに身を包み、肩にかかる髪が雨に濡れている。化粧は薄いが、目の下に隈がある。何日も眠れていない顔だ。廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、女の顔を不規則に明滅させていた。コートの裾から覗く指先が、封筒の縁を白くなるほど握りしめている。雨の匂いが廊下から流れ込んできた。湿ったアスファルトと、かすかな排気ガスの残り香。女の靴は革のパンプスで、つま先が水を吸って色が変わっていた。急いでここに来たのだ。傘も差さずに。

「探偵をお願いしたいんです。兄が——兄がいなくなったんです」

声が途切れた。唇を噛み、感情を押し戻すように一度深く息を吸ってから、女は続けた。

「人探しは専門外だ。警察に行け」

「警察には行きました。動いてくれません」

よくある話だ。成人の失踪は事件性がなければ後回しにされる。だが神崎には関係ない。

「他を当たってくれ」

ドアを閉めようとした。女が封筒を差し出した。

「この写真を見てください。お願いします」

押しの強さに、神崎は一瞬動きを止めた。封筒を受け取り、中から一枚の写真を引き抜く。

港湾エリアの駐車場。夜間に望遠で撮影されたらしく、粒子が粗い。スーツの男が二人、車の脇に立っている。一人は背中しか見えない。もう一人は——

神崎の指が止まった。

呼吸が浅くなる。写真を蛍光灯の下に持っていき、目を凝らす。壁に貼られた現場写真に振り返る。規制線の向こうの男。横顔。頬骨の角度。顎のライン。

同じだ。

こめかみの血管が脈打つのがわかった。指先が冷たくなる。三年間、毎晩この壁を睨み続けた。拡大コピーを何度も作り、知り合いの似顔絵捜査官にまで頼んだ。それでも辿り着けなかった顔。その同じ顔が、見知らぬ女が持ち込んだ一枚の写真に、鮮明に映っている。

三年間探し続けた顔が、今、手の中にある。

写真を持つ手が震えているのに気づき、神崎は意識して指に力を込めた。喉の奥に込み上げるものを飲み込む。感情を表に出すな。まだ何もわかっていない。だが心臓が言うことを聞かなかった。鼓動が耳の奥で反響している。

「——入れ」

ドアチェーンを外す手が、かすかに震えていた。

女は名乗った。瀬川美月。兄の名は瀬川隼人。公安部の現職刑事だという。三週間前から連絡が途絶え、職場に問い合わせても「長期休暇中」としか答えない。公安の案件は秘匿性が高いが、兄は必ず週に一度は連絡をくれる人間だった。それが完全に消えた。

「最初は仕事が忙しいんだと思いました。でも二週目も三週目も——自宅に行ったら、郵便受けがいっぱいで。部屋の中は、出かける準備もしてない状態で」

美月の声が震えた。テーブルの上のマグカップを両手で包み込むようにして、指先の震えを止めようとしている。コーヒーの湯気が美月の顔の前で揺れていたが、彼女は一口も口をつけなかった。

神崎はソファに座った美月にコーヒーを出しながら、表情を読んだ。嘘はついていない。怯えは本物だ。だが、それよりも——

「この写真。どこで手に入れた」

「兄の部屋にありました。引き出しの二重底に隠してあって——他にも資料が少し」

「どんな資料だ」

「港南再開発に関する書類です。企業名とか、金額とか。でも私には意味がわからなくて」

港南再開発。その四文字で、神崎の背筋に電流が走った。

宮藤が死ぬ直前、追っていた案件。汚職の匂いがすると言っていた。詳細を聞く前に、宮藤は殺された。そして神崎は警察を追われた。

偶然か。

偶然で片付けるには、符合が多すぎる。

「お前の兄貴は、何を追ってた」

「詳しくは教えてくれませんでした。ただ——『これが終わったら大きいぞ』って。嬉しそうに」

宮藤も同じことを言っていた。同じ言葉。同じ高揚。そして同じように消えた。

神崎は煙草の煙を細く吐き出し、天井を見た。染みだらけの天井板に、煙が薄い層を作って漂う。宮藤が死んだあの夜も雨だった。電話を取らなかった自分を、三年間責め続けてきた。あのとき出ていれば。五分早く着いていれば。携帯の着信履歴に残った宮藤からの最後の発信——午後十一時四十二分。その三十分後に、宮藤は路地裏で冷たくなっていた。もう一人の刑事が同じ穴に落ちようとしているなら——今度は、間に合わなければならない。

神崎は写真をデスクに置き、壁を見上げた。三年分の断片。繋がらなかった点。その隙間に、今、新しいピースがはまろうとしている。

「依頼料は——」

「いらない」

美月が目を見開く。

神崎は壁の写真を一枚剥がし、美月が持ってきた写真の横に並べた。同じ男。同じ影。三年前の死と、三週間前の失踪。

「これは俺の問題でもある」

煙草に火をつけた。煙が天井に昇り、蛍光灯の光に溶ける。三年間止まっていた歯車が、軋みながら回り始める音が聞こえた気がした。

美月が持ってきた残りの資料。そこに何が書かれているのか。それを確かめれば、宮藤の死の真相に——

神崎の視線がデスクの上の写真に戻る。港湾の駐車場。二人の男。そのうちの一人の顔。

三年間、壁に問い続けた答えが、ようやく動き出す。

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