第1話
第1話
雨が、弾丸のように降っていた。
東京湾岸、午前二時。埠頭に並ぶコンテナの隙間から、神代蓮は暗い海を見ていた。潮の匂いが鼻腔を刺す。湿った空気が肺の奥まで染み込み、冷たい海水の味が舌の奥に残った。波が防波堤を叩く低い音が、雨音の下で規則正しく脈打っている。右手に握った使い捨ての端末が短く振動し、画面が白く灯った。
新規指令。
蓮は親指でロックを解除する。表示された情報に、一瞬だけ目の動きが止まった。
写真の中の顔は、子供だった。丸い頬。肩にかかる黒髪。どこかの学校の制服を着て、不器用に笑っている。カメラを意識した、ぎこちない笑顔。誰かに撮ってもらった写真だろう。背景にはぼやけた桜並木が写っていた。
白石ユキ。十四歳。
その下に赤字で一行。
「排除優先度:最高」
蓮は写真を拡大した。瞳の色、骨格、身長推定値。逃走パターンの予測。最終確認地点は湾岸エリアの廃ビル群。すべて実務的な情報だ。ただし、一つだけ欠落している。
理由。
なぜこの少女を殺すのか。ファントムの指令書には常に排除理由のコードが記載される。情報漏洩、裏切り、口封じ。どれかが必ずある。今回は空欄だった。
「——」
蓮は端末を上着の内ポケットに滑り込ませ、コンテナの壁に背中を預けた。雨粒が金属の表面を叩く音が、絶え間なく響く。背中に伝わるコンテナの冷たさが、薄い上着を通して肩甲骨に食い込んだ。左の腰にグロック19。右の脚にコンバットナイフ。予備のマガジンは二本。子供一人を始末するには過剰な装備だった。
だが、ファントムが最高優先度をつけた標的だ。過剰ということはない。
腕時計を確認する。作戦開始まで四十分。
蓮は目を閉じた。
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七年前に死んだことになっている。
陸上自衛隊第七特殊作戦群。最年少で三佐に昇進し、非公式作戦の指揮を執った。部下は十二名。全員が蓮のために死ねると言い、蓮もまた彼らのために死ぬつもりだった。
「鉄の霧」作戦。あの夜、すべてが終わった。
作戦の詳細は記憶から消したわけではない。消せないだけだ。山岳地帯の闇。爆発音。部下たちの悲鳴。目が覚めたとき、蓮は野戦病院のベッドにいて、部下は全員が棺の中にいた。公式記録では蓮も戦死扱いになっていた。
目を覚ました病室の天井の染みを、今でも正確に描ける。消毒液の匂い。点滴の管を伝う透明な液体。隣のベッドは空で、シーツだけが白く折り畳まれていた。看護師が告げた言葉は短かった。「あなたの部隊は全滅しました」。それだけだった。泣くことも、叫ぶこともできなかった。ただ天井の染みを数えた。七つあった。十二名の部下より少ない数だった。
そこからの七年を、蓮は語らない。
軍を追われ、身分を抹消され、行き着いた先がファントムだった。非合法の暗殺組織。依頼を受け、標的を排除し、報酬を受け取る。感情は邪魔だから捨てた。思考も最小限にした。生きているのか死んでいるのか、自分でもわからない。ただ任務がある。任務をこなす。それだけが、神代蓮という抜け殻を動かす燃料だった。
端末が再び振動する。管制からの確認通信だ。
『ゴースト、応答せよ』
蓮はイヤピースに指を当てた。「ゴースト、受信した」
『標的の最終位置を更新する。Dブロック第三棟、四階。単独。武装なし。三十分以内に完了せよ』
「了解」
通信が切れる。蓮はコンテナの壁から背中を離し、雨の中に踏み出した。
武装なし。単独。十四歳。
条件だけ見れば、最も容易い部類の仕事だ。制約時間も余裕がある。障害要素はゼロに近い。
それなのに、最高優先度。
蓮は足を止めた。右手を見下ろす。
震えていた。
ごく微かに。常人には気づけない程度の振動。だが蓮にとって、それは異常だった。十年間、どんな標的の前でも、この手は震えなかった。政治家を撃ったときも。元同僚を始末したときも。
なぜ今、震える。
子供だからか。違う。子供の標的は過去にもあった。あのときは何も感じなかった。
では何だ。この、腹の底に沈む鉛のような違和感は。
直感。戦場で培った、言語化できない警告システム。第七特殊作戦群の時代、この直感が蓮の命を三度救った。無視すれば死ぬ。だが従えば、任務が遅延する。
ファントムは遅延を許さない。
蓮は深く息を吐いた。白い呼気が雨に溶けて消える。
「——関係ない」
呟きは自分に向けたものだ。理由が空欄だろうが、直感が騒ごうが、蓮の仕事は変わらない。指令を受け、標的を排除し、報告する。それだけだ。それだけでいい。
グロックのスライドを引き、初弾を装填する。乾いた金属音が雨音に紛れた。
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廃ビル群は東京湾の埋立地に点在する、再開発計画が頓挫した残骸だった。
街灯はない。足元のアスファルトは割れ、雑草が隙間から伸びている。蓮は暗視スコープなしで歩いた。闇は敵ではない。七年間、闇の中で殺してきた。目はとうに順応している。
Dブロック第三棟。鉄筋コンクリートの骨格だけが残る八階建て。窓ガラスはすべて割れ、風が建物の内部を吹き抜けていた。一階のエントランスに足を踏み入れる。腐った木材と錆の匂い。足元にガラスの破片が散乱している。
音を立てずに歩く。
階段を上がる。二階。三階。四階。
各フロアの気配を探りながら、蓮は呼吸を整えた。心拍数は安定している。筋肉に余分な力は入っていない。すべていつも通りだ。
いつも通りのはずだ。
四階の廊下に出る。奥から微かな光が漏れていた。懐中電灯か、あるいは携帯端末の画面。蓮は壁に沿って音もなく接近した。
光源は突き当たりの部屋。ドアは失われていた。壁の隙間から中を確認する。
いた。
部屋の隅。コンクリートの壁に背中を預け、膝を抱えて座っている小さな影。手元のスマートフォンの光が、少女の横顔を青白く照らしていた。
白石ユキ。写真と同じ顔。ただし、写真にあった笑顔はない。
疲弊しきった、虚ろな目。何日も眠っていないような隈。頬はこけ、唇は乾いてひび割れていた。追われる人間の顔だ。蓮は何度も見てきた。逃げ続け、食べることも眠ることもできず、ただ時間に削られていく人間の最後の表情。あと数日もすれば自分から動けなくなるだろう。放置しても同じ結果になる。それでもファントムは蓮を送った。確実に、今夜中に。
少女の傍らには、コンビニの袋が一つ置かれていた。中身は空の水のペットボトルと、食べかけのパンの袋。それがこの子の全財産なのだと、蓮は一目で理解した。
距離、約八メートル。グロックの有効射程内。この距離なら外さない。
蓮は銃を構えた。サイトの中心にユキの頭部を捉える。
人差し指がトリガーにかかる。あと三ミリ引けば終わる。報告書を書いて、報酬を受け取って、明日もどこかで誰かを殺す。いつも通りの夜が続くだけだ。
引け。
指が動かなかった。
三ミリが、途方もなく遠い。
サイトの向こうで、少女の黒髪が風に揺れた。割れた窓から吹き込む夜風が、部屋の埃を舞い上げている。蓮の鼻腔にコンクリートの粉塵と、微かに——雨に濡れた髪の匂いが届いた。それは銃口の先にいるのが、データでも標的でもなく、体温を持った一人の人間であることを、身体が思い出させる匂いだった。
ユキがゆっくりと顔を上げた。スマートフォンの光が消え、闇が二人の間を満たす。
少女は蓮がいる方向を、正確に見ていた。
暗闇の中で。暗視装置もなしに。まるで最初から、蓮がそこにいることを知っていたかのように。
蓮の背筋を、電流のような感覚が駆け抜けた。これは異常だ。訓練を受けた兵士でも、この暗闇で人の位置を正確に捉えることはできない。なのにこの少女は——武装なし、訓練なし、十四歳の民間人が——蓮の立つ位置を、寸分の狂いなく見つめている。
そして口を開いた。
「——来ると思ってた」
蓮の指が、トリガーの上で凍りつく。
静寂。雨音だけが、割れた窓から流れ込んでくる。
少女の声は震えていたが、言葉は震えていなかった。
「あなたが来るって、わかってた。だって——」
ユキの目が、闇の中で蓮を射抜く。
「私の中に、あなたのことが全部入ってるから」
蓮の手が、今度こそはっきりと震えた。