Novelis
← 目次

月蝕文字の探偵

第3話 第3話

第3話

第3話

酒場の裏口をくぐり、私が借りている屋根裏部屋へ戻ったのは、夜明けまで一刻ほど残した頃合いだった。

港区からの帰り道、裏路地を選びながら、私は頭の中で文字列を何度も書き直していた。第九符号「告」の下に引かれていた二本の導線。あれが示すのは、書き手の予告だ。続きを書く意思がある。書くべき場面が用意されている。刻まれなかった言葉は、次の死体の胸に現れる。

外套を脱ぎ、壁に掛けた。指先にかすかに残る蝋の匂いを、水差しの水で洗い流す。水は冷えていて、掌の皮膚が一瞬だけ引き攣った。その冷たさが、まだ頭の中で駆け回っている推論の熱を、少しだけ鎮めた。水を一口、喉に落とす。鉄錆の味がした。この屋根裏の水甕は古い。いつも水がかすかに金気くさい。その金気の匂いが、倉庫で嗅いだ血の匂いとどこかで重なり、私は水差しを机の上に置いた。

窓の外、運河の向こうで鐘楼が四刻を告げた。

私は壁際の古机に紙を広げ、炭の折れた先で、倉庫で見た文字列を記憶から書き起こした。十七画の本文、止符の省略、そして第九符号。導線の角度、刻みの深さ、余白の幅。皮膚という歪んだ紙面に描かれたそれを、平面の紙上に翻訳し直す作業には、思いの外、時間がかかった。指の腹で炭の粉を押し広げながら、私は何度か線を引き直した。死体の胸の肋骨の起伏を平面に戻すには、曲率の分だけ線を伸ばさねばならない。伸ばしすぎれば意味が崩れ、足りなければ符号にならない。炭の粉が爪の間に黒く溜まり、紙の右端には汗で滲んだ指紋の跡が残った。

書き終えた紙を机の端に置き、椅子の背にもたれた。天井の木目が、薄明りの中で暗号のようにうねって見える。私の目は既に充血しているはずだったが、眠気は不思議と遠かった。

——次がある。

それが確信として胸の底に沈んでいた。重い、冷たい確信だった。喜びではない。むしろ、読むべき文字列がこの世に増えていくことへの、名状しがたい恐れに近かった。月蝕文字は、読まれるために書かれる。読む者がいて初めて、文字は意味を持つ。この王都でそれを読めるのが私ひとりだとしたら、書き手は私に向けて書いている。私のためにだけ、皮膚を切り裂いている。

その「次」がいつ来るのか。文法上、第九符号の後に続く語には、時制を伴うものが多い。私は記憶の底から、王朝第七期の判決文集を引きずり出した。月蝕文字で書かれた量刑記録の中に、似た構文があった。「告——〇日——執行」。連結符号の後に、日数と動詞が挟まれる書式。

だとすれば、導線の長さは、挟まれる数字の桁数と、おおよそ一致するはずだった。

私は紙に書き写した導線の寸法を、指の幅で測り直した。指の関節の第一節から第二節まで、そこに導線はちょうど収まる。王朝第七期の書式表では、一桁の基数詞は指一節分、二桁は二節分、と寸法が決まっていた。書式は時代が下っても大きくは崩れない。

——一桁の数字を挟む長さ。

昼過ぎ、私は酒場の二階の窓辺で、焼きすぎた黒パンを口に放り込みながら、表通りの気配に耳を澄ませていた。朝のうちは平穏だった王都の空気が、徐々に粘つき始めている。通りを歩く者の足音が速い。二人連れが立ち話を始めると、その声は低く、そして切れ切れだった。黒パンの表面の焦げが、奥歯の間で砕けて苦みを残す。喉に引っかかった欠片を、ぬるい麦湯で流し込んだ。窓の下、野菜籠を抱えた女が、いつもの倍の速さで石畳を踏んでいた。

バルドが階段を上がってくる重い靴音がした。

「レイン。下に来てみろ」

声はいつもより低かった。バルドは多弁な男ではないが、その短い呼びかけに、何か確信めいた緊張が乗っていた。私は黒パンの残りを皿に戻し、袖口で口元を拭って立ち上がった。

私は階下へ降りた。酒場の扉が開け放たれ、昼の明るさが土間に差し込んでいる。店先の石畳に、数人の男女が集まっていた。行商の老婆、魚売りの娘、港湾の荷役夫。皆が一様に同じ方角を指差している。指の先には、広場の掲示板があった。老婆の指は震え、魚売りの娘の袖口は濡れたまま、荷役夫の手は泥で汚れたまま。仕事を途中で放り出して集まったのだと、それだけで分かった。

広場の掲示板に、黒山の人だかりができていた。

私は人の肩の隙間から首を伸ばした。掲示板の中央、衛兵隊の布告の上に、乱暴に貼られた一枚の紙がある。紙面には、粗い筆致で描かれた文字列。

月蝕文字だ。

正規の書式ではない。導線が乱れ、刻画のつもりで引かれた線は震えている。書き慣れた人間の筆ではなかった。しかし——文字そのものは、読めた。

背筋の皮膚が、内側から粟立った。読めてしまう、ということ自体が、今の私にとっては一種の罪状だった。半年前、私はこの王国で「読める最後の一人」ではなくなったはずだった。議場で誰もが口を揃えて、月蝕文字は死んだ文字だと宣言したのだ。

私は人垣をかき分け、掲示板に近づいた。紙の端に、小さく朱で「公示」と記されている。誰かが面白半分に死体の文字を写し取り、掲示板に貼り出した。衛兵隊が事件を伏せようとした形跡すら、この速度では間に合わない。

掲示板の前で、魚売りの娘が隣の男の袖を引いていた。「ねえ、何て書いてあんの。読める人いないの」

男が首を振る。「衛兵が読めねえもんを、俺らが読めるわけねえだろ」

老婆が痰の絡んだ声で割り込んだ。「また、あの胸を切られたやつだってよ。今度は写本課の坊ちゃんだそうだ」

荷役夫が吐き捨てるように言った。「写本課ってなあ、半年前に月蝕文字を埋めた連中だろうが。埋めた文字で埋めた奴が殺されるたあ、皮肉が過ぎらあ」

その言葉に、周囲の数人が低く笑った。乾いた、落ち着かない笑いだった。

——第二の殺しが、起きている。

掲示された文字列は、倉庫で見たものとは違った。新しい本文だ。しかも、冒頭の二画が異なる。「告」ではなく、「数」の符号。

数字が刻まれている。

私は黙って人垣を離れ、裏通りを抜けて港区へ向かった。貼り紙の出所を辿れば、第二の現場に行き着く。掲示板に貼られていたのは、誰かが現場で書き写した転写だ。転写する時間があったということは、第二の死体は、すでにしばらく前から発見されていた。

第二の現場は、司法省の裏手にある写本課の倉庫だった。

到着した時、建物の周囲には既に衛兵が非常線を張っていた。私は遠巻きに、崩れかけた煉瓦塀の陰から中を窺った。裏口から運び出される担架。白い布の下から覗く、痩せた手首。革袖の縁に、宮廷書記官特有の灰色の襷紐が見える。指先のインク染みが、陽の下でも消えていなかった。筆を握り続けた者の指だ。その指を、私は見覚えている気がした。

グレイル。

名は覚えていた。司法省書記官グレイル・ウェイン。半年前の裁定会議で、議事録を取っていた男だ。ドルクスと同じ七人のうちの一人ではない。だが、彼らの発言を文字に残した者。記録を書いた者が殺された意味を、私は即座に理解した。書き手は、「誰が何を言ったか」ではなく、「それを誰が文字にしたか」を問うている。発言は風に消える。だが、記録は残り、残った記録こそが罪を確定させる。月蝕文字を「死んだ」と宣告したのは七人の評議員だが、その宣告を文字として固定したのは、グレイルの手だった。

衛兵たちの口から、断片的な言葉が漏れてきた。「胸に……また、あの文字が……」「解読班は何をやっている」「民衆が騒ぎ出している、早く封鎖を」

若い衛兵の声が一段上ずった。「隊長、広場の貼り紙は剥がしましたが、書き写した奴がもう三人は確認されてます」年嵩の声が応じた。「写したもんを焚くわけにもいくめえ。文字を見た奴の口まで塞げるか」

私は塀の陰で、懐から先ほど広場で写し取った紙片を取り出した。指先が、自分でも意外なほど冷たくなっていた。

冒頭の二画「数」。その次に続くのは、日数を示す固有符号。私は指で一画ずつなぞった。

——五。

続く符号は、第十二符号「後」。「五日後」。

さらにその後に、人数を示す三画の連結符号と、基数詞「三」。

「次は五日後、三人目」。

確信した瞬間、塀に預けた背中の皮膚が、布越しにひやりと冷えた。煉瓦の目地から染み出した湿気が、外套の裏地を通して肌に届いたのか、それとも自分の血が一瞬だけ退いたのか、区別がつかなかった。

王都の広場で、衛兵隊の解読班は今もこの文字列を前にしているはずだ。そして、読めない。読める者が、この王国にはもう存在しないと、彼ら自身が半年前に宣言したからだ。

私は紙片を畳み、懐に戻した。畳み目に、先ほど写し取った時の炭の粉がわずかに残っていて、指の腹が黒く染まった。その黒を、私は外套の裏で拭わなかった。残しておいた方がいい気がした。

——五日。

人を殺すのに十分な時間だ。そして、殺される者が誰かを予告するには、短すぎる猶予だった。

日が傾いた頃、酒場に戻った。

夕方の客はまばらだった。事件の噂は既に王都の末端まで届いており、人々は家路を急いでいる。裏路地の酒場にさえ、粘ついた空気が流れ込んできていた。バルドはカウンターの奥で、黙ってグラスを磨いている。私が店に入った時、彼は顔を上げたが、何も訊かなかった。訊かないことが、この男の流儀だ。訊かれなかったことに、私は少しだけ救われていた。

私はいつもの端の席に座り、水で割ったエールに口をつけた。舌先の酸味が、今朝と変わらない。変わったのは、私の腹の底にある重みだけだった。

扉が開いた。

蝶番の軋む音が、いつもより長く尾を引いた気がした。入ってきたのは、長身の女だった。濃い灰色の外套に、兜を脱いだ後の乱れた黒髪。腰に帯びた短剣の柄には、宮廷調査官の紋章が彫られている。半年前、議場の端に立ち、私の追放を黙って見届けた目を、私は覚えていた。

「ミーシャ」

名を呼んだのは、私の方が先だった。彼女は返事をせず、まっすぐにこちらへ歩いてきた。そして、私の向かいの椅子に腰を下ろすより先に、一言だけ口にした。

「あなたしか読めない暗号で、人が殺されている」

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 月蝕文字の探偵 | Novelis