Novelis
← 目次

七人ミサキの帰還

第3話 第3話

第3話

第3話

水谷翔子のアカウントは、あの投稿の三十分後に凍結された。

規約違反ではない。アカウントそのものが消えたのだ。投稿も、プロフィールも、過去の写真もすべて——最初から存在しなかったかのように、タイムラインから蒸発していた。スクリーンショットは撮ってある。宿帳の写真。私の筆跡。「おかえりなさい」の一行。画像データとして保存したそれを、朝になって三度確認した。何度見ても私の字だった。木偏が大きい「柊」の癖。高校の頃からずっと直せないまま大人になった、あの書き方。

だが、今はそれに構っている余裕がない。

二番目の廃墟の所在地は、昨夜のうちに特定していた。千葉県南部、海沿いの丘陵に建つ旧・海鳴総合病院。十五年前に閉院し、解体費用の問題で放置されたまま残っている。失踪者リストの二人目、古書店主の桐生蒼介が最後に目撃されたのは、この病院から車で十分ほどの国道沿いのコンビニだった。防犯カメラに映った桐生は、棚から何も取らず、ただ窓の外を——病院がある丘のほうを——じっと見つめていたという。

午後八時に現地に着いた。

旅館とは違う。病院は旅館よりもずっと大きく、ずっと無機質だった。鉄筋コンクリートの五階建て。正面玄関のガラスは割れ、自動ドアのレールが錆びて固まっている。懐中電灯を点けて中に入ると、受付カウンターの上に天井板が崩れ落ちていた。消毒液の匂い——いや、もう十五年前のものが残っているはずがない。ここにも別の匂いがあった。昨夜の百合ではない。古い紙の匂い。インクと、糊と、長い時間をかけて酸化した繊維の匂い。図書館の閉架書庫に似た、密閉された知識の残り香だった。

桐生の匂いだ、と思った。あの古書店の空気そのものだった。

受付の横にある案内板を確認した。一階が外来、二階が検査室と処置室、三階以上が病棟。投稿のまとめサイトで見た断片的な情報によれば、桐生に関する「痕跡」は三階で発見されたという報告がある。階段を上った。非常灯はとうに切れていて、懐中電灯の光だけが頼りだった。二階の踊り場を過ぎたあたりで、足元に散乱していた書類の上を踏んだ。カルテの束だった。患者の名前が読める。知らない名前ばかりだ。ただ、カルテの隙間に挟まるようにして、一冊のノートが落ちていた。

革装の手帳だった。表紙に名前が刻印されている。

桐生蒼介。

手が止まった。レコーダーを確認する。録音中。時刻を読み上げ、発見状況を記録する。それから手袋を嵌めてノートを拾い上げた。

最初のページを開いた。日付は二年前の六月。桐生が失踪した月だった。

〈この場所に辿り着いた。導かれた、というほうが正しいかもしれない。怖くはない。不思議と、怖くない。ここにはあの匂いがある。私の店と同じ匂い。紙と時間の匂い〉

万年筆の端正な筆跡。古書店主らしい、流れるような文字だった。ページをめくる。日付は数日おきに記されている。内容は日記のようでもあり、手紙のようでもあった。

〈夜が長い。でも寂しくはない。ここには声がある。誰かが私の名前を呼んでいる。温かい声だ。私はこの声を知っている気がする〉

〈食事をしていない。何日も。なのに空腹を感じない。体が軽い。重力が少しずつ私を手放しているような感覚がある〉

十ページほど読み進めた。日付が飛んだ。失踪から三ヶ月後。筆跡が変わっていた。それまでの流麗な文字が、震えるような線に変わっている。だが内容は取り乱したものではなかった。

〈柊さんが来てくれると信じていました〉

一行だけ、ぽつりと書かれていた。名指し。私の名前。三ヶ月前に失踪した人間が、閉院して十五年経つ病院の中で、私が来ることを待っていた。前提として、この場所を私がいつか訪れることを知っていた。二年前の時点で。

次のページを開いて、息が詰まった。

文字がなかった。代わりに、ページ全体を覆うように描かれた図形——螺旋。中心から外縁に向かって巻いていく渦が、万年筆の細い線で幾重にも重ねられていた。筆圧が一定ではない。太くなり、細くなり、ところどころで紙が破れるほど強く押しつけた跡がある。螺旋は正確な幾何学図形ではなく、生き物の這った跡のように有機的な歪みを持っていた。

次のページも、螺旋。その次も。その次も。残りのページすべてが、同じ螺旋模様で埋め尽くされていた。ある段階から桐生は言葉を手放し、この模様だけを描き続けていた。最後のページは特に密度が高く、螺旋が何層にも重なり合って、インクが滲んだ黒い渦になっていた。近づけて見ると、螺旋の線の一本一本が微細に震えている。描いた人間の手が震えていたのか、あるいは線そのものが——。

目を離した。ノートを閉じた。古い紙の匂いが指先に移っていた。

三階の病棟を調べた。長い廊下の両側に病室が並んでいる。桐生がどの部屋にいたのかを探したが、痕跡らしいものは見つからなかった。代わりに気づいたのは、廊下の壁だった。ペンキの剥がれた壁面に、うっすらと模様が浮いている。染みか、汚れか。懐中電灯を当てて確認した。

螺旋だった。

ノートに描かれたものと同じ渦が、壁のペンキの下から滲み出すように浮かび上がっていた。ペンや塗料で描かれたものではない。壁の材質そのものが変色し、模様を形成している。カビ、と判断することもできたが、カビがこれほど正確に螺旋を描くはずがなかった。

それは一箇所ではなかった。廊下を進むたびに、壁に、天井に、床のリノリウムに、同じ螺旋が見つかった。数が増えていく。奥へ進むほど密度が上がる。最奥の病室の前では、壁全体が螺旋模様で覆われていた。懐中電灯を壁に近づけた。模様の中心——渦の最も深い部分——に、何かが埋め込まれていた。紙片だった。壁と塗料の間に挟まった小さな紙切れを、指先で慎重に引き出した。

桐生の筆跡だった。日記と同じ万年筆の文字で、一行だけ書かれていた。

〈ここは怖い場所じゃない。寂しい場所だ〉

紙片をノートに挟んだ。それ以上この階にいるべきではないと、体が判断していた。理屈ではなく、あの旅館の布団の前で膝が折れかけた時と同じ種類の警報が、脊髄のどこかで鳴っていた。階段を降り、正面玄関から外に出た。夜気が肌に冷たかった。振り返ると、病院の五階建ての壁面が月を背に黒く聳えている。三階のどこかの窓が、来た時には割れていたはずなのに、今は閉じているように見えた。

桐生のノートは持ち帰った。証拠だ。物証。失踪者が残した肉筆の記録。だがそれ以上に——「柊さんが来てくれると信じていました」という一文が、頭から離れなかった。桐生は待っていた。私を名指しで。あの穏やかな古書店主は、怪異に囚われた暗がりの中で、私の名前を書いて待っていた。

午前二時、自室に戻った。シャワーを浴びて、ようやく指先の紙の匂いが薄れた。ノートはデスクの上に置いた。明日、改めて全ページを撮影する。今夜はもう読み返す気力がない。

歯を磨いて電気を消した。布団に入り、目を閉じた。眠れるとは思わなかったが、体は限界だった。意識が薄れていく。暗闇の中で、桐生の螺旋模様がまぶたの裏に残像のように回っていた。

——午前四時。何かの気配で目が覚めた。

音ではない。光でもない。部屋の空気の質が変わっていた。あの「歓迎」とは違う。もっと静かで、もっと近い、何かの存在感。

布団の中で目を開けた。天井を見つめた。暗い。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、天井にぼんやりとした四角を描いている。

その光の四角の横に、模様があった。

体が硬直した。

螺旋だった。天井の白い壁紙の上に、灰色がかった線が浮かんでいる。描かれたものではない。壁紙の繊維が変色し、あの病院の壁と同じように内側から滲み出している。渦の直径は三十センチほど。中心がゆっくり回転しているように見えるのは、目の錯覚だと信じたかった。

上体を起こした。デスクの上の桐生のノートに目をやった。閉じたまま置いたはずのノートが、最後のページを開いた状態になっていた。あの最も密度の高い螺旋のページ。部屋に古い紙の匂いが充満していた。

天井の螺旋から視線を外せなかった。見つめていると、渦の中心に吸い込まれるような感覚がある。あの布団の前で膝が折れかけた時と同じ——底のない安堵が、頭蓋の内側に手を伸ばしてくる。

私は立ち上がり、部屋の電気をつけた。蛍光灯の白い光の下で、天井の螺旋は消えなかった。むしろ明るい場所でこそ、その輪郭ははっきりと見えた。

病院に置いてくるべきだったのか。それとも、ノートとは関係なく、これは最初から起こるはずだったことなのか。

壁に手を触れた。指先に伝わるのは、普通の壁紙の手触りだった。冷たくもなく、濡れてもいない。模様は表面ではなく、壁紙の内側——あるいはもっと深い層で起きている変化だった。

桐生のノートを閉じた。匂いは変わらなかった。壁の螺旋も消えなかった。

この部屋にも、何かが根を下ろし始めている。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 七人ミサキの帰還 | Novelis